恋人になって!
「私の恋人になって!」
「――――」
いつごろだったか、もう忘れたけれど――
すでに僕は、何の変哲もない、何の変化もない、これといった恋もない、ただの一般人であった。
つまり、まず僕みたいな普通の高校生が裏路地を歩いていたとして、そこに神様だとか、あるいは化物だとか、言ってしまえば雨の日に『拾ってください』と書かれた段ボールに入っている捨て猫だとか、兎に角、非日常的なものと出逢うことなどあるわけもないのだ。
しかし、日常的なものであれば、出逢うこともあった。それは別に裏路地でなくてもいい――いや、むしろ裏路地でない方がいいのだが、それとはつまり、芸能人や、要は有名人と呼ばれている彼らに出逢うことは無きにしも非ずだった。というのも、この辺りは都会といえば都会の方であって(首都ほどではないのだが)、さらに僕の通っている高校では多くの有名人を世に出しているのである。
そんなわけで、僕は今日、巷で有名なアイドルの天道寺優に出逢った。
天道寺優とは、僕と同級生――つまり高校生でありながら、アイドルをこなしている。勿論、その学校とは、僕の学校であるのだけれど、かといって僕は、それこそ噂で容姿などを聞いていた程度で、声すらも生で聞いたことがないようなくらいに、僕と彼女には格差があった――世界が違っていた。
大通りで、丁度放課後で、家に帰る途中の学生やら、大人やらがたくさん見ている中で――天道寺さんは僕に遇いに来た。
出逢いは唐突で、本当に驚くくらい予期していなかったけれど、兎に角、天道寺さんが僕に話しかけてきたのである。
「私の恋人になって……!」
「? …………どういう――」
「だから――って、ああ、もう! とりあえず、こっち来て!」
忙しく、僕の手を掴んで、何かから逃げるように走った。僕としては、天道寺さんに手を握られただけでもう充分なほどに、満足していたわけなのだけれど、あろうことか、天道寺さんは僕を人気のない裏路地まで連れていったのである。
心臓が高まる。
緊張が高まる。
破裂しそうなくらいに、きっと天道寺さんに聞こえているくらいに、胸の鼓動がうるさかった。
天道寺さんの方も天道寺さんで、鼓動ではないにしろ、息が切れる声が漏れている。依然として僕らの手は繋がったままだった。
手汗やべえ……。
これ、天道寺さんの手汗もあるよな? 手汗が半端ないくらいに出ているんだが……。よくこれで、手を掴みながら逃げられたものだ。
「手汗やっばいねー……はあ…………はあ……」
安堵。
あぶねえ。
汗の問題はとりあえずとして、解決した。いや、最悪これは、僕の手汗のことを言っているのかもしれないな……。
それはそれとして、問題は他にもある。
「……っで、なんで?」
僕も意外と疲れていた。なんせ、久々に全力に走ったからな。自分の体力がどの程度か、全く理解していない。さすがに、天道寺さんほどは疲れていないけれど。
「……っ何が?」
「だから、その――何で僕なんだよ!?」
何で、僕が天道寺さんの彼氏に、ならなきゃいけないんだ。
なりたくないって言ったら、それは嘘になる。むしろ、天道寺さんの彼氏になれるなんて、きっと光栄なことだ。ありえないことだ。誰しも羨むことだ。非日常的なんだ。
だからこそ――
どうして、僕なんだ。
「ああ――ええっと、都合が良かったから、です」
敬語で――ひどい台詞を吐いた。
都合が良い。
なんて、残酷な言葉だ。
「違うの! 都合が良いっていうか、好都合だったっていうか……」
「同じようなものだろ……。とにかく、それならもう、断らせてもらおう」
都合よく――断る言い訳もできた。
「そんな……! 待ってよ! どうしても、南方君が必要なの!」
「だから、どうしても僕が必要な理由って、なんだよ」
一般人の中でも、特別一般人の僕が、必要とされる理由なんて、あるわけないのに。
「い――今、悪の組織に追われてて……」
「んなわけあるかー!」
悪の組織とか、一体どんな世界だ。そういうのは、勇者か何かがいる世界くらいにしておけ。
「本当だもん!」
もん――て。
かわいい。
「なんて?」
「本っ当だもんっ!」
超かわいい。
やっぱり、アイドルやっているだけあるな。
さて、茶番はこのくらいにしておいて。
「それじゃあ、一体どんな悪の組織なんだよ」
「幹部に『カメラマン』、そしてボスは『プロデューサー』、でも、裏で本当に私を操っているのは『マネージャー』!」
「番組撮影から逃げてきただけだったー!」
いや、だけ、じゃないな。
それは、相当だぞ。
何で逃げる理由が、どこにあるんだ?
「それは、だって、その番組が『恋人を作ろう!』って企画だから……」
ああ、なるほど。
それにしても、最近のアイドルは、恋愛関係にそこまで厳しくないのだろうか。あるいは、天道寺さんに限って、恋愛沙汰を許しているとか、そういったものだろうか。
「それで、僕がいたからってことか」
同じ高校の制服をきた僕が。
都合がいい――好都合。
「悪いが、やっぱり――」
――その話は断るよ。
と、言おうとした時だった。何処からか、すでに僕と天道寺さんは何者かに囲まれていた。囲まれていたと言っても、挟み撃ちというところで、この狭い裏路地においては、逃げ場などあるはずもなかった。
「南方君……」
天道寺さんが、僕の背中をぎゅっと掴む。
僕はそっと、天道寺さんを庇うような態勢になる。
もう一度、緊張したけれど、これはきっと、天道寺さんに緊張しているんじゃなくて、何者かに対して緊張しているんだ。
何者かなんて、分かりきったことだが。
番組関係者以外、何者でもない。
「そこの生徒さん。一体、どういう関係かは知らないけれど、君の庇っているその子は、これから大事な番組があるんだよ。仕事だ。君みたいな――一般人が関わることじゃあないだろう?」
「…………っ!」
棘のある言い方をする。
けれど、言い返せない。
きっと、僕は今、邪魔しかしていない。邪魔でしかない。彼らは何も間違ったことはしていない。間違っているのは僕なんだ。
でも、だからって――
目の前でそれを拒んでいる女の子がいたら、はいどうぞ――って、そんなこと、できるわけないじゃないか。
「……南方君」
「とりあえず、何とかするから……」
「南方君」
「待って。ひとまず、ここは――」
「南方君。もういいよ……」
なんだって?
「もう、いいの。どうしようもないよ、こんなの。南方君が、犯罪者になる方が私は辛いよ」
犯罪者って――一体、これから何を犯すと思っているんだ。
よく分からないけれど、この人たちの邪魔をしたら、犯罪ってことなのか? そんなことって――
きっと、強がりだ。決まっている。天道寺さんは、強がっている。
確かに、僕は天道寺さんの恋人になることはできない。なるべきじゃない。けれど、だからってそれは、無関係になるってわけじゃないだろう。どういう出逢いであれ、僕は天道寺さんと関係を持ったんだ。だったら、それに対する責任を、義務を、責務を果たすのが、僕の役目だ。
でも――
僕は、どうすることもできなかった。
天道寺さんが、歩いて、彼らと高級そうな黒い車に乗っていくのを、ただ眺めていることしかできなかった。
無力だ――なんてことは、僕が一般人だという時点で分かっていた。だからこそ、一般人という自覚があるからこそ、何もしようとしなかったのかもしれない。
すると、天道寺さんが、動き出す車の窓を開けて、僕に言った。
「私のこと――思い出してね!」
思い――出して?
忘れないで、の間違いだろうか。兎に角、よく分からない言葉だった。
どうであれ、僕が天道寺さんのことを忘れるなんて、絶対にない。忘れようがない、こんな出逢い。忘れるわけにいかないのだ。
僕が家に帰ると、すでに母は帰宅していて、夕飯を作っているころだった。
まだ五時ごろで、夕飯にはまだ早かったので、僕は自分の部屋に戻り、ベッドに倒れ込んだ。
にしても、思い出して――か。
そういえば、天道寺さんの番組は、あの様子だと生放送なのだろうか?
気になったので、リビングに戻り、新聞の番組表を見た。すると、見つけた。今日の六時から始まる――『恋人を作ろう!』。案の定、生放送。
責任というわけではないけれど、丁度夕飯の時間だから、ついでに見ることにしよう。
「悟が新聞見るなんて、珍しいこともあったもんだねえ」
キッチンで夕飯を作りながら、母が言った。
「そうでもないさ。僕だって、新聞は嫌いじゃないからな。今まで興味自体、無かっただけだよ」
「あんた、小学生のころ、新聞ばかり見ていたのよ? というより、新聞で紙ヒコーキ作ったり、人の顏に落書きとかしていただけなんだけどね。あっはっは!」
残念な記憶を、突然掘り返すな。
めちゃくちゃ恥ずかしいじゃないか。
「小学生のころなんて、憶えてないよ」
「そんなもんかねえ。とはいえ、小学生の悟は、女の子とよく遊んでいたものなのに、今となっては……」
「だから、恥ずかしいからやめろ!」
殺す気か。
精神をいたぶって、殺す気か。
別に、男の友達なら数人はいるし、それに、その辺を突っ込むのは親としてどうなんだよ。
さすがに、それは僕だって思い出しちゃったじゃないか。
嫌な思い出だよ、全く。いや、どちらかというと、嫌な現状というべきなのかもしれないけれど。
ん? 思い出?
思い出した、思い出。
私のこと――思い出してね!
思い出すべき――思い出。
「母さん」
「んー?」
「天道寺さんって、憶えている?」
「なんだ、あんた憶えているんじゃない。そうよ、その子がよく、うちに来てたのにねー」
僕は駆けた。その言葉を最後まで聞くこともなく、駆けた。
家を飛び出して、僕は向かう。
全て思い出した。
全て思い出して、思い返して、理解した。
今日の出来事も、今日までの記憶も、全部。
都合がいい――好都合。
本当に、都合がよかった。好都合だった。
よくよく考えれば、分かることだったのに――
どうしても、僕が必要だと、彼女は言った。
そうだ。あの場には、僕と天道寺さんが出逢ったあの場所には、僕と同じように、同じ制服で、同じ道を帰っている生徒が多くいたはずなのだ。
都合がいいなら――僕である必要はなかったんだ。
都合よくあの場に、必要な僕がいたから、天道寺さんは僕に出逢いにきた。
でなければ、どうして僕の名前なんて知っている? 会ったこともないはずであるのに。決まっている。会ったことがあるからだ。
小学生のころ――
確かに、僕と天道寺さんは遊んでいた。
「私の恋人になって!」
彼女は言った。小学生のころにだ。
そして、僕は返したんだ。忘れていた言葉を――思い出した。
「僕らが大人になってから、返事するよ」
ふざけている。ませたガキだ。
人の気持ちなんて全く理解していない子供だ。
でもきっと――そんなの、今だって同じだ。僕は何一つ分かっていなかった。僕は何一つとして理解しようとしていなかった。相手が有名人だからって、相手と世界が違うからって、分かろうとしていなかった。
相手の気持ちも――
僕の、気持ちも。
けれど、今は違う。
僕の記憶も、気持ちも、全部思い出したんだ。
「天道寺さーん!」
息が、切れる。
僕の体力の限界なんて、知ったことか。知らないのだから、知らないままでいい。知らないのだから、知らないまま、どこまでだって走り続けてやる。
見つけた。
見知らぬ男と歩いてる天道寺さんが、精一杯の笑顔の天道寺さんがいた。
新聞の番組表で、テレビ局は分かっていた。後は、その周辺を探すだけだったのだけれど、大きなカメラがセットされているのを見て、すぐに天道寺さんの番組だと分かった。
「天道寺さん!」
もう一度、声を荒げる。
多くが僕を見た。番組関係者も、見知らぬ男も、天道寺さんも。
きっと、僕は今、邪魔しかしていない。邪魔でしかない。彼らは何も間違ったことはしていない。間違っているのは僕なんだ。
でも、だからって――
目の前でそれを拒んでいる女の子がいたら、はいどうぞ――って、そんなこと、できるわけないじゃないか。
「南方君……どうして」
「……はあ! ……はあ!」
幸い、生放送。
放送事故だ。
おそらく、テレビ中継は止まっていることだろう。
僕は天道寺さんの手をぐっと掴んだ。
ひどく、滑る。
「……はあ…………はあ……手汗やっべえだろ」
本当、ひどい。
「うん。ちゃんと、掴めないよ」
隣で、見知らぬ男は呆然としている。いや、どころか、周りの人皆が呆然としている。けれど、そんなこと、知ったことか。
「南方君」
「…………」
天道寺さんは涙を浮かべている。
でも、笑顔だ。
笑顔で、精一杯の天道寺さん。
「私の……恋人になって……!」
ああ、分かっているさ。
僕と天道寺さんは世界が違う。天道寺さんは有名人で、僕は一般人だ。何の変哲もない、何の変化もない、一般人だ。けれど僕は、これという恋をした一般人だ。だから僕は、まるでガキみたいに、ませたガキみたいに、言った。
「僕らはもう、大人だからな」
お題『有名人』、ジャンル『恋愛』、10分程度で読める量で書いてみるという挑戦をしてみました。何より、起承転結が難しかったです。正直、できている自信はあまりありませんが。
こうして、最後まで読んでくださった方には感謝するばかりです。ありがとうございました。それでは、またいずれ、ジャンルは恋愛ではないと思いますが、お題形式でやるときがあると思いますので、その際はよろしくお願いします。