11 通りすがりの女神
ソフィの背中に左腕を回し、右手で握った剣をアランはレイフに向けた。
(よりによって銀髪か。生粋のキルナ人かよ)
舌打ちしたい気分だ。どうせ父親が辺境伯に仕えていて忠義に厚かったとか、そんなところだろう。レイフ自身が騎士でないのは、日陰で育った草のような細さから一目瞭然だ。現に手にしている剣も、こいつには重そうだ。
だが油断はするな。体力や腕力だけが優劣を決めるのではない。
アランはソフィを抱きしめる手に力をこめた。
「アラン。この男が変なことを言うの。わたしのことをエルヴェーラだって。それに我が主って」
アランは眉根を寄せた。今になって辺境伯の令嬢をお飾りにして、反乱を企てるつもりか。
「エルヴェーラ嬢は死んだんだろう? 身代わりの娘を祭り上げたところで、お前らは軍に制圧されるだけだ」
「生きていらっしゃいますよ。ほら、そこにね。赤子であったエルヴェーラ様は見つからずじまい。誰かが連れ去ったと考えるのが妥当でしょう」
レイフは懐から束ねられた革紐を取りだした。いや、鞭だ。紐ではない。目をすがめたアランは、闖入者の武器を見きわめた。
北方の民は馬に乗り、鞭をふるうって家畜を追う。ちゃんと教えたわけでもないのに、ソフィが鞭を扱えるのは血筋なのではないかと思えるほどだ。
風を切る音。アランはソフィを庇ってしゃがみ込んだ。背中を裂く痛みに、歯を食いしばる。
「ア、アランっ!」
腕の中の声は震えている。背の痛みよりも、その悲痛な声を聞く方がつらい。
ああ、そうだ。ソフィ、お前にはいつでも笑っていてほしいんだ。そのためなら俺の人生くらい、いくらでもあげるから。
だから、そんなつらそうな瞳で見つめないでくれ。
何度もアランを鞭打ちながら、レイフは笑っている。まるで縊られた鶏のような、しわがれた声だ。
アランは鞘だけを前方に差し出した。鞭は鞘を避けることができずに、絡めとる。
今だ。アランは剣を握りレイフに突進した。
ずぶり……皮膚を裂き、肉を貫く手ごたえ。
「ひぃ、ひぃぃぃぃーっ!」
「すぐにこの町を去れ。二度と俺達の前に現れるな。次は利き腕だけでは済まない」
レイフの右腕に突き立てた剣を抜く。血のにおいと、赤い色。
嫌いだ。この錆びた鉄のようなにおいも、目に焼き付く色も。十三年前のあの館を思い出させるから。
レイフが立ち去るのを確認し、アランは避難していた教師や生徒を呼び戻した。
柱に貼ってある忌々しい尋ね人の貼り紙を、一枚一枚剥がしていくと、背後からついてくる気配を感じた。
おどおどと、いかにも気弱そうなウサギに後追いされているような気分だ。
「な、なんだよ。ぼくは間違ったことなんか、してないぞ」
「おい、坊ちゃん。口を開けろ」
「は?」
「言われたとおりにするんだ。早く」
有無を言わせぬアランの迫力に、テオドルはためらいがちに口を開いた。
いっそ顎を外してやろうか。そう思いながら、アランは丸めた貼り紙をテオドルの口に突っ込んだ。
うぐぐ……と、テオドルは言葉にならぬうめき声を上げつつ、目に涙を浮かべている。
「余計なことをしてくれたな。父上に告げ口したければ、すればいい。俺も君のお守りの仕事は今後受けるつもりはない」
睨みあげてくる顔は、とりどりの不満で醜く飾られているが。そんなことは知ったことではない。アランは唇を引き結んで、テオドルを見下ろした。
その時、柱廊の光景が歪んだ気がした。どうしたことか、椅子の脚が目の前にある。
「アラン」と叫ぶ、ソフィの声を遠くに聞いた気がした。
◇◇◇
「アランさん、背中の裂傷がひどいわ。医者に診せなくては」
先生が、アランの背中の破れた服にそっと手をかけた。それだけでアランは苦しそうに呻き声を上げる。
眉間に刻まれた深いしわ。そっと額に手を触れると、明らかに発熱している。
てのひらに感じた熱さに、ソフィは息を呑んだ。
「わたし、お医者さんを呼んでくる」
ソフィは立ち上がり、教会を出て道へと進んだ。石畳の道を全速力で走り、医者の家を目指す。
(どうしよう。アランはわたしを助けるために、あえて怪我を負ったんだ)
普段のアランなら、鞭を避けることなんて難しくない。もしソフィがいなければ、身軽に動けたはずだ。
(もしかして……わたしがアランの足を引っ張ってる?)
まるで水底から泡のように不安が浮かんでくる。いや、そんな後ろ向きなことを考えてはいけない。今は一刻も早くアランの傷の手当てをしてもらわないと。
道行く人たちが、通りを走り抜けるソフィをふり返って眺める。
角を曲がり、蔓草に覆われた門の前に立つ。足を止めた途端、額に汗が滲んだ。
木戸を開こうとしたが、動かない。扉に張られた『往診中』の紙が、冷たい風にあおられている。
「なんで? アランを診てよ」
ソフィは拳で医者の家の門を叩いた。
だが返事はない。枯れ始めた蔓草がカサカサと音を立てるだけだ。
汗をかいた肌が、北風に冷えていく。ソフィは身震いして腕をさすった。
このまま医者が戻るのを待っていた方がいいのか。それとも捜しに行った方がいいのか。でも、医者がいつ帰ってくるのかも、どこへ向かったのかも分からない。
「どうしよう……どうしたらいいの。せめて応急手当だけでもできればいいのに」
ソフィの怪我に関しては、アランがいつも手際よく処置してくれる。それに甘えて、ソフィは自分で手当ての仕方を覚えることがなかった。
アランが怪我をしたり、病気になるなんて考えたこともなかったから。
「あなた、大丈夫? 顔色が悪いわよ」
いつの間に現れたのだろう。首筋が露わになった短い金髪の女性が、ソフィの隣に立っていた。
よく日に灼けた肌、手には例の貼り紙を持っている。
「ここ、医者の家よね。あなたが病人?」
年の頃は三十代半ばだろうか。卵売りのハンナより少し若いくらいだろうに、その女性はハンナのような胴回りに肉のついた体つきではなく、すらりとしている。鍛え上げた肉体なのが服の上からでも分かる。
「わたしじゃないんです。アランが……伯父が怪我をして。早く手当てをしないといけないのに」
「怪我? 具体的には? 出血はひどいのかしら」
「む、鞭で打たれたんです。学校に暴漢が乱入して」
もどかしい思いで説明すると、女性は眉をひそめた。
ただの好奇心なら放っておいてほしい。ソフィは道の左右を見遣って、医者が戻ってこないか確認した。
「妙な状況ね。鞭なんて限られた地方の人しか使わないわ。それに伯父さんが怪我をしているってことは、あなたのことを守ったのかしら。伯父さんの名前は?」
「アランです」
「ふーん。簡単な手当てなら、私でもできるけど。任せてみない?」
思いがけない提案に、ソフィは目を輝かせた。一瞬前までただの野次馬だと思っていたのに。今では救いの女神に見える。
荒野で行き倒れそうな者に、優しく手を差し伸べる逞しい女神だ。男性のような短い金髪さえも神々しく輝いている。
「いいんですか? あの、もしかして旅の薬師さんですか」
「んー、薬師ではないけど。怪我の多い仕事だから、薬を持ち歩くことが多いのよ。普段は専門の者に任せてるんだけど。じゃあ伯父さんの所まで案内してもらえるかしら。ああ、あなた名前はなんていうの?」
「ソフィです。お姉さんは?」
にっこりと微笑んで女神は鞄を肩にかけた。どうやらその中に薬や包帯が入っているようで、ガラスの触れ合う硬い音が聞こえた。
「重そうですね。わたしが持ちます」
「あら、いいのよ。馬車に乗せていってもらいましょ」
女神は、石畳の道をやってくる馬車に向かって軽く手を上げた。御者はソフィもよく知っている商家の若旦那、カスパルだ。
馬車は、けたたましい音を立てて止まった。荷が派手にぶつかり合って崩れている。
そういえば、アランの今日の仕事はカスパルの護衛のはずだったのに。
「ソフィ! アランは無事っすか」
御者台から飛び降りたカスパルは、ここが医者の家であることに気づき、ソフィの肩を揺すった。
「無事じゃないの、傷がひどくて。早く手当てをしてもらわないと。このお姉さんを学校まで連れて行って」
「俺に任せるっす。さぁ、二人とも乗って」
荷台よりも御者台の方が揺れないから、カスパルの隣に女神に座ってもらう。
両手で荷物をうんしょと避けながら、ソフィは空間を確保した。汚れた袋が左右から迫ってくる中、膝を抱えて座りこむ。
(これでもう大丈夫。待っていてね、アラン)
祈る気持ちで瞼を閉じたソフィを、御者台の女神が肩ごしに見やった。
「そうしていると、逃亡中のお姫さまみたいね」
「いえ、わたしはそんな身分とは程遠いです。住んでる家も小さいですし」
「あら、でも気品があるわ。育ちはどうあれ、生まれはいいお家なんじゃないかしらね。そういうのって隠せないものよ」
「そういえばお姉さんの名前、聞いてませんでした」
からかわれているのだろうか。泥ガニ確保のために、秋の川に入る姫なんているはずないのに。
「私はグンネルよ。そう呼んでちょうだい」
空の高い所は風がきついのだろう。雲があっというまに流されていく。寒空の下、女神の笑顔はとても鮮やかに見えた。




