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5 蛇

 明け方の空はまだ薄暗い。

 耳に届く騒々しい物音に眠りを邪魔されて、イサムは薄らと目を開けて太陽の位置を確認した。


 昨晩の出来事に体は疲れが残り、まだまだ寝足りない。しかし二度寝しようと目を瞑っても、止まない物音がそれをさせてはくれなかった。


 睡眠を妨害してくるのが何なのか、イサムはぼんやりとしたままに音のする方へ顔を向ける。

 そして目に入る光景に、イサムの意識は覚醒した。


 地面の上に小動物がごろごろと横たわっていた。微動だにしないそれらは、恐らく死んでいるのだろう。

 そしてそんな動物の死体が転がる場所の中央で、茶斑の猫と緑色の蛇が対峙していた。


 猫の方は猫と表現したものの、発達した牙と爪を剥き出しにするその姿は、決して猫のような可愛げのあるものではない。またもう一方の蛇は見慣れたものに思えるが、イサムへ背を向けて鎌首をもたげる後姿から正確な姿形はわからなかった。


 二匹は、じっとお互いの様子を窺っているようで動かない。

 だがその間に流れる緊迫した空気はイサムにも感じられ、いつ戦いが始まってもおかしくなさそうだった。


「おい」

 イサムは隣にいるユーラへ小さく声を掛けた。


 戦いを始めようとする二匹は緊張の高まりに、威嚇の鳴き声を森に響かせ始める。


 冷や汗を流しながら、イサムはユーラの返事を待った。しかし反応がない。触れ合う腕の、肘で軽く彼女の体を押してみる。身じろぎは感じるが、それでもユーラの返事はない。何だか嫌な予感がして、その予感に押されるままに二匹から目を離して隣を見る。


 そこには熟睡しているユーラの姿があった。


 イサムは愕然とした。ユーラは自ら、「警戒しておく」と言っていたのに。

 昨夜、イサムの中で最大限まで高まったユーラの株が、この瞬間に一気に下落する。


 ユーラを起こそうと再び声を掛けようとした時、二匹の方から短く鈍い声がした。

 二匹の戦いが始まり、そして終わったのだ。戦いは一瞬だったようで、その声の後には森の中に朝の静寂だけが漂う。


 イサムは恐々と、視線を二匹が対峙していた場へと戻していく。


 案の定、戦いは決着していた。敗者は泡を吹いて横たわる猫で、勝ったのは蛇だ。一瞬の勝負と痙攣する猫。恐らくこの蛇は毒を持つ。それも強力なものを。

 二匹の戦いは終わったけれど、イサムの緊張は緩むことなく、むしろ高まった。


 ユーラはいまだに眠っている。


 戦いを終えた蛇はイサムへ振り返ると、じりじりとにじり寄ってきた。

 大木を背に後ずさることのできないイサムは立ち上がることもままならず、手に持ったポールを蛇に向けるのが精一杯だった。

 イサムがポールを向けると、にじり寄る蛇はその動きを止めた。そして鎌首をもたげると、じっとイサムを見詰めてくる。


 イサムはこの場から逃げることも、また蛇の視線から逃れることすらもできなかった。只ひたすら蛇と見詰め合い、その状況でユーラの一刻も早い起床を願うばかりだった。


 そのまま五分ほどの時間が過ぎた。


 依然として蛇はイサムから視線を逸らさない。

 一方のイサムは先ほどから動かない蛇を見て、大分落ち着きを取り戻していた。


 落ち着いた心持ちで蛇の様子を観察をすれば、ぬらぬらとした皮膚が涼しげで美しい。襲ってこないと思うと、つぶらな黒い瞳も可愛く思えてくる。只、蛇と見詰め合うだけで動かない状況に、イサムは時間の経過と共に段々と焦りが募ってきていた。

 このまま見詰め合っていても仕方がないとは思っている。しかしユーラを起こそうと声を出したら、蛇を刺激しそうで動けない。今度こそ襲ってくるかもしれないと思うと、蛇が去るか、ユーラが起きてくるのを待つしかなかった。


 イサムは蛇を目を合わせながら、それでも何か手はないかと思考を重ねていく。

 緊張で強張っていた体から今は力が抜けている。握る手が疲れ、ポールも既に脇へと下げていた。


 どれほど時間が経ったのか、空は明るくなってきた。


 そろそろ朝食の時間かとイサムが意識した途端、見計らったかのように腹が鳴る。

 蛇を視界に収めつつ、何を食べようかと考えれば、イサムの目は視界の端にある倒れた猫へと向けられた。


『あれは、食べられるのかな……』

 ぼそりと、そんな言葉がイサムの口からついて出た。


 その頭は一瞬、空腹と蛇とのごたごたで働かず、獲物を捌くのに苦労した昨日をすっかり隅へ追いやっていた。


 するとイサムの声に反応してか、それまで一切動かなかった蛇がその首を突如としてゆらゆらと動かした。

 視界に収めていた蛇の唐突な動き出しに、イサムの体はびくついた。

 そんなイサムの驚きとは関係なしに、蛇は右へ左へ首を振ると再びイサムを正面にして動きを止めた。


 不可解な動きを見せる蛇に緊張を取り戻し、イサムは安易に気を抜くことの危険性を思い知らされた。そして気の抜けなくなった現状に、見ているだけとはいえ疲労が蓄積していくのを感じていた。

 まだユーラは起きないのか。横目でユーラの方を確認するが、そこに変化はいまだない。もどかしく思うもイサムは動けず、意識を蛇へ戻すしかなかった。


 只、イサムの意識が離れる一瞬の機会を、目の前の蛇はずっと窺っていたのだろう。

 イサムが戻した意識で改めて捉えたのは、鎌首をもたげたままにこちらへにじり寄ってくる蛇の姿だった。


『うおっ!?』


 イサムは驚き、仰け反って、後ろにある大木で後頭部を強かに打った。

 その間にも、蛇はどんどんと距離を詰めてくる。


 今まで何もしてこなかったのは何だったのか。ここへ来ての蛇の行動に、イサムは只々混乱した。焦りながらも、右手は脇にあるポールを引き寄せて、開いた左手は牽制に蛇へと突き出される。


『と、止まれっ!?』

 困惑したイサムの、狼狽した声が森に響いた。





 すっかり辺りが明るくなった頃、ユーラは自然と目を覚ました。


 昨晩から夜通し警戒していたはずだったが、途中から意識がなくなっていた。こちらの世界に戻ってきてからイサムの驚きが面白く、調子に乗って魔術を行使し過ぎたのだ。ユーラは一人反省しながら、まだまだ体調が万全とはほど遠いことを実感した。

 それでも体に危機が迫れば起きられる程度に気は張っていた。目が覚めなかったということは何事もなかったのだろう。しかしイサムに警戒しておくと言った手前、寝てしまったことが少し恥ずかしかった。


 イサムはもう起きているのだろうか。ユーラが隣に目をやると、そこには誰の姿もない。

 その瞬間、まだ薄ぼんやりとしていた意識が一気に覚醒した。

 立ち上がって辺りを見渡すが、イサムの姿は何処にも見当たらない。心臓が跳ねて、顔は強張っていく。


 だがそんな慌てふためくユーラの耳に、何処からかイサムの声が聞こえてきた。

 誰かと会話しているような、そんな声だ。けれど一方の、イサムの声しか聞こえてはこない。その声に危機を感じさせるものはなかった。


 一先ずユーラは安堵すると、すぐに声の聞こえる方へ足を向けた。


 そして辿り着いた先でユーラの目に入ってきた光景は、不可思議なものだった。

 すぐにイサムは見つかった。只、その傍らには見覚えのない蛇がおり、また小動物の群れが折り重なって山を作っている。

 イサムはその傍らの蛇に話し掛けながら、小動物の山の脇にポールを突き立てて地面に穴を掘っていた。





『おはよう』

 起きてきたユーラに、イサムは声を掛けた。


 ユーラの視線は先ほどイサムが一箇所に集めた小動物の山や、イサムの傍らにいる蛇、イサムの顔を行ったり来たりと忙しない。


『ちょうど良かった。地面に穴を作ってほしいんだけど』


 怪訝そうな表情を見せながら、ユーラはすぐに魔術で穴を掘る。


「どうして起こさなかったのよ」

『いや、昨晩のこともあって疲れてそうだったから……』

 軽く返したつもりだったが、イサムは言ってから言葉が嫌味になっていたことに気付いた。

「ところで、その蛇は?」

 しかし何となしに言葉を返してくるユーラに、気付いた様子はなかった。


 ユーラは蛇を見下ろして、蛇はイサムの隣でユーラを見上げていた。


『こいつ、言葉がわかるんだよ。さっきも助けてくれたし』

 そう言うと、蛇を見ていたユーラは再びイサムを見てくる。

『朝起きたら目の前でこの蛇が、なんか猫みたいなのと戦ってたんだ。周りには動物の、その死骸が転がってて、こいつがやったみたい』


 イサムとユーラが蛇を見ると、蛇はまるで注目されて照れているように身をくねらせた。


『俺達を襲おうとしてたのを追い払おうとしたらしくて。それでその猫をやった後、このままだと今度はこの死骸に動物が集まるとか。肉はこいつの毒が回って食えないし、それで埋めようとしてたんだ』

「よくこんな蛇から話が聞けたわね」

『それは身振り手振りで。聞けば答えてくれたし』

「へぇ、日本語がわかるのね」

『……うん?』


 ユーラの言葉を聞いて、イサムの頭に疑問が浮かんだ。

 確かに日本語が通じるのはおかしい。ユーラ以外と話す機会がなく忘れがちだったが、異界で日本語は通じないはずだった。


 不思議がるイサムの一方で、ユーラには既に見当が付いているようだった。

 ユーラの視線はいつの間にかイサムの顔の、ある一点に集中している。それに気付けば、イサムもすぐに思い至る。


 この蛇こそがイサムの顔にしるしを残した、イサムと魔力糸で繋がる蛇だったのだ。




 異界の気候は昼夜で寒暖の差があった。日中は夏を感じさせる日差しでとても暑く、着込んだ外套に熱がこもってより暑い。しかし日が沈むと日差しがなくなり、途端に肌寒く感じてくる。

 それでも安全を考えれば、イサム達が夜に焚き火を行うことはもうなかった。

 焚き火を止めた次の日から、イサム達は火を使うこと自体を昼間だけに限定した。

 動物を捕まえて得た肉も日中に焼いておく。日が落ちて暗くなるとそれを食べて順番に眠り、そして日が昇ると起き出して探索を再開する。

 異界での日々は粗食に適度な運動を行う生活環境となって、二人は半ば強制的に健康的な生活を送っていた。


 蛇という懸念材料が消えて、生活はまた一段と安定度が増した。只、異界へ渡るとはこういうことなのかと、イサムは思う。

 想像していたものと現在の状況は大分違う。動物や植物は見たことのないものばかりで、ここはイサムの知る場所ではない。だがこの状況は、外国の密林地帯に放り込まれることと何が違うのだろうか。


「何か採れた?」

 ユーラの声が聞こえてきて、イサムは思考を一時中断させられた。


 イサムとこちらへ歩いてくるユーラの手には、それぞれ袋が握られている。

 二人は今日も探索をしながら、日々の食事のために目に付くものを採取していた。


 イサムが手に持った袋を掲げてみせると、ユーラは軽く頷いてくる。


 袋の中には先ほど採った、柑橘系の果物がいくつか入っている。採取した内の一つはイサムの外套の下で催促してくる蛇に与えて、既に毒味も終えていた。


 現れた蛇はイサムにすっかり懐き、あれから消えることなく、その定位置にイサムの首元を確保している。

 蛇がイサムの下へ来てから、顔のしるしは色がはっきりと薄くなった。その関連性はわからない。

 イサムは蛇に魔術糸を外せないかと尋ねてみたが、蛇は首を横に振るばかりだった。博識な蛇ではあるが、それでもわからないことはあるようだ。


 この旅の終わりは、まだまだ見えてこない。


 山の向こう、ユーラの住む世界に二人が来てから一週間が経った。

 二人と一匹に増えた一団の姿は、いまだ森の中にある。

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