四郎 ー 幸之助 ①
山城国の片田舎にある柳生という集落は、山に囲まれた、小さいながらも剣術が盛んな集落である。
柳生心眼流、柳生新陰流という名だたる剣術流派の「柳生」は、この集落の名前が由来であるとも言われている。
そんな集落の、とある剣術道場の妾の子として一八四三年の春、松田四郎は生を受けた。彼を産んだ実母は、その時亡くなった。
彼の幼少期の生活は、不憫という言葉がこれ以上適する例は無いであろうものであった。
いつの時代、どこであっても、妾の子は正妻とその子から疎まれた。物心ついてからは毎日毎日、奴隷のようにこき使われ、手を出されることも頻繁にあった。また、腹違いの兄弟からの執拗な嫌がらせによって、体のどこかしらかには青あざが絶えない日々が続いた。
しかし、幸いなことに、四郎が十歳になろうかという頃、彼に理解者ができた。父親である松田雄一郎である。ある日、雄一郎は日々の生活に泣き言一つ言わない四郎の精神力、そして腹違いの兄弟の嫌がらせを回避するために自然に身についたであろう洞察力に目をつけ、竹刀を持たせてみた。
四郎にとって幸運なことに、彼には剣才があった。そしてさらに幸運なことに、雄一郎がその才能に気づいた。
それからの日々は、四郎にとって非常に有意義なものであった。毎日父親から厳しい稽古をつけられ、今まで以上に青あざが増えた。しかし、そのような生活に四郎は満足を覚えた。
確かに稽古は厳しいものではあったが、それを乗り越える度に父親は自分を認めてくれる。四郎は、その父親からの承認が何よりも嬉しかった。
しかし、承認が増す度に、腹違いの兄弟からの妬みもまた増していった。
四郎が十八になる年に、雄一郎が亡くなった。道場の後継者として、雄一郎は四郎を指名していた。しかし、雄一郎の正妻が頑なにそれを否定し、後継者は四郎とは腹違いの長兄、松田雄太郎であると主張した。
道場の門下生からは、剣技の腕前から、四郎を後継者に据える声が相次いだが、死人に口無しとはよく言ったものである。亡くなった雄一郎の意思が伝わることはなかった。
松田雄太郎が道場の後継者になることが決まると、四郎は持てるだけの金を拝借して家を出、放浪の旅に出た。
時は幕末。武士による攘夷運動が過激化し、そしてそれに尊皇派が同調する。各地で反幕府運動が繰り広げられ、治安が悪化していた。
四郎も多くの武士の例外ではなく、攘夷思想を持ち、刀をもって諸外国と戦う意思を持っていた。しかし、四郎は他の多くの武士と違うところが二つあった。
一つは、攘夷思想は持っているが、尊皇思想は持って無い、ということである。攘夷断行はすべきだと四郎は考えていたが、それを成す主体は幕府だろうが朝廷だろうが構わない、と考えていた。
また、もう一つは、多くの攘夷派武士と違って、まず敵をこの身を持って知ろうとしたことである。
「戦うことは、まず敵を知ることから始まる。」
四郎が慕った父親の口癖であった。
四郎は、日米修好通商条約により新たに開港された港である神奈川に足を踏み入れた時、我が目を疑った。肌が白く、髪は赤く、目は青く、背は六尺以上あり、なにやらよくわからない言語で会話をしている。そのような鬼のような生物が何人もいる。
おまけに、港には巨大な黒い塗装を施した船が煙を吐いて留まっている。噂に聞く、黒船というものか。
近くの宿の女将に話を聞くと、なんでも鬼のような人間は亜米利加というはるか東の大国から来たらしく、黒船はこちらの大砲が届かない距離から雨のように砲弾を降らせることができるという。
この時、四郎は自らの力の小ささを感じた。自分一人で、一体何を変えられるというのだろうか。自分が亜米利加人を数人斬ったとして、本当に攘夷はなされるのだろうか。
世界とは、こんなにも大きいものなのか。
四郎は愕然としたが、自らの目指すべき方向はすぐに定まった。
何が何でも自らの力を高めなければならない。力が無ければ、自らの考えが実現されることは無い。
それから三年間、四郎は多くの剣術道場を足掛かりにして放浪した。剣技には磨きがかかり、ほとんどの道場主には勝てる程までにはなった。
しかし、それで高められるのは剣技の力だけである。その他の力を高めるためには一体何をどうすれば良いのか、四郎にはわからなかった。
一八六四年六月、池田屋事件。
新撰組が、尊皇派の会合に突入し、多くの尊皇派志士を斬殺ないし捕縛した。この事件はあっという間に全国に広まり、新撰組の勇名を轟かせた。
四郎はその知らせを聞いて昂揚した。刀で、この世界を動かすことができる集団がまだいたのか、と。自分に足りない「影響力」を持った武士が、こんなにもいるのか、と。
四郎は京都に赴くと、幸運なことに新撰組が隊士を募集しているという。四郎は迷うことなく、入隊することを決めた。
お時間いただき、ありがとうございました。
続編、ゆるゆると書いていきます。