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18 北へ

 アランは一度立ち止まったけれど、首を傾げてまた歩き出してしまった。きっと自分の名前が呼ばれたのを、空耳と思ったのだろう。


「もうっ、今すぐにアランの所に行きたかったのに」

「あのような野蛮な男など、放っておきなさい。エルヴェーラさまに相応しいのは、このレイフでございます。さぁ、私と共にキルナに戻り、彼の地の栄華を取り戻しましょう」

「却下却下却下!」


 ソフィはかごに入った卵を掴むと、レイフに向かって投げつけた。くしゃりと軽い音を立てて、レイフのおでこで卵が割れる。青白い顔を伝って流れていく黄身と白身が、なかなかにシュールだ。


「卵なら、まだまだあるわよ」


 武器としてはいささか心もとないけど。生卵をぶつけられて喜ぶ輩もいるまい。なーんて考えたのが甘かった。


「新鮮な卵ですね。私に投げつけるにも、鮮度にこだわってくださる。ああ、エルヴェーラさまは本当にお優しくていらっしゃる」


 ぞぞぞっ。背中を毛虫に這い上がられたような心地がした。


「違うし、エルヴェーラじゃないし。ああ、もうハンナの卵は新鮮さが命。うわーん、もったいないよぉ。オムレツにしたかったのにぃ」


 もう自分でも何を言ってるのか分からないけれど、ソフィは手当たり次第に卵を投げる。どれもレイフのおでこに命中しては、じゅるんと口の中に生卵が吸い込まれていく。

 怖いよ、この人。ソフィは空になったかごを抱えて涙目になった。


「さぁ、私と一緒に参りましょう」

「やだってば! ア……」


 アランの名を叫ぼうとした時、坂の下で彼に手を振るグンネルの姿が見えた。とても小さくてマッチ棒くらいだけど、走ってくるグンネルと立ち止まるアランの様子がはっきりと分かる。

 坂の上から吹き下ろす風が、枯葉を道の端に集めていく。上着を着ていないソフィは身を震わせた。


「……寒いよ、アラン」


 一歩踏み出すと、足の下で卵の殻が砕け散った。

 ハンナのアドバイス通り大人になって、秘密は秘密のままで、これまで通りに暮らしていけると思ったのに。

 そんなのは所詮まやかしだ、上手くいくはずがないと、もう一人の自分が囁いている。

 踏みだすはずの一歩を、後ろに退く。靴の裏で卵の殻は白い砂のように粉々になっていた。


「御身を大切になさってください。このレイフの為にも、あなたのことを第一に考えていた者の為にも」


 肩にかけられた上着はずっしりと重く、革の匂いが鼻をかすめた。


「あのアランという男は本名を隠し、我々からエルヴェーラさまを奪った悪党です。グンネルの元配下で、あなたの両親や家族を惨殺したと言うではありませんか。きっとエルヴェーラさまのことも、利用価値があるから生かしておいたのです」

「……アランはそんなことしない」

「いいえ。悪人はえてして善人の仮面をかぶるもの。本当に善人であれば、エルヴェーラさまに本当のことを話していたでしょう。嘘をついても良心の呵責に苛まれないのですよ、奴は」


 レイフはアランの悪口を並べ立てている。確かにソフィがエルヴェーラであることをアランは明かしてくれないけれど、それも理由があってのことだと信じている。

 なのに、どうして? グンネルとアランが仲よさそうにしているだけで、その信頼がぐらつくの? 


「……帰りたくない」

 グンネルがいる家には。


 ぽつりと呟いた時、レイフが坂に沿って並ぶ家に向かって顎を上げた。家と家の間から、革の上着を羽織った男たちが現れる。

 何事と思う間もなく、ソフィは口をふさがれた。

 悲鳴も叫び声も、男たちの手の中に消えた。遠くて小さなアランの姿が、霞んでいく。

 ぼやけた視界の中、アランが坂の上をふり返ったような気がした。


◇◇◇


 不規則な揺れに気分が悪くなり、ソフィは目を覚ました。口には布をかまされ、両手を縛られた状態で座らされている。

 頭を巡らせて辺りの風景を確認する。見慣れない針葉樹の森。深い緑の木々は粉砂糖をまぶしたように、うっすらと雪がかかっている。

 空は灰色で、雲間から覗く太陽が雪を照らして辺りは眩しく煌めく。


「キルナ地方です。エルヴェーラさまの故郷でございますよ。懐かしいでしょう?」

「エルヴェーラとか知らないし。懐かしいわけないじゃない」

「おやおや、強情なお嬢さまですね」


 レイフと彼が握る手綱の間に、ソフィは座らされている。どうやらプーマラから馬で北方まで駆けてきたようだ。こいつに遭遇したのは朝だったけど、太陽が西に傾いているということは、夕暮れが近いのだろう。

 っていうか、こんな長時間馬に乗ったことがないから、お尻が痛いよ。


「どうなさいました? このレイフに何でもお話しください」

「絶対、いやっ!」

「夫婦の間に秘密があるのは、感心しませんね。私は自分の趣味まで明かしているというのに」


 はい?

 あまりにもさりげない言葉を、聞き逃してしまいそうになった。


「えーと、誰と誰が夫婦なの」

「ああ、言葉が正確ではありませんでしたね。夫婦となる者の間に、でございますね」

「答えになってない」と声を上げた時、後ろについていた馬上の男たちが、一斉に馬を走らせた。うっすらと積もった雪が宙に舞い、薄いヴェールをかけたようになる。


 道の左右に延々と続く森、その果てにある運河の向こう、石造りの城が建っていた。両端には円塔、城壁の向こうに見える二階建ての城は豪奢というよりも、無骨でさえある。


「カシアとの国境に近く、ウェドにとっては砦でもありますからね。強固な外観に反して、中は美しいですよ」


 運河に掛かる橋の両端に、それまでついていた男たちが並んでいた。馬に乗ったまま整列し、レイフとソフィを迎える。


「エルヴェーラさまを再びこの城にお迎えできるとは、今日は記念すべき日となりましょう」

「下ろして」


 ソフィはもがくが、レイフの両腕と手綱の間に閉じ込められたまま、逃れることができない。


「二人でこの地を統治する。夢のようですね。ようやくあの旗も、元の位置に戻すことができます」


 眩しそうに目を細めて、レイフは城を見上げた。キルナ地方を象徴する白地に深い緑の十字が染め抜かれた旗。それは旗竿の半分の位置で掲げられていた。

 


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