17 伯父と姪でなくても
さ、寒い。ソフィは風の冷たさに身を震わせた。
アランとグンネルの話がいたたまれなくて、思わず家を飛び出したけれど。上着を羽織るのを忘れてしまった。
(アランは元軍人で、グンネルさんと親しくて。わたしを……エルヴェーラを助けるために、マクシミリアンとしての生活を全て捨ててくれたんだ)
それまで走っていたけれど、急な坂道で足が重くなり立ち止まった。
拳を握り、唇を噛みしめる。
彼の優しさに甘えすぎてしまった。ただの他人なのに……。伯父と姪でなければ恋をしても構わないと思っていたのに。実際にそれが事実と分かると、こんなにも不安でしょうがない。
だってアランがわたしの手を離したら、もうそれで繋がりが本当になくなってしまうもの。
目には見えない脆い気持ちに、縋りつくしか方法がないなんて。
「ソフィ! どこだ」
後方からアランの声が聞こえる。ソフィは慌てて坂を駆けのぼり、市場に並んだ露店の陰に身を隠した。
今は会いたくない。違う、会いたい。でも会えない。どんな顔をして出ていけばいいのか分からない。
「おんや、ソフィじゃないか」
隠れた露店は、どうやら卵売りのハンナの店だったらしい。台の上には卵が丁寧に並べられている。
「ははーん、アランに叱られたね。おねしょって年でもないし、アランのとっておきのお菓子を黙って食っちまったのかい?」
「……別に」
普段とは違うソフィの暗い反応に、ハンナは眉をしかめて、でっぷりとした自分の腰に手を当てた。
「一緒に謝ってあげようか? なんならあたしが焼き菓子を持ってってあげるよ」
「ありがと。でも、いい」
ソフィは、力なく微笑んだ。ハンナの優しさは嬉しいけれど。そんな単純な悩みだったら、良かったのにと思う。
足音が近づいて来る。走っては立ち止まり、また走りだす。見なくても分かる、アランだ。昨日の傷と熱のせいで、まだ本調子じゃないんだ。
走らないで、無理しないで、とアランを止めたい。
だけど今戻ったら、きっと問い詰めてしまう。わたしがエルヴェーラなんでしょ、と。
「ああ、ハンナ。ソフィを見なかったか?」
「ちょいと、アラン。あんた、なんで寝間着なんだい?」
「そんなことは、どうでもいいから」
ハンナに隠されて、アランの姿は見えないけれど。彼の息が上がっているのが分かる。
もういいから捜さないで。ソフィは膝を抱えてうずくまった。
「あー、ソフィねぇ。あたしゃ、見てないねぇ。アラン、いくら朝が早いとはいえ、もうちっとマシな格好で出ておいで。そんなんじゃ色男が台無しだ。ソフィにも嫌われちまうよ」
「俺の見た目なんか、どうでもいいから。何か手掛かりがあれば教えてくれ」
「んー、そうだね。そういやあんたん家の方に走ってくソフィを見たねぇ。もう戻ってんじゃないのかい?」
「そうか。感謝する」
ハンナ越しに聞こえるアランの声は、明るく弾んでいた。そのまま「家に戻ってみる」と伝えて、足音は遠くなっていった。さっきよりも軽やかな足取りだ。
その時、飛び交う鳥のさえずりや、市場で吟味する人々の賑やかな話し声が、初めて聞こえた。
どれほど自分が緊張していたのかを悟って、ソフィは吹きだした。
「アランのバカ。嘘の情報なのに、確かめもせずに信じるなんて。きっと将来、詐欺にあうよ。わたしが目の前にいるのに『ソフィが馬車で事故を起こして、示談金が必要だ』なんて詐欺師に言われたら、すぐに現金を用意しそう」
「だよねぇ。馬鹿だよね、アランは。けど、それだけソフィのことが心配なんだろうさ」
ハンナがしゃがみこんで、ソフィの頭を撫でてくれる。座るとお腹が邪魔なのか、なかなかに苦しそうだ。
「ハンナ、わたしね……知っちゃいけない秘密を知っちゃったの」
「アランが守り通していた秘密かい?」
ソフィがうなずくと、ハンナはゆったりと微笑んだ。化粧っ気のない顔なのに、その表情はとても温厚で美しく見えた。
ハンナがどこまで気付いているのかは、分からない。でも明らかに容姿の違う伯父と姪を、詮索することもなく受け入れてくれた。テオドルが貼りまくったエルヴェーラの紙も、目にしているはずなのに。
「アランの件は、知らないふりをしておあげ。今はまだ真実を口にできる時じゃないんだろうさ。アランは図体はでかいけどね、あたしから見りゃ、まだまだ子どもだからね」
「ハンナとアランは、そんなに年齢違わないよね」
「男なんて、いくつになっても子どもさ。ソフィが大人になってあげな。真実を掘り返すことで、傷つく人もいるのさ」
これを持ってお行き、とハンナはかごに卵を入れて渡してくれた。
「ありがとう、ハンナ」
ソフィはかごを片手で持ち、露店のテントを支える柱に手をかけて、ひらりと陳列台を飛び越えた。
赤に緑のリンゴ、夏の間に干したベリーやジャム、川で捕った魚にアンズ色のキノコ、細いニンジンを束ねた鮮やかな橙色。市場には色と匂いが溢れていた。
(そうだ。ハーブのお茶を淹れるんだった。この卵でオムレツも作ろう)
グンネルのことも、エルヴェーラの件も、いつかアランが話してくれる日が来るかもしれない。
その時を待とう。
(わたしはいい女になるんだから)
市場から家に向かう道は下り坂なので速い。前方に小さくアランの後ろ姿が見えた。
「アランーっ!」
卵の入ったかごを両手で抱えているから、手は振れないけど。ソフィは大事な人の名を呼んだ。
伯父と姪でもいい。伯父と姪でなくてもいい。アランと一緒にいられるのなら、それだけで満足だ。
アランが立ち止まるのが分かった。ふり返る顔は遠くてよく分からないけど。多分、呆れてる。
なのにアランは両腕を広げてくれた。ソフィを迎えるために。
特大のオムレツを作ったら、喜んでくれるかな。潰したカニを入れたら、コクが出てもっとおいしくなるけど。新鮮な卵だから、シンプルな調理の方がいいかな。アランはどっちがいいって言うだろう。
「おや、これは素晴らしい卵ですね。エルヴェーラさまがお持ちになると、普通の卵すらもオパールであるが如く尊く見えます。卵は誕生の象徴と祝福。我らの希望であるお嬢さまに相応しい」
「ひっ」と短い悲鳴をソフィは上げた。
目の前に飛び出してきたのは、辺境伯の騎士であるレイフだ。右腕に包帯を巻き、顔色は青白い。
(気持ち悪っ。普通に「止まれ」とか言われた方が、よっぽどマシよ)
けれど坂道を駆け降りるソフィは、そう簡単には止まれない。しかも早朝に霧がかかっていたらしく、石畳の道はよく滑る。
「避けてー」と叫びながら、腰を落として滑りつつ、ついでにレイフに足払いをかける。
レイフは体を退けることもなく、ソフィの足をまともに受けた。よろけはするが、何とか転びはしなかった。ちぇっ。スピードが足りなかったか。
「光栄でございます。エルヴェーラさまが直々にこの身を蹴ってくださるとは。お望みとあらば、何度でもあなたさまの蹴りを受けましょう」
「蹴ってないし、蹴りたくないから」
「エルヴェーラさまが、我が身に印を刻んでくださる。何と素晴らしいことか」
「変な言い方しないでよ。ただの青痣でしょ」
こんな奴の相手をしてる暇はない。ソフィは再び走りだしたが、腕をレイフに掴まれた。
「どうぞ、このレイフにお慈悲を」
「ひぃぃぃー!」
やだやだ。嫌いなのよ、変態って!




