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21 逃げて

 焦げ臭いにおいに、ソフィは目を覚ました。

 上体を起こそうとすると息苦しさに咳きこみ、喉が痛む。


(そうだった。ベアタに首を絞められたんだったわ)


 肘をベッドにつき、乱れた銀髪の間から辺りを見回す。

 室内では、レイフが棒状の物を持って立っていた。

 彼の側にはうずくまるベアタ。二本の三つ編みが床につくほどに、うなだれている。


「ああ、よかった。気が付かれましたか、エルヴェーラさま。ベアタがあなたさまに無体を働いたこと、深くお詫びいたします。すぐに新たな侍女を雇いましょう」

「何をしているの?」


 レイフが手にしているのが火掻き棒であることに、ソフィは気付いた。

 しかもその細い先端はよほどの高温なのか、赤くなっている。


「あ、あたしは謝らないわ。この城に戻って来たあの子が悪いのよ」

「誰がしゃべって良いと言いましたか」


 レイフが火掻き棒をベアタの三つ編みに近づけた。髪の焦げる異様なにおい。

 ぼとりと左の三つ編みが床に落ちた。

 ベアタは恐怖に瞠目している。


「お前が是非お世話をしたいと申し出るから、エルヴェーラさまを任せたのです。これまで従順なふりをしていたのは、私を騙すためですか。エルヴェーラさまに対して舌打ちし、茶をかけた時点で解雇すべきでしたね」

「悪いのはあたしじゃないわ。人を犠牲にしてのうのうと幸せに生き延びているあの子が悪いのよ」

「うるさいですね」


 無表情のままでレイフはベアタの腕に火掻き棒を近づけた。


 ぎゃあ! と、つんざく悲鳴。黒いメイド服の袖が焦げ、ベアタの腕が火傷を負う。


「やめ……やめて」


 ソフィはベッドから降りようとしたが、足がふらついてそのまま床にしゃがみこんだ。


「ああ、なんとおいたわしい。首に指の跡が残っているではありませんか」


 暖炉に火掻き棒を突っ込んで、レイフがソフィを支えようと近づいた。ソフィは「来るな」と彼を手で追い払う。


「ご安心を。まずはあなたさまの首を絞めたベアタの指を焼きましょう。次は同じように首がよろしいですか? それともうるさい口を焼きましょうか?」

「そんなの……望んでない」


 苦しい息の中で、ソフィは訴えた。

 ベアタの暴力を許せるほど心は広くないけれど、無関係のレイフが彼女を虐待するのは違う。筋が通らない。


(わたしは復讐したいわけじゃない)


 ソフィは服の胸元に手を入れて、中からメモを取りだした。温かさの残るメモには皺が寄っている。


「ベア……タ。これを……」


 腕と膝で床を這いながら、ソフィはベアタの元へ向かった。焼け落ちた三つ編みが手に絡みつく。

 水の中を進むかのように体は重く、指にまとわりつくベアタの三つ編みは藻のようだ。

 苦しい浅い呼吸、少し動くだけで息が上がり目眩がする。それでも届けなければならなかった。


 さほど広いわけではない子ども部屋。なのにベアタがしゃがみこむ暖炉は、地平線の彼方かと思えるほどに遠い。

 震える右手を伸ばすと、支えを失ったソフィの体がバランスを崩して床に倒れ込んだ。


「これを……」

「あんた。なんで、そんなことを」


「読んでほしいから……あなたに」


 目眩のせいで、床が波打つように感じられる。


 渡さなきゃ。無理矢理つれてこられた城だけど。わたしがキルナに来た意味は、これ以外にないのだから。

 身を乗り出したベアタが、ソフィが握りしめたメモを手に取る。


 くしゃくしゃになった紙を見つめたベアタは、こぼれそうなほどに目を見開いた。

 その瞳は揺らぎ、今にも泣きだしそうに眉を寄せている。


「……母さん」


「走って、ベアタ。逃げて、お願い」


 このままじゃ、あなたはレイフに殺される。

 

 エルヴェーラさえいなければ、偽りの平穏な日々を送れたかもしれない。

 けれどエルヴェーラを憎むベアタのこと。いずれレイフとの間に軋轢は起こったはず。

 煮出し過ぎた薬湯をぶちまけたような苦々しさ。レイフの執着は手に入れることができずに、ただ描き続けるしかなかったイヴォンネに対するものだ。


 エルヴェーラはただの身代わりでしかない。


「いないのよ……エルヴェーラなんて……。もう、いてはいけないのよ」


 そうでしょう? 


 ベアタが階段を駆け降りる音が、小さくなっていく。

 

◇◇◇


 キルナ地方を訪れるのは、十三年ぶりだ。

 吐く息の白さに、ここが北の果てであることをアランは思い出した。


 馬の手綱を握る手には革手袋をはめている。

 買い換えようと思いつつ、そのままになっていた古い手袋。指の腹の部分が何か所か薄くなり、指先がかじかんでいる。


「頭痛がするくらい寒いわね」


 前を行く馬に乗るグンネルがしゃべると、たばこの煙を吐いているのかという程に、白い塊が空中に現れては消えていく。


「なんであんたがついて来るんだ。俺は一人で行くと言ったはずだ」

「ばっかねー。マクシミリアンを一人で送り出せるわけないでしょ」

「そんな奴は知らん」


 グンネルは首の回りにストールを何重にも巻いているが、肩をすくめたのが後ろからでも分かる。


「不安なのよ。あんたがまたどっかに行っちゃうんじゃないかって」


 微かな声は、道の両脇にそびえる針葉樹から落ちる雪の音と重なった。


 考えなかったわけじゃない。十三年前に残してきた家族、友人、同僚のことを。

 それでも自分はソフィを選んだのだ。その選択は間違いではなかったと信じているし、誰にも間違いだとは言わせない。


 なのに……。


 アランは唇を噛みしめた。

 プーマラの丘で開かれる朝市で、卵売りのハンナがソフィと話したのが、あの子の姿が目撃された最後だ。

 坂の途中に落ちていたかごと、散乱した卵。どろりと流れた卵白、土にまみれ潰れた卵黄。踏まれて粉々になった殻。


 ソフィの名を、どれほど呼んだだろう。喉が張り裂けるほどに叫んだだろう。

 だが、いつものような明るい返事は返ってこない。馬鹿の一つ覚えみたいにキスをせがむ声も聞こえない。


 アランは商家の若旦那であるカスパルに馬を借り、そのままこのキルナまで駆けた。

 カスパルに王都への伝言を頼んでいたグンネルも、同行した。


 悪態をついてしまったが、実際グンネルがいたのは幸いだ。彼女に勧められなければ、薄着で手袋もはめないままで、北の果てまで来ていただろう。


 ひり……と、指先がかじかんで痛んだ。


 手綱を握る手にはめているのは、古びた革の手袋だ。

 アランは冬でも手袋をはめないから、タンスの奥を引っ掻きまわして探しだした。


 手袋に染みついた青いインクは色褪せ、それだけの時が経ったのに、まだソフィは十三年前につきまとわれている。


 乳母の涙がしみこんでいるようで、あれからアランは手袋をはめることも捨てることもできずにいる。


「……情けねぇな」

「そうね。軍人としては、これまでのあんたの人生は情けないわね」


 グンネルは容赦がない。

「だけど」と、彼女は言葉を続けた。


「あんたは私にできないことをしているわ。その点は立派よ。私だったらエルヴェーラのことは即座に殺してた」

「……だろうな」


 だから、俺は軍やグンネルから離れざるを得なかったんだ、とアランは心の中で呟いた。


「一人罪あれば、三族に及ぶ。それを疑ったことはなかったわ。あんたに再会するまではね」


 針葉樹の枝に積もった雪が落ちたのだろう。どさりと大きな音が聞こえた。

 真っ白な森の中、雪の剥がれた枝の一部分だけが黒々とした穴のようだ。


「でも、今回の件は辺境伯の一族ではなく関係者が起こしたこと。家臣やその周辺すべてを皆殺しにしたとして、彼らにも家族はいる。じゃあ、家臣や関係者の家族も殺すの? ほんと……果てがないじゃない」

「グンネル」

「洗っても洗っても、血の臭いがとれない気がするのよ。退役するまで、私はあと何人殺せばいいの?」


 ふり返らないまま語るかつての友人の背中は、疲れているように見える。


「私の生き方とは相反するけど、エルヴェーラを寂しい子にしなかった。その点で、あんたはえらいのよ」

「それは……褒めてくれているのか?」

「あー、やだやだ。どうせなら軍人として部下として褒めてやりたかったわよ」


 グンネルの声は高く早口だ。

 きっとこれまで誰にも洩らさなかったであろう、彼女の本音。

 短い髪の間から見える彼女の耳が、赤く染まっているのは寒さのせいばかりではないだろう。


 北の果ての昼は短い。さっき携帯用の平パンを食べたところだから、まだ午後も早い時刻だ。

 だがすでに日は山に沈み、重い雲から雪が落ちてくる。

 積雪の上に、新たな雪が音もなく舞い落ちる。


 辺境の町は遠く、道に人影もない。鳥が鳴くわけでもなく、森に鹿やウサギの姿もない。

 動いているのはアランとグンネルと、それぞれの馬だけだ。


「誰かぁー! 助けてっ!」


 突然、静寂を破った叫び声に二人は驚いて馬を止めた。


 アラン達に向かってきたのは、黒いスカートを翻して走る少女だった。

 銀の髪の右側は三つ編みなのに、左側は肩よりも短くてぼさぼさだ。しかも袖は破れて腕が露わになっている。


「おい、どうした」


 馬から飛び降り、アランは少女に向かって駆けだした。


「あ……っ」


 少女は顔を歪ませた。安心して気が抜けたのか、つまずいて転ぶ。

 硬い雪の道に激突する寸前で、アランは少女を抱きとめた。


 彼女の腕は赤くただれていた。


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