23 極光の下で
ベアタは自分で塩漬け肉と野菜の煮込みを食べようとしたが、スプーンを持つことができても左腕の火傷のせいで器を持つことができずにいる。
「ほら、食わせてやるよ」
アランはベアタから食器を受け取り、スプーンを彼女の口元に運んだ。
「えっと、その……」
「遠慮している場合か。まずは元気になって体力をつける。それが一番だ」
恥ずかしがるベアタに有無を言わせずに、湯気の立つ煮込みをすくったスプーンを彼女の口元に近づける。
「猫舌じゃないな?」
「へ、平気っ」
ベアタは慌ててスプーンを奪って自分で口に運んだ。
「……なんなの、この人」
「育児に慣れてんのよ。でも一歩間違うと、女たらしよねぇ」
渋い表情でグンネルは煮込み料理を食べている。元気がなさそうだったのに、食欲は旺盛だ。平パンをちぎっては口に放り込んでいる。
にぎやかな食事。地面に敷いた布に座ってではあるが、焚き火の温もりがいつもの食卓を思い出させた。
アランは瞼を伏せて、小さく息をつく。
「やだ、どうしたの。元気ないじゃない」
「……ソフィがいない」
ぽつりと洩らすと、グンネルと目が合った。アランははっとして拳で目元を拭う。
「ベアタ。この辺りって熊が出没するのかしら」
「いえ、聞いたことはありません」
「なら野営しても問題ないわね。三人で一つの天幕になるけど平気かしら。本当は早く家に送り届けてあげたいんだけど」
しっかりしないとな、とアランは苦笑した。
グンネルは、アランの涙を見ずにいてくれたのだ。
夜更け。
雪あかりで天幕の外は仄白く発光して見える。
眠っているグンネルとベアタを起こさぬように、アランは外に出た。
吐く息は白く、きらきらと輝く粒が見える。
空には緑色の極光が揺らめいている。
ソフィもこの極光を見ているだろうか。それとも寝ているだろうか。
(俺の夢を見ているといいのに……)
頭に浮かんだ考えに、思わず赤面してしまう。
アランは慌てて周囲を見回した。
よかった。二人とも起きてはいない。
「お前がいないと、傍らにぽっかりと穴が開いてるように思えるんだ」
それはまるで塩の入ってないスープのように。靴底の抜けた靴のように。把手の外れたドアのように。
(いかん。俺には言葉選びのセンスがなさすぎる)
白いため息は、闇に吸い込まれるように消えていった。
「いや、いやいやいや。別にポエムを読むわけじゃないんだし。詩的なセンスなんかいらないだろ」
自分の考えを否定するために、アランは思わず声を上げた。
空にはたゆたう極光と、型抜きした白い紙を貼りつけたかのような三日月。
その時、ばさりと天幕がめくれる音が聞こえた。
「夜中にうるさいわよ」
寝ぐせのついた髪で起きてきたのは、グンネルだ。
いかにも機嫌悪そうに眉間にしわを寄せている。
「ちょっと話、いい?」
「あ、ああ」
低く感情のこもらない声に、アランは気を引き締めた。作戦会議の結果を聞くかのように、軍人時代に戻った感覚だ。
「朝になったら、あんたがベアタを家に送り届けなさい。私がソフィを連れ戻しに行くわ。どのみち馬賊の本拠地は叩いておかないとね」
「いや、それは……」
「上官命令よ。元だけどね。王都の軍に応援を呼んであるわ。プーマラを出る時に、カスパルに頼んでおいたのよ」
「なんでそんなに有無を言わせないんだ」
教えてやるかという風に、グンネルはアランに背中を向けた。
けれどその背中が、以前よりも細く見える。気のせいだろうか。
「なぁ、これから訊くことについて間違っているなら、違うと言ってくれ」
「……内容によるわね」
「ベアタの母親は、エルヴェーラの乳母なのか?」
「なんでそう思うの?」
「顔が似ている。ベアタの年齢がエルヴェーラと同じだ。乳母には赤ん坊がいるもんだろ」
ゆっくりとグンネルがアランの方を向いた。
「あんたもそう思うのね」
グンネルの背後で揺らめく極光が、まるで彼女に絡みついているように思えた。
「私はね、乳母の顔を覚えていないわ。ただひどい殺し方をしたのは、記憶にある。エルヴェーラの情報を引き出すために、いらぬ苦痛を与えた」
「ああ」と言いそうになって、アランは口を噤んだ。それがマクシミリアンの記憶だから、というわけではない。
あの時、軍規違反をしたのは自分の方であり、辺境伯の叛意を徹底的に叩き潰したグンネルの行動は、たとえそれが胸糞悪い残虐な物であっても、正しいものだからだ。
「私はいつか報いを受けるわね」
グンネルはぽつりと呟いた。
木の枝から雪が落ちる音が聞こえた。積雪を踏む微かな音。
ふり返ると、ベアタが立っていた。青白い顔をした亡霊のように。
「……あんたが……母さんを」
ベアタは手に紙を握っていた。グンネルをにらみつけ、殴りかかろうとして走りだす。
けれど火傷の痛みに顔をしかめ、そのまま雪に足を取られてころんだ。
グンネルは無表情で彼女に向かって歩いて行く。腰の革ベルトからナイフを外し、それをベアタの前に放り投げた。
「いつかじゃなくて、今だったわね」
顔に雪を付けたままのベアタは、手を地面についた状態でグンネルを見上げた。
瞬きすら忘れた瞳に、憎い相手が映っている。
「おい、それは違うだろ」
アランは思わず声に出した。
母親を殺したことがばれたから、今度は仇を討てとか。そういうもんじゃないだろ。
「……任務だから母さんを殺したの? ただそれだけ?」
「そうよ。そうだったわ」
ベアタは唇を強く噛みしめた。
「誰かの命を奪えば泣く人がいること、苦しむ人がいることに考えが及ばなかった。自分の家族に同じことをされたら、怒り狂うでしょうに。愚かね……」
「反省してるから、許してって言うつもりなの?」
ベアタが雪に足をめり込ませながら、グンネルの元へ向かった。手にはナイフを握りしめ。
けれど、ベアタは切っ先をグンネルには向けない。何度も右腕を上げようとしては、また手を下ろす。
「仇を討たないの?」
「……もうやめてほしい、敵に気遣われたくなんかない。嫌なんだよ。また自分が誰かを殺しそうになるのが。死んでなくて、ほっとして。でも、そいつが生きてるのがやっぱり許せなくて……こんな気持ち、知らない。知りたくなかった!」
徐々にベアタの声は大きくなり、最後は闇を震わせるほどに叫んだ。
「あたしは! あの子を殺そうとした。もう少し力を入れたら、きっと死んでた。なのに、あの子は!」
それがソフィのことだと瞬時に分かったアランは、緊張で身を硬くした。
ベアタを詰問しそうになる己を抑えるので精一杯だった。
(落ち着け、落ち着くんだ。きっと死んでた、と言うのならば、ソフィは無事だ)
もしソフィに危害を加えたのがレイフなら、力任せに殴り飛ばしていただろう。だがベアタにも事情がある。
我慢するんだ、耐えるんだ。アランは、自分にそう言い聞かせた。
激昂するベアタと冷静なグンネル、二人の様子がどこか遠い世界のような、薄い膜の向こうの出来事のように感じられた。
この世界に引き戻されたのは、続くベアタの言葉を聞いたからだ。
「あの子は……エルヴェーラはあたしを助けて、母さんの伝言も渡してくれたんだ」
重そうに腕を上げると、ベアタは皺のよった紙片を開いた。
そこには、アランの革の手袋にしみついたインクと同じ青で文字がしたためられていた。
――今夜もベアタの瞼にキスをしましょう。きっともう眠っているでしょうけど。おやすみなさい、愛しい子。良い夢を。
ベアタは歯を食いしばっていた。そうでもしないと、嗚咽を洩らしそうなのだろう。洟をすする音、溢れる涙を何度も拭っている。
「こんな風に書かれたら……あたしだって愛されてたんだって知ったら……どうしたらいいのよぉ」
「母親に愛されていないと思ったのか?」
「エルヴェーラを憎むことが生きる支えだった。レイフが彼女の愛らしさ、美しさを語るたびに、彼の愛情も母さんの献身もすべて手に入れたあの子が憎くて」
アランは首を傾げた。
レイフがエルヴェーラの美しさを語った?
「その話を聞いたのは、いつのことだ」
「え? 確か、あたしが城に勤めだした頃だから。四年前だけど。えっ?」
自分の話す内容が噛みあわないことに気づいたのか、ベアタは落ち着かない様子で視線をさまよわせた。
エルヴェーラの所在が分かったのは最近のはず……と、ぶつぶつと口の中で呟いている。
「レイフが讃えているのは本当にエルヴェーラなのか? 誰かの面影を彼女に投影してるのではないか」
思い当たる節はある。あるなんてもんじゃない。
絶命したばかりの、まだ温もりが残る辺境伯夫人。苦しむ前に亡くなった夫人は、娘によく似た面立ちをしていた。
「あ……あの子が、愛されてたんじゃないの? 身代わりだったの?」
ベアタの表情から、すとんと険しさが抜けた。酒瓶の底の澱のように濁った気配が消えていく。
(エルヴェーラが好かれているんじゃないと分かって、気が済んだんだな。満足なんだな。あんたの感情は歪んでいるが、それでいい。ソフィにこれ以上害を加えないのなら)
グンネルとベアタの関係も、彼女たちが自分で考えることだ。
任務を遂行する上で躊躇なくベアタの母を殺したことを、グンネルは簡単に謝罪しないだろう。
たとえ彼女自身が己の非道さ、冷徹さを受け入れられずに悩んでいたとしても。いつか、時間が彼女の背を押すのを待たなければならない。
そしてベアタもエルヴェーラを襲った事実を後悔しても、単純に「ごめんね」なんて言うはずがない。
暗い天にゆらめく極光は、彼女たちのもつれ合った感情の揺らぎのように見えた。




