26 一つめの夢
階段を駆け降りたソフィは玄関ホールを抜け、外に繋がる扉を開いた。
広くなっていく隙間から一気に外気が流れ込み、袖のレースをばさばさと揺らす。
外はいつのまにか吹雪いていた。横殴りの雪。まるで白い闇の中にいるようだ。
ガウンの前を両手でかきあわせ、意を決して外へ踏みだす。
髪は激しく乱れて顔を叩く。
「え、嘘。なに?」
城門に向かおうとしたソフィは足を止めた。
向かうべき場所に、人がいたから。
大人の男が十人以上は立っている。その誰もが屈強で、弓矢を持っている。
「どうしよう。どっちに行けばいいの?」
おろおろと辺りを見回すソフィに気づいたのだろう。男たちの一人が、剣を掲げた。
「エルヴェーラ嬢を捕らえよ。決して逃がしてはならぬ」
弓に矢がつがえられる。矢の先端がソフィに向けられた。
「嫌よ、わたしは……」
必死に抵抗しようとしても、かすれた声は風の音に紛れてしまう。
ソフィが少しでも移動すれば、彼女を狙う弓矢もそれに応じて動く。
レイフに命じられた馬賊なら、ソフィを殺すことはないはずだ。
「そうよ。怪我したって、生きて帰れるならそれでいい。目指すは正面突破よ」
ソフィは門に向かって走り出した。
布製の靴はすぐに湿って濡れてしまう。つま先が凍りつきそうに痺れるが、ソフィは駆けた。首から包帯の端をなびかせながら。
前方、雪に覆われた地面に矢が刺さる。
「止まれ!」
「止まれって言われて、止まるバカはいないわよ」
突き立てられた矢を蹴倒して進む。
カッカッ。矢とは違う、異質な音が聞こえた。
積雪が、地から空へと戻るように散っている。
何かが来る。
ソフィは目をすがめて、その正体を探ろうとした。
天からも地からも舞う雪の中を、馬がやってくる。雪を蹴散らしながら。
馬上には、風を受けて乱れる黒髪の男性。その姿は雪に紛れているけれど。
彼のたくましい腕がソフィに向かって差し出される。
「ア……」
アラン、アランだ。アランがここにいる。
久しぶりに見る彼が、滲んでぼやけていく。
だめだ、泣いたりしちゃ。大好きなアランが見えなくなる。
「来いっ! ソフィ」
駆けだしたソフィの背中に、アランが腕を回す。今にも馬から落ちそうに身を乗り出しているのに、左腕だけでソフィの体を馬上に抱え上げた。
外套に包まれたアランの体は冷えきっている。
ソフィはただ必死で彼にしがみついた。
「弓兵っ!」
空を仰いでアランは声を張り上げた。ソフィを前に座らせ、即座に馬を駆けさせる。
それと同時だった。空から矢が降ってきたのは。
ふり返ったソフィが見たのは、城壁の上に並ぶ弓兵と、矢を受けて散り散りに逃げる馬賊だった。
「馬賊の馬は? あいつら、門に入っても馬に乗っていたはずだけど」
「厩舎のそれぞれの馬房に錠をつけて鍵をかけておいた。厩舎の中には入れるが、馬を外に出すのには相当時間がかかる」
馬房といえば、下半分に扉があって上半分は馬が頭を出せる仕組みになっている。
人は厩舎の中に入れるから餌をあげることはできるだろうけど。馬が跳躍して外に出るだけの広さはないはずだ。
「でも、馬房ってたくさんあるんじゃないの? 馬賊だもの」
「これだけあれば充分だろう」
口元をにやりと歪ませて、アランは胸元から紐につけられた鍵の束を取りだした。
十個どころじゃない、二十個はありそう。
いったいどこで用意したのだろう。
「ベアタを家に送っていった時に、錠と鍵を渡された。馬を奪えば馬賊は機動力が落ちる。エルヴェーラを助けてあげてほしい、と」
「ベアタに会ったの? あの子が、わたしのことを?」
「ああ。すぐに和解は無理かもしれないだろうが。いつか、ちゃんと話せるといいな」
ぽたり、と庭木の枝の先から雫が落ちて来た。
雪は降っているのに、低い位置にある太陽が雲間から光を放つ。
弱々しい陽射しではあるが、水の粒は光を受けて煌めいた。
春はまだまだ遠いが、永遠に訪れない訳ではない。
ざわめきが後方から聞こえる。
城壁からの攻撃を避けた馬賊が、ソフィたちに向かって矢を射た。
アランは舌打ちすると、馬を早駆けさせた。樹の幹に刺さる矢、城の石壁にはね返される矢。
それらをかわして、アランは庭の奥へと向かった。
ガラスで覆われた建物は温室だろう。中には緑が溢れ、明るい色の花が咲いている。
「ソフィ。この中に隠れていろ」
「アランは?」
「すぐに戻る」
だが、ソフィは鞍から降ろされまいとアランの腕にしがみつく。
顔を上げることはできない。だって、そうしたらアランの困った表情を見ることになるから。
「……ソフィ。我儘は言わないでくれ」
「いやっ。我儘じゃない。わたしだって戦えるもの。アランがわたしを鍛えたのは、今の為じゃないの?」
アランの腕がこわばるのが、ソフィの頬に伝わった。
ゆっくりとした動きで、彼の空いた手がソフィの頭を撫でる。
「ああ、そうだな。そうだった。俺はこの時を想定して生きていたんだ。キルナ城に残る者には、ソフィのことを一生構わずに放っておいてほしかったが、それは俺の都合のいい願望でしかない。令嬢としての作法やしとやさかを奪ってでも、お前には生きのびる強さを掴んでほしかった」
「うん」
ソフィはうなずいた。
いらない、不要だ。女性らしい弱さやしとやかさは、アランの足を引っ張ってしまう。
「わたしはアランに守られたいんじゃないの。アランと一緒に戦いたいの」
アランの深い色の瞳が、ソフィを見つめる。
その表情はもう困ってはいなかった。
「分かった。なら状況を説明する」
城壁の上で待機していたのは、グンネル配下の軍人であること。以前から中央に対して造反の気配のある馬賊を捕らえるために、エルヴェーラが拉致されるのを見逃したこと。
以前のソフィだったら「あの人は、わたしのことを利用したの?」と怒ったかもしれない。
(でも、わたしには利用価値があるんだ。それを否定してもどうにもならない)
「城に向かう仕立て屋を買収し、グンネルは彼女に扮して乗り込んだ。驚いたぞ。レイフとエルヴェーラが結婚すると聞いて」
「結婚の件は、わたしもびっくりしたよ」
「そうか……そうだよな。いや、ソフィが了承するはずがないのは分かってるんだが」
「なんで確信を持ってるの?」
ソフィはアランの袖をくいっと引っ張った。
「なんでって、お前。それは」
とたんにアランが口ごもる。
説明しようとして口を開くが、言葉は出てこない。
額を手で押さえ、瞼を閉じるとアランはうつむいた。
「……参ったな。言葉にすると、すごく傲慢になりそうだ」
「いいよ。言って」
「いや、しかし」
「わたし、夢見てることが二つあるの。アランの考えは、きっと正解のうちの一つだから」
そう、ずっと子どもの頃から願っていた。
とても大切な夢で……でも、アラン本人に向かっては言えないこと。
真剣な気持ちが伝わったのだろう。アランはソフィに向き直ると、深く呼吸した。
それまで揺らいでいた彼の瞳が、まっすぐにソフィを見つめる。
「ソフィは俺以外の奴と結婚したいと思わないだろうし、俺もそれを認めない。俺はソフィを誰にも渡さない」
ソフィは輝く笑顔でうなずいた。
「一つめ、正解」




