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2 目覚めたそこは

 イサムは夢を見ていた。


 自身が夢の中にいると気付いたのは、とうに亡くなったはずの祖母、チヨの姿がそこにあったからだ。

 場所は実家のマンションの、今は物置となっている自室だった。

 和室の畳に敷かれた布団の上で、イサムは横になっていた。その体は小さく、小学生のようだ。枕元には盆が置かれ、水差しと水の入ったコップ、粥の入った木椀が並ぶ。

 盆の横では母のカヨコと共に、チヨが心配そうにイサムを見ながら座っていた。


 その光景に、イサムは見覚えがあった。


 それはイサムが十歳ぐらいの頃、年末に大熱を出して寝込んだ日のことだ。

 その年の夏はイサムの臨海学校と父のヨシヒサの仕事の関係で、山村への帰省を取り止めていた。そのために年始以来、しばらく祖父母と会っていない。けれどイサムの病状では、年末の帰省は無理だろうという話になった。

 父と母からそう聞かされて、イサムは寂しく思った覚えがある。

 だが祖父母とは体調が回復する前に会うことになった。イサムのことを心配したのだろう、二人が山村を出て、家へやって来たのだ。


 夢の中でもやって来た祖父母は山の食べ物を持ってきて、滋養があるからとそれで粥を拵えてくれた。


「これを食べて寝てれば、すぐに良くなる」

 そう言って、チヨが木椀から粥を掬って差し出してくる。


 イサムが熱の気怠さから顔を背けても、チヨは匙で強引に食べさせようとしてきた。

 いくら抵抗しても匙を収めず、母もそんなチヨを止めてはくれない。煩わしい状況が続くと、これの何に寂しく思っていたのかと、自分の気持ちに疑問が沸々と湧いてくる。けれどそう思うことで何か状況が変わるわけでもなく、イサムは結局体を起こすと渋々粥を食べていった。


 口に含んだ粥の味は夢の中だからか、ぼんやりとしていてよくわからなかった。


 あの時の粥の味も、イサムはよく覚えていない。印象が薄いということは大したものではなかったのだろう。只、祖父母が見舞いに来てからすぐに、イサムの熱は嘘のように引いていった。滋養があると振舞われた山の食べ物は、確かにそうだったのかもしれない。


 粥を食べ終えて、イサムは再び横になる。


 目を閉じれば、チヨとカヨコが静かに部屋を去っていく。二人が部屋の扉を開けた際には、居間からヨシヒサと祖父のゲンゾウの話し声がした。部屋を出た二人が扉を閉じると、その声は聞こえなくなる。


 訪れた静寂に寂しさが込み上げてきて、イサムはそれを誤魔化そうと耳を澄ました。

 目を瞑った暗闇の中で聞こえてくるのは自分の呼吸音と心音だけ。その音が心地よい律動となって、イサムを深い眠りに誘っていく。



 次に意識を戻した時、夢の中でも眠ったために自分の意識がどちらにあるのか、イサムは一瞬わからなかった。


 最初にイサムの目に入ったのは高く、白い天井だった。そして自分が布団の中で横になっていることに気付いた。正確には布団ではないのかもしれないが、厚手の上等なそれは異界の宿にあったものより日本のそれに近かった。


『……ここは?』

 誰に問うでもなく呟きながら、イサムは体を起こして辺りを見回していく。


 横になっていた布団は寝台の上に敷かれていた。寝台の横には脇机があり、そこには空になった木の椀とコップ、水差しがある。

 そこだけ見れば夢の中の延長にも思えたが、部屋の様子を確かめればまるで違った。

 背にある壁の大きな窓から、日の光が八畳ほどの部屋の中に差し込んでいる。白い天井に、四方の木製の内壁は照りのある赤茶色に塗装されていた。内装には意匠も施され、それらはこれまでにイサムが作り上げていた異界の印象を一変させてくる。文化を感じさせるそれは異界に訪れる前まで抱いていた、漫画やゲームなどで見たそれだった。


 そうして一通り部屋の中を眺めたものの、イサムは自身の置かれた状況にさっぱり見当が付かなかった。


 ここが何処なのか。どうして寝ているのか。そもそも誰が自分をこの場所に運んだのか。いくつもの疑問が浮かび、やはりまだ夢を見ているのかとも思ったが、布団の感触がそれを否定してくる。


 考えながら、イサムは何気なく手を動かして、自分の首を軽くさする。それは旅立ってからしばらくして、不安を感じると無意識に出るようになった仕草だ。


『……あれ?』

 その手に伝わった感触に、自然とそう言葉が出た。


 蛇がいない。覚えた違和感から思い出した同行者の存在は部屋になく、またユーラの姿も当然なかった。

 部屋の隅には背負っていたリュックサックが置かれていた。確かめれば、着ている服も見覚えのないものだ。

 記憶を遡っても、覚えている最後の光景は揺れる馬車の中だった。燃えるダムティルから逃げ出して、それでその後どうなったのか。


 解消されない疑問に、イサムは寝台の上で記憶を探り続けた。頭には覚えのない光景が時折ちらつく。それが糸口かと意識するも、しかし肝心な事柄は浮かんでこない。


 そんな状況の中、不意に軽い音が部屋に響いた。


 思わず気を取られたその音は部屋の扉を叩く音だった。そしてイサムがそうだと気付いた時には、既に扉は開き始めている。

 右手側の壁の扉が内に開き、その隙間から一人の者が頭を下げながら進んでくるのが見えた。

 形式的に下げていただけなのだろう。部屋に入ってきた者はすぐに頭を上げて、その両目がイサムを捉えて見開かれた。


 入ってきたのは四十代ぐらいの女だった。茶色の髪に黒い瞳、薄橙の肌は特段目を引くものではない。しかしその服装は紺一色のロングドレスの上に白い前掛けを着た、如何にも使用人といった風体の見慣れないものだった。


 使用人らしき女はイサムと目が合うと、すぐに頭を下げてきた。それから数歩後退し、そのまま何をするでもなく部屋を出ていってしまった。


 部屋の扉が再び閉まり、女の姿が見えなくなる。それはわずかな時間の出来事で、イサムは声を発することすらできなかった。


 一体何だったのか。イサムの頭にまず浮かんできたのはそんな疑問だった。その後しばらくして落ち着くと、その疑問は後悔に変わった。驚きのあまり、機会を逸してしまったのだ。引き止めて話を聞けば、今の状況がいくらかでもわかったはずなのに。


 イサムは未練がましく、女の出ていった扉を見ていた。


 扉は重そうな、しっかりとした木製の扉だ。閉め切られると、簡単には開きそうにないように思えてしまう。

 この部屋の外はどうなっているのか。この部屋と同じような景色が続くだろうと仮定すれば、豪勢な屋敷だと想像できた。只、その想像を確かめようにも、それは閉じられた扉によって叶わない。


 その時、視線の先の扉がわずかに動いた。


 一瞬にしてイサムの緊張感が煽られる。けれど誰かが部屋に入ってきたわけではななかった。どうやら慌てた女がきっちりと扉を閉めておらず、それで動いただけのようだった。

 開いた扉の隙間から、部屋の外が覗き見える。只、角度の問題か、見えるのは廊下だろう場所の白い壁だけだった。


 その後、動かない扉を見ていれば、イサムの緊張は次第に薄れていった。それから代わりとばかりに、部屋の外へ出てみようかという大胆な気さえ湧いてきていた。

 だが幾許もしないで、外の様子に変化が起きる。誰かが部屋に近付いてくる足音が聞こえてきたのだ。

 大きくなる足音は速く、小走りなのがわかる。そしてイサムが心の準備をする前に、部屋の扉は大きく開け放たれた。


「イサム!」

『……え?』


 いきなり飛んできた呼び掛けに、誰だという疑問が喉元までせり上がるも、イサムは何とかそれを飲み込んだ。


 開け放たれた部屋の入口に姿を見せたのは、先ほどとは別の女性だった。青みの強い紺色の髪と瞳が白い肌に映えていて、髪は顎の高さで切り揃えられている。服装は髪の色と同じの、先ほどの女のものよりはゆったりとしたロングドレスだ。その上には前掛けでなく、薄手の白い外衣を纏っている。また頭には白い帯状のヘッドドレスを付けており、両側頭部には大きな飾りがあって耳を隠すほどだった。


 使用人とはほど遠い恰好をしたその人物が、イサムには一瞬誰だかわからなかった。


『……ユーラ?』

「良かった……。ここが何処か覚えてる? 着いてからずっと寝込んでたから……」


 部屋に入ってきたユーラが喋りながら、イサムの横になった寝台まで歩いてくる。


 確かに目の前にいるのはユーラだ。そうわかっているからこそ、イサムの戸惑いは大きかった。

 記憶の中の、今まで知るユーラの姿と目の前の人物の姿が違いすぎる。仮にユーラとの出会いが今の状態だったならば、山中で野宿をする姿と重なるわけがなかった。


「ほら」

 寝台の横まで来たユーラはそう言って、右手を差し出してくる。


 イサムの戸惑いなど関係なしに差し出された右手、その袖口からにゅるりと蛇が顔を出してきた。


 緑色の蛇は旅を共にする、イサムの顔に消えない痕を刻んだあの蛇だ。蛇はユーラの右手を伝って寝台へ飛び移ると、そこから素早く移動してイサムの首元という定位置に収まった。


 蛇の行動と様子は以前と変わらず、首元に感じる重さにはしっくりくる。それが余計にユーラの変化を大きく感じさせてくるのだが、こうして旅の同行者が揃うことで、イサムは自身が一先ず安堵していることに気が付いた。


『それで、ここは?』

「やっぱり覚えてないのね」

 イサムの問いに、ユーラは軽く笑った。


 話しの流れの中での、何でもない笑顔。それが見たことのない恰好のせいか、イサムは不意を突かれた心地だった。


 だが次の瞬間、ユーラの顔が真顔へと戻る。

 それと同時に足音を響かせて、誰かが部屋に入ってきた。


「廊下を走るとは、はしたない」

 その声は男のものだった。


 部屋の入口に顔を向ければ、紺色の瞳でこちらを見る一人の男の姿がイサムの目に映った。少し丸みを帯びた背に、着込んでいるのはローブといった類の長丈の、象牙色の服だ。頭頂部は禿げ上がって白い肌が見え、残っている髪も白く、顔に刻まれた皺と相まって男の老いを意識させられる。


 男の容姿は特段目を惹くものではないはずなのに、イサムはなぜかそれが気になった。

 言葉を発した後、男はそのままこちらへ近付いてくる。


「すみません、お祖父様」

 ユーラは男の方へ振り返り、そう言葉を返していく。


 お祖父様。その言葉を聞いて、男の容姿で気になったことが明瞭になってくる。

 そしてそこからとある事実に気付かされ、イサムは衝撃を受けた。


 異界で旅を始めて、二ヶ月は経つだろうか。最初は山の中を進み、人と出会うことがなかった。それが山の中でのオルモルとの出会いに始まり、村を訪れ、街にも滞在して多くの人と出会った。こうしてユーラの親族と対面することもでき、驚きもあれば旅の終わりが見えた気がして嬉しさもある。


 しかし旅を振り返れば、気付いた事実を肯定するものばかりだった。


 旅の道中で出会った様々な人々。男と女に、子供と大人。大人はイサムと同世代から、それより上の世代や中年の者などだ。そしてそこに高齢の者は誰一人としていなかった。

 白髪混ざりの者は幾人か見た覚えがある。だが目の前の男のような老いた者を見たことが、今回が異界に来てから初めてだった。

 このユーラの祖父の姿を見て、今まで訪れた村や街に老人の姿がなかったことに、イサムはここで初めて気付いたのだ。

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