15 油断
日が落ちるのが早くなったのか、イサム達が宿に戻った時には、街はすっかり夕暮れに染まっていた。
イサムとエルスロが宿に入ると、宿の一階、受付台の脇を抜けて奥へ進んだところにある食堂から、他の宿泊客の話し声が聞こえてくる。
「もう食事のようだな」
「そうよ。あなた達もさっさと入って食事を済ませてちょうだい」
エルスロが発した声に、上から言葉が返ってきた。
二人が声の出所を探して顔を上げれば、階段を下りてくる宿の女とその後ろにナリアの姿を見つけた。
「あの子には重湯を用意しておきますから」
「ありがとうございます」
一階に着くと、宿の女がナリアへ振り返って声を掛ける。ナリアはそれに頭を下げて応じた。
宿の女はナリアの礼に頷き、そのままイサムとエルスロの脇を抜けて足早に食堂へ向かっていく。
「すみません。任せっ放しで」
「いえ。それで準備は?」
「無事揃えました。明日、馬車に詰め込む予定になっています」
イサムの言葉を軽く流して、エルスロに尋ねたナリアはその言葉に頷いた。
そしてそれ以上他に話すことはないと言わんばかりに、ナリアは食堂へすたすたと歩き出し、イサム達は慌ててその後を追って食堂の中へと入った。
この宿では朝と夜の定刻に食事が提供されるとのこと。食堂でその決められた時間に、一斉に食事が振る舞われるそうだ。
食堂には大小の机が複数並び、二十人ほどがまとめて食事をすることができそうな広さがあった。
既に他の宿泊客だろう男達が十人ばかり、それぞれ食事を進めている。ほとんどの者が一人で食事をしていて、二人で集まって食事をしている者も二組ほどいた。中にはエルスロに気が付いて軽く会釈をしてくる者がいたが、話し掛けてくる者はいなかった。
先ほど二階ですれ違った者もこの場にいるのだろうか。ふとそんなことを考えながら、イサムは食堂を奥へ進む。隅の四人掛けのテーブルにエルスロが先に座ると、ナリアとそれに続いた。
イサム達が席に着くと声を掛けるまでもなく、宿の女に木椀が運ばれて目の前に置かれた。椀の中には薄く白濁したスープに、すいとんのようなものが浮いている。
「これがここのいつもの料理だ」
そう言いながら、エルスロは早速スープを木匙で口に運ぶ。
宿で朝晩の食事代は宿泊料金に含まれており、この場で金銭は掛からない。だが用意されるものはこのスープだけで、それ以上を求めるのならば追加で金を支払うしかないとのことだった。
エルスロが飲み始めたのを見て、イサムとナリアもスープに口を付けていく。
塩が特産だけあるのか、スープの味は最近の食事の中で一番しっかりと味付けされたものだった。但し、その量は少ない。濃い味に食欲を刺激されると、どうしても物足りなく感じるのはどの客も同じのようで、イサムが食堂を見渡せば、追加で注文しただろう料理の皿がどのテーブルにも散見できた。
「上手くできた仕組みだろう」
イサムが何を思ったのか、察したのだろうエルスロが笑いながらそう言った。
そんな中ではイサム達が追加の注文をするのも自然の流れで、イサムは今日覚えた金の使い方の実践とこれまでの礼、そして別れの餞別に、支払いを任せてもらうと注文を取りに来た宿の女に石を一つ支払った。
支払いを終えてしばらくした後、宿の女によって運ばれてきたのは大皿に載った焼いた肉の塊に、果実酒の満たされた三つの木のコップだった。
ナリアとエルスロは運ばれてきたコップをそれぞれ一つ手に取ると、それを目の高さまで掲げた。二人の行動に、イサムも二人に倣ってコップを手にして掲げる。けれど二人はコップを掲げたまま、何かを待つように動きを止めた。
イサムが不思議に思って二人の顔を窺えば、二人の視線はイサムへ行動を促すように集中している。その視線に晒されること数十秒、イサムは何を求められているのかようやく思い至った。
「まだ続く旅の無事を祈って」
乾杯の言葉を捻り出すと、イサムは慣れない行為の気恥ずかしさを酒で一気に押し流した。
コップを傾けるイサムの目の端には、そんな自分の姿に声を出さずに笑う二人の姿が映る。
中身の減ったコップを机に戻せば、宿の女がすぐに酒を注ぎ足しにやってきた。
それを横目に肉の塊に手を付けながら、イサムは三人の間にある奇妙な連帯感を心地良く思い、またその別れに寂しさを感じた。
翌朝の目覚めは三人とも遅く、宿の朝食は既に終わっていた。
太陽が高いことに気付くと、宿の女にいまだ目覚めないユーラを任せ、三人は慌しく街へ繰り出していく。
今日、ナリアとエルスロの二人はエルスロの馬車で旅立つ。その準備に昨日エルスロが買い付けた品物を商店で受け取って、それらを馬車へ積み込む必要があった。
三人は朝食を適当な店で買った果物で済ませると、すさまじい量となった品物の積み込み作業に、商店と馬車の間を何度も行き来し、動き回った。
旅立つ準備が終わったのは街に着いた時と同じく、太陽が一番高くなった頃だった。
積み込み作業を終えたイサムとナリアは宿の前で佇み、エルスロが出発に馬車を動かすのを待っていた。
昨日と同じくイサムとナリアの間に会話はない。
だが昨日と違い、イサムはその沈黙が苦痛ではなかった。
「本当は目覚めるまで様子を診ていたいのですが、カラトペに急ぐ用ができました」
そんな中で、ナリアが不意に口を開いた。
急ぐ用とは草原での襲撃のことだろう。聖教会の者の襲撃について、危機を乗り切った後は語ろうとしなかったナリアがようやくその話題に触れた。
「あれはやっぱり……」
「あんなこと、ありえません。いや、実際あったんですが……。それに村での人狩りも」
ナリアの言葉で、イサムは亜人狩りのことを思い出した。自分の身の危険ばかりで頭から離れていたが、事の発端はそもそもあれのはずだった。
「一体なんで……、原因を確かめないと」
「大丈夫なんですか?」
「表向きは何もできないはずです」
イサムの心配する声に、ナリアは神妙な面持ちで答える。
ナリアの向かう先、カラトペは司教都市だ。聖教会のお膝元だが襲ってきた者達も聖教会の者であるならば、襲われる可能性は十分考えられた。
そのことにはナリアも当然気付いているようで、その態度からは不安が感じられる。しかしそれでいて、カラトペに向かうのを止めようとする素振りは一切見せなかった。
ナリアの行動を止めることはできない。ここ数日で知るナリアの意志の強さは勿論のこと、ナリアとナリアの属する聖教会のことについて多くを知らないイサムには、そもそも口を出すことなどできはしなかった。
そうしてイサムが言葉を返すことができずにいると、エルスロが遂に馬車を宿の前へ運んできた。
「これを渡しておきます」
目の前で馬車が止まるのを確認してから、ナリアはイサムに体を向けてくる。
そしてナリアが差し出してきたのは、ユーラとナリアの使っていた部屋の鍵、それと片手に収まるほどの小さな木簡だった。
木簡には何か黒く書き付けてあるが、イサムにはそれを読むことができなかった。文章であることはわかるのだが、書き付けてあるそれを見てもミミズがのたくっているようにしか思えない。
今まで異界の文字を見る機会がなく、イサムはここに至るまで気付かなかった。魔術によって共有し、得ている異界の知識は文字にまでは及んでいなかったのだ。
イサムが受け取った木簡を難しい顔で見詰めていると、字が読めないことを察したナリアが「大したものではないです」と言葉を続けてくる。
「お守りのようなものだと思ってください。あなた達の身分を保証するものです。まぁ、教会の者には逆効果かもしれませんが」
苦笑しながらナリアはそう言うと、エルスロに促されて馬車の荷台へ上っていく。
「あの、ありがとうございます」
イサムはそう言葉にするのが精一杯だった。
「お二人もお気を付けて!」
走り出した馬車の荷台からナリアは顔を突き出して、最後にそう声を掛けてきた。
しばらくすると、その姿も荷台の奥へと消えていった。
宿の前で遠くなる馬車を目に映しながら、イサムは不甲斐なさが募るばかりだった。結局ナリアに世話になるばかりで、何も返すことができなかった。元を辿れば、自分が道の脇で寝ているナリアに気を留めたことから始まった縁だ。それでも自身の得たものの方が多すぎる。
イサムは自身の左手に視線を落とす。
指先にはユーラの傷口に触れた際の熱の残滓があった。せめてあれの意味がわかれば、少しは役に立てたかもしれない。しかし知識の出し惜しみをしたわけでもなく、それは考えても意味のないことだった。
顔を上げた時には、既に馬車の姿は見えなくなっていた。
それを確認して、イサムは宿へ踵を返した。
宿に入ると、意識を今後のことに切り替えていく。ナリアに任せていたユーラの世話を、これからはイサム自身がしなければならなかった。
またナリアに支払ってもらった宿の滞在費は一週間。容態が上向きといっても、その間にユーラが目覚めるとは限らない。手持ちの資金が限られていることを考えれば、この街で金策をする必要があった。
やるべきことはいくらでもある。イサムは少し緊張を覚えつつ、勢いよく階段を上っていく。
一先ず今イサムがやらなければいけないことは、自分の使っている部屋を引き払い、荷物をユーラの眠る部屋へと運ぶことだった。
イサムは早速部屋に戻ると、隅に置かれたリュックサックに木簡を押し込み、出しっ放しにしていた寝袋と一緒に抱えて部屋を出た。そしてナリアから受け取った鍵で、ユーラの眠る隣の部屋の扉を開けて中へ入っていく。
その時、部屋の奥から物音が聞こえた。
もしかしてユーラが目覚めたのかと、イサムは予想外のことに驚きつつもその顔に喜色を浮かべた。入ってすぐの壁際に荷物を置いて、ユーラの寝ている寝台に目を向ける。
そして頭の中が真っ白になった。
ユーラが寝ているはずの寝台。その寝台の上に見知らぬ男がいた。男は寝台の上で両肘と両膝を付き、そこで眠る者に覆い被さっている。その顔はイサムにじっと向けられていて、睨むような視線は不快感を訴えてきていた。




