17 下層という場所
私の罪はそこまで大きいものだったのだろうか。眠りから覚めたパルツィラは、いつになっても許しを得ない自分の体を一人抱きしめた。
久々見た夢は、幼い時の幸せな記憶。しかし今やそれは心を蝕む毒でしかない。
陰鬱な気分を払い除けようと、パルツィラは毛布を脇に寄せて寝台から立ち上がる。
寝台から床に下ろした足の裏には、石のひんやりとした感触が伝わってくる。それはもうすぐ来る冬をパルツィラに思わせて、払い除けたはずの沈んだ気持ちを再び思い起こさせてきた。
ダムティルの下層。すり鉢の底のようなこの場所は、上から運ばれてきた様々なものによって、その空気を澱ませていた。
下層の中央を流れる塩の川。その下流はこの街の衛生処理を担っていて、汚物を含んだ生活排水が流れ込んでいる。上層、中層から常時に流れ込む汚水は下層に臭気を撒き散らし、絶えず流れる川を以ってしても、その臭気を消すに至っていない。
そんな臭気漂う場所、そしてそこで暮らす者に上の者、特に中層で暮らす者達は嫌悪感を隠さない。ある者はそこで働く者を見下して、またある者はまるで下層をないものとして視界に入れようともしなかった。
同じ街に住む者のそのような態度に、下層で暮らす者の多くは気付かない振りをする。だが中にはそれによって先を悲観する者や、露骨に反発をする気性の荒い者もいた。
部屋を出て食事を終えると、パルツィラは今日も仕事に外へ出た。フードを被って顔を隠し、宿泊所を出て塩の川の上流を目指していく。
肌に照り付ける太陽の日差しに、今日の天気は快晴だと感じ、心持ち足取りが軽くなる。それでいて朝の空気を味わうパルツィラが空を見上げることはなく、終始俯く視界に映すのは自分の足と数歩先の地面だけだった。
幼い時の夢を見たせいだろう、パルツィラはいつから自分は空を見上げることの止めたか、足を進めながら考え始めた。
下層に暮らす者の大半は獣化病の者だ。パルツィラもその例に違わず、その体は髪と同じ暗い赤色の体毛で覆われている。
中層に家族で暮らしていたパルツィラは他の者と同様に、齢が十二になる頃に獣化病を発症した。
顔だけを見れば、当初はパルツィラの容姿に変化が起きているようには見えなかった。けれど日に日に、首から下の体毛が濃くなった。次第にそれは顔に及び、それでも獣化を認めたくないパルツィラの家族は、来る日も来る日も伸び続けるパルツィラの体毛を剃り続けた。
しかしそんな日々も、何者かの密告で聖教会の知るところとなって終わりを告げた。
その日、パルツィラとその家族を呼び出したのは、パルツィラが通う学校の教師の一人である聖教会の女性だった。
そして聖教会の女性に告解を求められたパルツィラは全ての罪が明らかにされると、神への奉仕としてその身が許されるまで、神に最も近しき人間という存在のために、下層にて塩作りに携わる過酷な労働に従事することになったのだ。
罪を問われても、最初パルツィラにはそんな覚えは全くなかった。人の物を盗ったことはなく、親の言い付けも守り、まだ幼い弟の面倒もよく見た。
けれどよく知る教師に促されるがまま話をすれば、雨の日に水汲みを休んだことや、料理の盛り付けに弟の分よりも自分のものを多くしたなど、自身の忘れていた些細なことが明らかにされていった。
こんなことが罪になるのかとパルツィラが呆然としている中、家族は只、静かに泣いていた。
家族と別れ、下層にて他の者との共同生活の日々が始まると、家族はパルツィラの様子を確かめようと中層から下層をよく覗いていた。
パルツィラは家族に心配を掛けまいと、それに気付くと笑顔を見せて手を振り返したのを覚えている。
その頃はまだ、顔を上げることにパルツィラが抵抗を覚えることはなかった。
立ち込める臭気には顔をしかめたものの、近くを流れる川の音や下から見上げる起重機の迫力、塩を精製する沢山の釜から上る湯気が青空に消えていくのが面白く、パルツィラは仕事をしながら、中層を見上げて家族の姿を探す他に、度々空を見上げていた。
だが時を重ねると、それは次第に変化していく。
パルツィラの家族は、もしかしたらパルツィラの獣化がすぐに治ると思っていたのかもしれない。最初の一年間で獣化病の治る兆候がないことがわかると、家族は姿を見せる頻度が減っていった。
そして家族の姿を探すパルツィラの目に代わりに入るようになったのは、上の者の下層に対する悪感情だった。
汚いものを見るかのような視線に気付き始めると、パルツィラは自分を罪人だからと言い聞かせ、気にしないように努めた。
家族が姿を見せないのは、自分がこのように見られていることに耐えられなくなったのだろう。そう思えば、家族のためにもパルツィラは早く獣化病を治そうと、より一層毎日の仕事に励むことができた。
しかしそこからさらに一年の時を重ねても、パルツィラの体は許しを得るどころか、その兆候すら見せなかった。
仕事に励みながらもその先に希望を見出せず、それから目を背けるようにさらに仕事に没頭する。そんな生活を続けていると、パルツィラは日に日に体から体力からなのか、精神からなのか、活力が失われていくのを感じた。
一体治るのはいつなのか。共同生活の中で他の者に聞く機会は当然あった。だが、それを知るだろう長く宿泊所にいる者達は年々その顔から生気を失い、パルツィラは答えを知ることが恐ろしく、問うことなんてできはしなかった。
そんなパルツィラを支えるのは、十日に一度だけちらりと姿を見せる家族の存在だった。二年の月日で、弟は見間違えるほど大きくなった。それでもパルツィラのことは忘れていないようで手を振ってくる。パルツィラは手を振り返すことはできなかったが、つらい日々の中でそれだけが励みだった。
そんなある日、パルツィラがいつものように家族を探して視線を走らせていると、ふと同世代の少年が目に映った。
パルツィラはその顔に見覚えがあった。幼い頃に何度か遊び、学校でも言葉を交わしたことのある少年だ。
少年の姿はよく目立った。多くの者がいる中で、少年だけが下層に、パルツィラに向ける視線が違うのだ。他の者が向ける悪感情とは違い、それはひどく同情的な視線だった。
一見好意的に思えるそれを向け続けられて、パルツィラはそれが家族が向けてくる視線とまるで違うことに気付いた。それは只々憐れんでいるのだ。パルツィラが可哀想だと、傷ましい存在なんだと訴えてくる。
見下ろしてくるその視線が、パルツィラにはまるで自身が救われないことを物語っているかのようで恐ろしく、そして不快に思えて仕方がなかった。
視線から逃れるように顔を背けたが、少年の視線はその日だけのことではなかった。もしかしたらパルツィラが気付く前から、それは向けられていたのかもしれない。
家族の姿を探しているとその視線に気が付き、顔を伏せ、パルツィラは次第に家族の姿を探すことができなくなっていった。
パルツィラは歩きながら、顔を上げることをやめたきっかけを思い出し、一人自嘲した。
あれからさらに五年の月日が経った今、パルツィラが仮に中層に顔を向けることがあっても、家族の姿を見つけることはできないだろう。
パルツィラが俯き始めたのがきっかけか、それともパルツィラの家族の気持ちが先に折れたのか。家族はパルツィラと顔を合わせる機会が減ってくると、さらに姿を見せる頻度の減少を加速させて、遂には姿を見せなくなった。
中層に顔を向ける理由がなくなったことに気付いたパルツィラはそれ以降、フードを被り、顔を隠すようになった。
もしも向けられた視線を堪えて、俯かなければ、まだ家族の姿を見ることができたのかもしれない。
最後に目にした五年前で時間の止まった家族の姿。パルツィラが思い返そうにも、もうその姿はおぼろげにしか浮かばず、今朝の夢の中でも顔には靄がかかってわからなかった。
そんな過去を思い返していれば、当時の選択にも思い至る。それはパルツィラが呼び出され、神への奉仕が決まったあの時、奉仕先に上層を選ぶこともできたからだ。
働く場は何も下層だけではない。上層の宿で外の者を相手に、働く選択もあったのだ。家族や教師の反対で何をするか知らないまま、パルツィラの上層行きはなくなった。だが上層ならば下層と違い大階段を使うことを制限されることはなく、家族に会うのも不可能ではなかったはずで、今になってこんな悩みもしなかっただろう。
上層での仕事がどういったものなのか、あの時は知らなかったそのことをパルツィラも今は知っている。その行為に抵抗がないといえば嘘になる。けれど下層にいても、そこにいる外から来た者から向けられる視線を思えば、家族と会うためならば耐えられたかもしれない。
しかし過去の選択を考えても、それはもう仕方のないことだ。
パルツィラは不確かとなった家族の姿に落ち込むことを既に止めた。むしろ目にしていなかった五年の歳月で家族が、特に弟がどのように成長したのか、次に会う時までの楽しみにしようと何とか切り替えていた。
考えごとをしている内に、パルツィラは塩の川の上流、崖の前まで辿り着いていた。
崖にはぽっかりと横穴が空いており、光源のない暗い洞窟が伸びている。常人では目の利かないその場所がパルツィラの仕事場で、獣化病であるパルツィラの目はしっかりと奥まで見通していた。
パルツィラは洞窟の入口でフードを外すと、自分の恰好と準備を確認して、今日も岩塩採掘のために川の流れる洞窟の奥へ進んでいった。




