005 バビロニアの聖域
その巨大な竜は、大きく息を吸い込んだ。竜の鱗は赤く美しい輝きを帯びている。
「……赤という事は……」
次の瞬間、竜は大きく息を吐き出した。紅蓮の炎と共に!
「ファイアーブレス来たあっ!」
『逃げなさあ──いっ!』
しかし、あっという間に広範囲に広がる炎は、まるで火砕流の様に俺の行き場を奪っていく。「そうか、だからブレスは範囲攻撃なんだな」と納得している──場合じゃねえ! 死ぬっ! マジで直撃したら死ねるっ! 俺は咄嗟に地面を蹴り、後方に跳んだ──いや、飛んだ!
「……えっ!? な、なに?」
そう、俺は一度地面を蹴っただけだった。普通なら良くて一メートル前後だろう筈が、そのまま五メートル程宙を舞い、フワリと着地した。何の衝撃を感じる事も無く(マジかよ!主人公補正来た!)俺は猛然と逃げ出した! 英雄譚は明日からだ! 今日は──逃げる!
後ろを振り返る事無く、俺は草原のなだらかな丘を必死で駆け下りる。命懸けの追いかけっこが始まった。有り得ない! 普通ならスライムとかスライムベス位のもんだろ? 悪くて大ネズミとか! しかし、俺の意見は無視され、竜は本気の追撃態勢に入った様だ。逆巻く風が俺を吹き飛ばす様に近付いて来る。
(まてよ? 確かブレスは連発出来ないし、タメがいるはずだ! なら次は)
後ろを見る余裕など無い! ていうか迫り来る竜なんて恐ろしくて振り返れない!
(来るなら顎か爪か尻尾! 稀に押し潰し! )
死を覚悟するが──俺は速かった。まるで飛ぶ様に地上を駆ける。火事場の馬鹿力なのか、坂だからなのか、分からないが、俺は有り得ない速度で草原を駆け抜けていた。
ドズウッ!
真後ろで竜が地面を抉る破壊音がして、塵や土砂が舞い上がるのが分かる。どんな破壊力なんだよ! 流石は主物質界最強の呼び声高い竜だ。喰らえばほぼ即死であろう物理攻撃を逃げ果せる事で躱した俺は、そのまま塔の見える方に突撃を試みる。
「どう考えても立ち向えるビジョンが湧かないっ!」
そう、今の俺には逃げる以外の選択肢は──無い! 怒れる竜との遭遇──それは死を意味するのだから──と聞いた事がある。異世界からの転生者である俺には未確認情報ではあるが──確認の必要は無さそうだ。
「うぉおおおおおおおっ!」
俺は全力で草原を駆け抜ける! 目指すはあの塔のある水辺だ。建物の陰ならまだ逃げようがある。この草原のど真ん中で怒れる竜と対峙するのは焼いてくれと頼んでいる様なモノなのだ。だが、決して勝つ当てがある訳では無い。
(せめて即死は避けたいっ! 半殺しも困るけど)
右に左に的を絞らせぬ様に、草原の坂を転がり落ちる様に駆け抜けながら、俺は竜の殺気を測る。ブレスだけは危険すぎるからな。いや、十分牙や爪も厄介だが、炎のブレスは範囲攻撃であり、即死効果まであるのだ。
その時──ブンッと言う音が頭上から聞こえた。そしてその次の瞬間、俺は宙を舞っていた。
激しい衝撃と激痛が俺を襲う。
宙を舞いながら、俺はやっと状況を確認出来た。
(尻尾の一撃を喰らったのかっ!)
どうやら俺の予想外の速度に業を煮やし、渾身の尻尾の、どうやら先端を喰らった様だった。油断した。逃げ切れる筈も無いのに。
俺は十メートル近く飛ばされ、やっと地面に転がり落ちた。
だが、転がり続けていた。しかも数十回転はしている。
「な、何で? 何でこんなに転がるんだよ!」
ゴンッ!
「ぐはっ!(い、いてぇっ! し、舌噛んだし!)」
俺は岩が何かにぶつかり、やっと回転を止めた。
どうなっているのか? 普通こんなに転がるのか? ダンゴムシじゃあるまいし。そしてメチャクチャ痛い! つまりまだ生きてるって事だ。
だが、竜はまだ近くにいて俺を狙っているのは間違い無い。
(どれだけダメージを受けた!? 動けるのか!)
俺は仰向けに寝転がり、天を仰ぎながら、全身の状態を探る。
先ずは手と指を……あれ? 感覚が無い。いや、あるのだが──
「何か遠いな」
──いや、逡巡している場合じゃ無い! 逃げなければこのままゲームオーバーだ。
足は……ある。感覚はあるが──
「果てしなく遠い?」
猛烈な違和感が俺を襲った。
そして、全く身体が動かせない事に、気が付いた。
(頚椎断裂で四肢の感覚が無くなったのか? いやそんなもんじゃ無い)
そして、身体が──いや、視界がクルリと回る。逆さまになって俺は地面を頭の上に頂き、元来た方向に、竜を見つけた。思ったよりも飛ばされていたのか、三十メートル近く離れていた。
そして、五メートル手前に、人の残骸を見つけた。
おかしい? 誰かを巻き添えにしたのか? いや、間違い無く、誰も、人っ子一人居なかった。ではあれは誰だ?
全く動かせない体を諦め、それでも必死で眼を凝らすと、その死体には(何故なら首が無かった)見慣れたモノが付属していた。それは俺のと同じ青いリュックサックとワンショルダーバックだった。
「……奇遇だな……いや!そんな偶然ありえんだろ!」
間違い無い、アレは俺のだ。しかもよく見ると俺と同じパーカーにチノパンじゃ無いか!
おびただしく流れ出す血が視界を塞ぎ、地面に流れ出すのを感じる。かなり深手を負っているのは間違い無さそうだ。
「……まさか!? いや…でも」
そして、俺は周囲を必死に、逆さまで天を足元に見ながら──いや足元には無かった。正確には──足元は無かった。
「首だけ、飛ばされたのか!?」
もしかしてコレはあれか? 断末魔とか、走馬燈的なアレなの! まってまって! 何で開幕即死喰らってんのよ!
ゴロッ
「あっ!」
そしてまた──坂道を──転がり始めた。
(ライクあローリングストーん!)
ドズウウッンッ!
そして元いた場所に、いつの間にか宙を舞っていた竜が勢いよく飛び降りて来た。爆風と粉塵が視界を奪う。転がってるから関係ないっちゃ関係無いが。なすがまま、正に手も足も出ない。でも抵抗出来ないなら一思い死にたい。このまま飲み込まれて、竜の胃袋の中でジックリ溶けるのは流石に勘弁して欲しい。
『まだ諦め無いで下さ──いっ!』
その時、また頭の中でオシリィの声がする。
「オシリィ、安楽死希望です。仕方ないのでこのまま元の世界に転送願います! 必可及的に速やかに! このままでは俺は竜のチロルチョコ扱いになる可能性が九割あると予測します」
『大丈夫です! ほら、お迎えが来ましたよ』
「へっ?お迎え?」
そお言われ、転がりながら周囲を必死に伺う。
てっきり天使でも現れるのかと思ったら──違った。
全力で走って来る人影──それは──俺だった。
「うわっ! 気持ち悪いっ!」
そう、俺が必死に俺を追い掛けていた。転がり落ちる俺の頭を、俺の頭無しの身体が必死に追い掛けている。
「てか、俺、足短いな」
『今そこっ!? 竜も迫ってるのに存外肝っ玉が太いんですね? 半引きこもりニートかと思ってましたのに』
「し、失礼な! 俺は無駄な人間関係を排除していただけだ!」
『どちらかと言えばハブられたのでは?』
「ち、違うっ! 確かにそ、そんな気配も──」
その時、再び竜が大きく息を吸い込む。
クールタイム終了、またファイアーブレスが来る!
「……飲み込まれるより焼け死んだ方がまだ……」
『すぐ再生して焼け続けちゃいますよ? 竜が諦めるまで』
「それさらに酷い!」
『何せどりゃきゅ…いえ、ドラキュラ並みの回復、いや、再生能力なんですから!』
噛んだな
いや、再生能力だけあってもあかんだろ? 無限に死に続けるって事になるんじゃないか?
その時、再び竜の咆哮が草原に響き渡り、紅蓮の炎が襲い掛かって来た。
迫り来る炎の壁に、死を意識したその時──
『だから死にませんてば』
「余計悪いわっ!」
──その炎を掻い潜る様に──首の無い王子様が身体の無いお姫様の──頭を鷲掴みにして駆け抜ける。
ムンズッ
「でゅ、でゅらはん! あでででっ! ゆ、指が鼻に入ってるよ!」
てか俺の知らんところで俺の身体が動く乗って少し納得がいかない。てか持ちどころに悪意を感じるのは気の所為か?
『九死に一生を得ましたね!』
「全然良くねえよっ!」
その時──身体が応えた──様な気がした。
身体に鷲掴みにされながら、必死に塔に向かう俺は、必死にリセットボタンを探した。
『本当に手も足も出ませんね』
それでも俺は走り続ける。
指が鼻の中に入ったまま。
『美味しそうなラーメン屋でも、丼中に指が入ってるとムカつきますよね』
……それはそうだね…今は関係無いけど。
『スープが熱く無いのか不思議でしょうがありません』
「てかラーメン食べた事あるんだな」
『最適な温度を確認してるんでしょうか?』
「そんな訳あるかっ!」
悪夢なら早く覚めて欲しい。そんな俺にビッグプレゼントが来た。
『あっ! つがいの青い竜も来ましたよ!』
「弱い者イジメ……いや、弱い頭イジメ反対!」