中編
「海ですよ、海! なんかテンション上がっちゃいますね!」
残念ながらそれはお前だけだ、と言う言葉を根気強く飲み込んだ俺は適当に相槌を打ってお茶を濁した。大学を出た俺たちはまず黄色い看板のコンビニでトイレを借り、そこでさらに五個入りのプラスチックのコップを買った。そして海に向かう県道を二人で高鬼(鬼は地面より上にいる奴をタッチできない。ただし、一箇所に留まれる時間は五秒)をするという攻守の激しいことをしながら歩いて、俺たちは大学から二キロほど離れた海岸までやってきていた。
「あー、お前が高鬼やるとか言うせいで結構酔いが回ったわ」
「十月だけど暑いから泳いじゃいましょうか!」
「やめろ。お前みたいな馬鹿な大学生がいるから毎年この海で海難事故が起こるんだ」
俺は『遊泳禁止。命を大切にしよう』という看板を指差して佑里を止めた。冗談で言っているかと思っていたら、シャツのボタンを外し始めたからだ。止められた佑里は非常に残念そうな顔をしてぶつぶつ言いながら俺のところに戻ってきた。バカでピーキーで酔っ払っていてもこの辺の常識は理解してくれるのか、と俺はそっと胸を撫で下ろしたのだが、目の前に来た佑里の方は撫で下ろすはずの胸元がぱっくり開いていて、白くて綺麗な谷間とそれを包む黒いブラジャーが俺に丸見えだった。
「ワザとだろ?」
「嬉しいでしょ?」
「まあね」
「立った?」
「ちょっとな」
「よかった」
嬉しそうに笑った佑里は、俺から焼酎と日本酒とコップが入った二枚重ねのビニール袋(この重さのせいで俺はヘトヘトになった)を奪って、ごつごつした石の上にそのまま座り込んだ。そして、コップを二つと持参した『おれの酒』と書かれた一升瓶を取り出してさっそく日本酒を注ぎ始めた。
「ほら、先輩も早く座って飲みましょうよ」
自分の隣を手でぽんぽんと叩き俺を促す佑里。機嫌が良すぎるのが少し怖かったが、ここで座る以外の選択肢を取ることもできそうになかったので、俺は黙って佑里の横に座ることにした。
「へへへ、はい、これ先輩の分」
「サンキュ」
日本酒をなみなみと注がれたコップを受け取った俺は、こぼさないようにゆっくりとそれを口に運んだ。少量の液体が口の中に入ると、たまに家で飲む日本酒よりも少し辛いような気がした。
「どうですか、先輩?」
佑里は自分の酒も飲まずにキラキラした目で俺のことをじっと見ていた。しかし、日本酒の味が詳しくわからなかった俺はうまいともまずいとも評価できず、結局「飲みやすいな」という曖昧模糊な返事をすることしかできなかった。その返事を聞いた佑里は「えー、それだけですか?」とひどくがっかりした様子で、なぜか良くわからないが自棄酒のように日本酒を一気に呷っていた。
「ごめん、俺、日本酒ってほとんど熱燗でしか飲まねぇからさ」
「そんなの邪道ですよ。でも、確かに飲み会で先輩が冷酒を注文しているところは記憶にないですね」
「佑里、お前飲み会の記憶とかあるのか?」
「あ……そういえば、あんま無いっすね」
「だろうな」
毎回毎回無茶な飲み方ばかりして家まで運ばれてるのにそれで記憶が残っていたら驚きだし、記憶が残っているくらいならそのまま自分で歩いて帰れと説教してやるところだった。コイツの酒乱のせいでサークルの男子の何人が吐瀉物をかけられ、殴られ、噛み付かれたのかわからない。もちろん俺もその被害者の一人であり、四年になって佑里の専属介抱係に就任してからは被害者の会の代表も兼任するまでになってしまった。
「あ、そうだ。先輩、ライター貸してくださいよ」
「なんだよ、急に」
「このコップを下から温めれば先輩の好きな熱燗になるじゃないですか」
「お前相変わらずバカだな……というか、去年の十月でタバコ止めたからもってねーよ」
「そうなんですか?」
「だからやるなら自分のを使え」
「え……」
「まあ、俺は偶には冷酒もいいと思ってるけどな」
わずか数十メートル先で飛び散る波飛沫。実家も海の近くなのでその光景は特段珍しいものではなかったけれど、他にやることもなかったし、それに酒を飲みながら海を見るというのもいつもとは趣が違ったので、俺は波が打ち寄せる音に耳を澄ましながら黙ってその光景を眺めることにした。
「先輩」
「あん? 今、俺すっげぇ黄昏ってるから手短に頼む」
「……私がタバコ吸ってたこと知ってたんですか?」
「え、お前タバコ吸ってたん?」
「なんすか、それ。殴りますよ?」
日本酒を一気に飲んで酔いが回ったのか、佑里は一段と暴力的になっていた。持っていたコップを俺に投げつけ、胸倉を掴んですごい目付きで睨んできた。
「私は真面目に聞いてるんです。誤魔化さないでください」
「なんだよ、そんなに怒るなよ」
「いや、マジでムカつく。先輩のそういう飄々としたところ、こっちが本気なのにわざとはぐらかす感じとかマジでイライラするんですけど。私のこと馬鹿にしてんですか?」
「してないよ。俺は一度だってお前を馬鹿にしたことはない」
「じゃあ今すぐ答えてください」
「知ってたよ」
「いつから?」
「一年くらい前から」
「なんで?」
「珍しく酔っ払った俺をお前が家で介抱してくれたとき、お前吸ってただろ」
「嘘でしょ。先輩あのとき完全に酔い潰れて寝てたし、私わざわざ家を出て外で吸ってたんだけど」
「だから言ってんだろ、そういう迷惑な信頼感はいらねえって。なんで男が女の家に行くのに酔い潰れて行くんだよ。そんなのただの馬鹿じゃねぇか。あのときは酔ったフリしてただけだ」
「先輩は私を騙したんですか?」
「騙されたと思うなら謝るけど」
「そんなのいらない。だから殴ります」
胸倉から手を放した佑里は、容赦なく俺の顔を殴った。グーだ。パーじゃない。ごつごつとした感じが実に痛々しいあのグーである。女の子とはいえ身長が165センチあり、中学のときは軟式テニスで全国大会にまで出たことのある運動神経抜群の佑里のパンチはマジで痛かった。頬を中心に脳の奥までピリピリした痛みが走り、口の中が気持ち悪かったので佑里のいない方に唾を吐くと、やはりそこには血が混じっていた。
「佑里、酒零れちゃったからもう一杯頂戴」
「はい、日本酒でいいですか?」
俺を殴った左手を二、三度ぷらぷらさせた佑里は新しいコップを出して、それに日本酒を半分くらい入れて「はい、どうぞ」と言いながら俺に渡した。それはそれは可愛い言い方で、お酒で少しトロンっとなっている目もそれはそれは色っぽいのだが、忘れてはいけない。コイツは二十秒前、俺にグーパンチを食らわしたのだ。友情パンチではなく、全身全霊のグーパンチを。
「ねえ、先輩。私のこと嫌いになりましたか?」
「なんでそんなこと聞くんだ?」
「タバコ吸ってたし、吸ってること隠してたから」
いやいや、そこは今殴ったことに言及しようぜ。
「嫌いじゃないよ」
「本当ですか?」
「だって俺は一年前からお前が吸ってたのを知ってたし、その吸ってたのを隠したがってのも知ってた。全部知った上でこうやって一緒に酒飲んでるんだから嫌いなわけないだろ」
「そうでした。先輩の唯一のこだわりは『嫌いな奴とは酒を飲まない』でしたね」
佑里はカーゴパンツのポケットから水色の箱を取り出した。
マイルドセブンのスーパーライト。
俺はそんなものを取り出したから、てっきり中のライターを取り出して熱燗を作り始めるか、それともタバコを吸うのかと思っていた。しかし、このバカでピーキーで酔っ払いなヒステリー女は何を考えたのか、取り出したタバコを箱ごとぽーん、と投げ捨てた。俺の腕時計を投げたときのように綺麗なフォームで。
「よくわからんけど、捨てていいのか?」
「あんなクソマズイ煙なんてもういらない」
「佑里さん。それりゃあちょっとワガママ過ぎやしませんか?」
「第一、先輩が私に内緒でタバコを止めるのがいけないんですからね!」
まさかのとばっちりを受け呆然とする俺を尻目に、佑里は自分の分の新しいコップを用意して日本酒を再び飲み始めた。まったく、コイツの言動は相変わらず理解できない。理解……できないが、しかし、このことについてはなんとなくわかるような気がした。
マイルドセブンのスーパーライト。
それは俺が吸っていた銘柄だ。
もちろんただの偶然かもしれない。
でも、もしも佑里が俺の真似をしてそのタバコを吸っていたのだとしたら、
俺が吸うのを止めていたのを知ってショックを受けて、ちょっと怒ってしまうのも、
まあ、わからない感情じゃない。
ここで普通の奴ならそれはしょうがないこと、それは誰の所為でもないと自然に納得するのだろう。でもコイツは、佑里は、ちょっと普通の人間よりそういう考え方をするのが下手なのである。感情任せとまでは言わないまでも、普通の人が理性で感情を一つの選択肢にするところを、佑里は感情を感情のまま扱ってしまうのだ。だからコイツは普通の人にはうまく理解してもらえない。というか、むしろ佑里とうまく付き合っていくには理解しようとしては駄目なのだ。
理解して、
理解したような気になって、
他人が作り上げた理想を押し付けられるのを、
佑里は極度に嫌うから。
「そうだ、先輩。ちょっとしたゲームをしましょうよ」
日本酒を飲んだらまた機嫌が戻ったのか、急に佑里がそんなことを提案してきた。
「いいぜ。俺、すっげぇ『ぷよぷよ』強いから」
「『ぷよぷよ』はやりませんよ。先輩リアルに強くてつまんないですもん。それにまずゲーム機がないでしょ」
「そうだったな。うっかりしてたよ」
「あははは、あんまり適当なこと言うともう一発殴りますからね」
「お願いだからさ、それを決め台詞のように言うのはやめてくれ」
決め台詞どころか実際に殴るのも止めてほしいんだが。
「はいはい、そんな些細なことは気にしないで早速始めますよ。ルールは簡単で、あそこにある空き缶に先に石を当てた方が勝ちです」
佑里が指差した先には確かにビールの空き缶が一つ転がっていた。なるほど。さすがに自分で言うだけあってルールは単純明快で、しかも佑里の思い付きなのに意外とまともな遊びである。俺は早速落ちている石を拾って缶に向かって投げた。しかし、缶までの距離はおよそ五メートルと遠く、酔っ払った状態で投げた俺の一投は缶の若干手前に落ちて当たらなかった。
「はい、残念でした。ちなみに罰ゲームもありますからね」
「言うの遅くね!?」
「先に当てられたら絶対に相手からの質問に一つ答えなければいけません……あ、当たった」
「嘘やん!?」
佑里が投げた石は一直線に缶に向かっていき、カツンっと音を立てて空き缶を数十センチ動かした。いくらなんでも一発とか……これはもはやギャグとしか言いようがなかった。
「ふふふ、まずは私の一勝ですね」
「チクショウ……なんか納得いかねぇけど……まあいいや。一応勝負だし、何でも好きなこと聞けよ」
「え、いいんですか、やったあ! じゃあ、ええと、まずは何を聞こうかなぁ」
コップに口を付けながら俺の体をじっくりと見つめる佑里。別に罰ゲームの定番の『何でも言うことをきけ』とかそういう無茶なものではなくただ質問に答えるだけなのに、なぜか俺の背中には嫌な感じの汗がひたひたと流れていた。そんなえも言えぬ恐怖に駆られた俺を、しかし完全に無視している佑里は、コップを右手に持ち替えると空いた左手を俺の肩にかけてきた。そして自分の体の方に俺をぐいっと引き寄せると耳元で、
「私とヤリたいですか?」
そんなことを恥ずかしげもなく、むしろ俺を興奮させるように聞いてきた。
「ごめん、佑里。うまく聞こえなかったからもう一度言って」
「いいですよ。先輩は、私とセックスしたいですか?」
「ごめん、佑里。うまく聞こえなかったからもう一度いやらしく言って」
「うふふふ、いいですよ。聞こえるまで何度でも言ってあげる。せんぱいは、わたしとエッチしたいですか?」
「……正直に答えなきゃ駄目か?」
「駄目です」
「……正直に答えても引かないか?」
「さあ? それはわかりません」
妖しくニコニコ笑う佑里の横顔を見て、はあ、と心の中で盛大に溜息を吐く。困った俺を見てここまで楽しそうにしている佑里に、つまらない嘘や冗談を言ったらおそらくまた俺は殴られるのだろう。まったく、どうしていつも俺はこんな損な役ばかり回ってくるのだろうか。愚痴を言ってもしょうがないのはわかってる。だけど、恥ずかしい本音を言わなければならない俺はせめてもの悪足掻きとして、佑里の面倒を見ることをやめてしまった、佑里を見捨ててしまった沙織ちゃんや黒木先輩のことを怨んだ。
「……やりたい」
「え? うまく聞こえなかったんでもう一度言ってください」
「セックス、したい……です」
「え? うまく聞こえなかったんで選手宣誓するように言ってみてください」
このクソ女が!
「ああ、俺は佑里とエッチしてぇよ! だってお前エロイんだもん!」
「……今すぐ?」
「な、なに?」
それは予想外の返しだった。
「今すぐしたいですか?」
「ちょっと待て。それはズルい。質問が二個目になってるし、というか、いいかげん俺を離せ」
「ちなみに、私は先輩ならいつでもやらせてあげますよ?」
「……そういうこと言うとマジでやるけどいいの?」
試しに左手でシャツの上から胸を揉んでみた。するとてっきり嫌がるものかと思っていたら、佑里は少し官能的な声をあげて余計に俺の体を自分の方に抱き寄せるだけだった。
「ちょっと、先輩。いくらなんでも乱暴過ぎ」
「あ、悪い」
「でも、私が本気だってことわかってくれました?」
「わかった。すっげぇわかった。でも、やっぱり今は駄目だから俺から離れろ」
「何でですか? ガンガンやってここ通るみんなに見せつけてやりましょうよ」
「そんな若気の至りのようなことできるか。それに俺、今日は用意してないし」
「私、今日は生でも大丈夫な日ですよ……たぶん」
「恐ろしいことを平気で言うな。もっと自分を大事にしろ。というか、そんなことより次のゲームやるぞ」
俺はしぶとく纏わりつく佑里を引き剥がして、足元で適当な大きさの石を探す。隣では「意気地なし」とか「ビビリ」とか「チキン」とか「ヘタレ」とか、とにかく俺の悪口を言いながら酒を飲んでる佑里。まあ、俺としてはここは格好良く「紳士」とでも言ってくれると嬉しいのだけれど、確かに女の子にあそこまで言わせておいて何もしないのはビビリとかヘタレとか言われても文句は言えないかもしれない。それに用意してないとか言い訳しながら、実は俺のお財布の中には二個ほどコンドームが入っている。これがバレればきっと殴られるどころじゃ済まないだろう。最悪刺されて死ぬかもしれない。でも今は、少なくとも今は俺は佑里とそういう関係にはなってはいけないのだ。それはもちろん佑里のためでもあったし、なにより俺自身が――
「あ、また当たった」
「……つーか、なんで俺のは当たらないんだよ!」
明らかに佑里の方が酔っているはずなのに、なぜか俺の石は缶にかすりさえしなかった。佑里は片手に日本酒、反対の手に石を握って「逆に酔っ払った方が当たるんですよ」となんだか『どや顔』で俺に講釈をし始めた。屈辱だった。かつてないほどの屈辱だった。
「じゃあ、二つ目の質問いきますねー」
「……好きにしろや」
俺は日本酒から芋焼酎にスイッチすることにした。しかし、いちいちコップに注いだりするのも面倒くさいし、臭いと言って佑里は芋や麦は飲まないのでそのままボトルに口をつけて飲むことにした。
「なんで大槻先輩は、沙織先輩と別れたんですか?」
「……そんなこと聞いてどうすんだよ?」
「先輩に質問する権利はありません」
「……簡単に言えば性格の不一致だよ」
「簡単に言わなければ?」
だからなんで質問が二個に増えるんだよ。
ズルイじゃん。
「俺のことが――」
――大槻君、ありえないよ
「――怖いんだって」
俺は努めて冷静な声でそう言った。
……
……
沙織ちゃんは同じテニスサークルに所属している背の小さい子で、佑里の一年先輩、つまり俺と同じ学年の女の子である。その沙織ちゃんと俺は二年生の春から三年生の冬まで付き合っていた。沙織ちゃんは日本人なのにハーフの人かと思うくらい顔立ちがはっきりしていて、しかもものすごくお洒落な子だった。俺は自分ではあまり意識していないけれど周りの友達曰く相当の面食いらしく、その所為か沙織ちゃんを初めて見たときもすごい可愛い人だなあとすぐに好感を持った。それに佑里ほどではないもののお酒も大好きで、だから酒好きな俺とはすぐに仲が良くなった。サークルの飲み会ではいつも俺の隣で酒を飲んでいたし、サークル以外の友達を集めたときも大抵その場に沙織ちゃんはいた。一年生の終わり頃になれば二人でテスト勉強をしたり、その打上げと言って街中を二人で飲み歩いたりもして、俺たちは段々友達以上の関係になっていった。そして、二年生になって初めての飲み会――それはサークルの新入生歓迎飲み会での出来事だった。
いつものように一年生をいじめる一次会を行い、その後の生き残りを引き連れた四年生が傍若無人の振る舞いをする二次会を終えると、沙織ちゃんが飲み過ぎて気持ち悪いと言い始めたのだ。それは沙織ちゃんにしては珍しいことだった。なぜなら彼女はいつもは率先して三次会、四次会に行っていたし、そもそもその日はあまりお酒を飲んでいなかったからだ。あのお酒が大好きで、お酒にも強い沙織ちゃんが酔うなんて元々体調が悪かったのだろうか。そのときあまり深く考えなかった俺は単純にそんなことを思っていた。
二次会が終わったとき俺は男子便所に転がっている一年生の面倒を見ながら、飲み会の会場に忘れ物がないかをチェックしていた。そして、一年生にできるだけ吐かせて水を大量に飲ませた俺が、店員さんに謝りながら一年生を連れて店外に出ると、お店を出てすぐのところで蹲ってしまった沙織ちゃんを、三年生の女子の先輩が面倒を見ていた。
「次どうするんですか?」
俺は酔っ払った一年生をまだ生き残っていた一年生(余談だが、これが佑里である)に預けて、飲み会の幹事である三年生の黒木先輩に尋ねた。
「もちろん残ってる一年連れて三次会に行くぞ」
「死んでる一年生はどうするんですか?」
「今、タクシー呼んでおいた。話を聞くと潰れた三人は今日は一緒に泊まるらしいからそれでたぶん帰れるだろう」
「そうっすか。じゃあ次行きますか」
そんなことを黒木先輩と話していると、急に三年の女子の先輩に「ちょっといい?」と腕を掴まれた。何事かと思って一緒についていくと、先輩は俺を沙織ちゃんの下まで連れて行った。
「今日はもう駄目みたい」
「珍しいですね」
「そうね。だから今日は帰そうと思うんだけど、大槻君一緒に帰ってあげてくんない?」
「僕がですか?」
「そうよ、同じ二年生でしょ。それに最近すごく仲良いみたいだし」
「はあ、まあ否定はしませんけど」
「大槻君は飲み足りないと思うけど、ごめんね。はい、これ。タク代は私たちが出してあげるから」
先輩は三千円を俺に渡すと、そのまま黒木先輩率いるグループのところまで行ってしまった。確かにその日は新入生歓迎会ということもあって、新入生と相打ち覚悟で飲み比べをして殉職した二年生が大量に発生していた。その所為で今残っている二年生は俺と沙織ちゃんしかいないわけだが、しかしさすがに三次会に二年生が一人も出席しないのは先輩たちに失礼じゃないだろうか。
置いていかれそうになった俺は大声で黒木先輩を呼んだ。すると、それに気づいた先輩は笑顔で手を振って、
「大丈夫! 話は聞いたから! 四年生には俺が言っておくからお前は沙織を送ってやれ!」
そう言って、みんなと一緒に楽しそうに夜の街に消えていった。
「ふぅ……やれやれ」
蹲っている沙織ちゃんに「ちょっと待ってて」と声をかけた俺は再度居酒屋の店内に入り、レジのところにいた店員にもう一台タクシーを呼んでもらうようにお願いした。そして店の入り口にあった自販機でペットボトルの水を二本買って沙織ちゃんの下に戻った俺は、キャップを開けて気持ち悪そうにしている沙織ちゃんに握らせた。
「ごめんね、大槻君」
「気にしないで。今日はもう飲むのは止めにしたから気分良くなるまでずっと介抱するよ」
そう言って俺は自分の分の水を飲んだ。基本的に俺は酒を飲んだら飲み終わるまでノンアルコールの水分は摂らないことにしている。そのこだわりは沙織ちゃんも知っていたから、俺が水を飲むのを見ると小さな声で「ありがとう」と言った。
しばらく二人で店の前で水を飲みながら待っていると、一台の緑色のタクシーが目の前に止まり後ろのドアが開いた。沙織ちゃんの小さな体を抱きかかえた俺はそのまま倒れこむように後部座席に入り、運転手に「大学前まで」と頼んで沙織ちゃんの住んでいるアパートへ向かった。
……まあ、みんな所々おかしかったので薄々感づいてはいたけれど、後に聞くとこれは沙織ちゃんと三年生の女子の先輩たちによる作戦だったらしい。酔っ払った沙織ちゃんを俺に押し付けて二人をくっ付ける作戦。なんとも有り触れていて、そして使い古されていた作戦ではあったけれど、反面みんなが好んで使うその作戦の威力は絶大だった。元々仲が良かったので警戒心ゼロのまま沙織ちゃんの部屋に入った俺は、彼女をベッドまで運ぼうとするとそのまま見事な足払いをかけられベッドイン。その後すぐに飛び込んできた沙織ちゃんに「好きだよ」と言われてキスをされた後は、当然自然の流れのように抱き合った。正直、メッチャやった。二人とも泥酔じゃなくてちょっと酔っている程度だったから逆にそれが歯止めを利かなくして、結局シャワーなど一緒に浴びたりなどして一晩で計五回もやってしまった。そしてその次の朝裸のまま起きた俺たちは、正式に付き合うことになった。
それから一年は楽しいものだった。二人で温泉にも行ったし、俺の実家で一緒にご飯を食べたこともあるし、もちろんいっぱいセックスもした。俺は沙織ちゃんが好きだったし、沙織ちゃんも俺のことを愛してくれて、喧嘩も偶にしたけど、それでも、それでも俺たちは幸せに大学生活を送っていた。けれど、付き合ってから一年が過ぎると段々と俺たちの関係はおかしくなってきてしまった。
ただし、沙織ちゃんの名誉のために言わせてもらうと、俺たちの関係が悪化してしまったのは決して彼女の所為ではない。彼女はいつだって俺のことを考えてくれて、見つめていてくれて、だから、だからこの件は確実に俺が悪かった。
俺が悪くて、
心底悪くて、
そして、
佑里が原因だった。
……
……
「怖いって……先輩、『でぃーぶい』でもしたんですか?」
「だから佑里、質問をポンポン……増やすんじゃねぇよ」
飲み過ぎか、過去を思い出した所為か、一瞬頭に刺すような痛みが奔った。その様子を佑里が不思議そうに見ていたので、俺は誤魔化すように持っていた芋焼酎を一口口に含んだ。
「確かに俺が悪いんだけどさすがに暴力は振るってねぇよ」
「じゃあ、なんで」
「俺は……『ありえない』んだって」
「は? なんすか、それ。意味がよくわかんないんですけど」
「さあ。俺にもよくわからん」
焼酎を飲みながら佑里に同調してそんなことを言ってみるが、もちろんこれは嘘である。本当は意味など、原因などわかりきっている。ただ、それを本人の前で言うことは、たとえ佑里の機嫌を損ね、その所為で殺されようとも俺にはできなかった。
――ありえない。
――大槻君、ありえないよ。
――なんで、
――なんで、佑里とずっと一緒にいて我慢できるの?
「よくわかんないって……ふざけんなよ!!」
「――っ!?」
やっぱり俺は地雷を踏んだらしい。
中身が四分の一ほど入った一升瓶が俺の目の前を横切り、二メートルほど先に落ちると悲しげな音を立てて割れた。頭の位置が数センチずれていれば確実に死んでたな、と思いながら俺は割れたビンから佑里の方に顔を向けると、彼女は今まで見た中で一番怖い顔をして怒っていた。普段細い目はカッと見開かれていて、頭に血が上っているのか白い肌も真っ赤に上気していた。まったく……お前がこんなことばかりするから俺が沙織ちゃんにフラれるんだぞ。ちょっとは自重しろや。
「そんなに怒るなよ」
「こんなの怒るに決まってんじゃん!! あの女はよくわからない理由で先輩を振ったんですよ!! それになんだよ、ありえないって。完璧にふざけてるし! アイツ、マジちょっと自分が可愛いと思ってチョーシ乗ってんじゃないの!!」
「バカ、佑里落ち着け」
「だってそうじゃん! 先輩知ってますか、あの女、自分から先輩のこと捨てたくせに、未だに未練タラタラなんですよ? 毎日のように私のところにメールしてきて『最近、大槻君と飲んでる?』とか『今度大槻君とかと遊びに行こうか』とか、マジウザイくらい連絡してくるんです。それなのに、それだけ先輩のこと好きなくせに、先輩のこと捨てやがって!!」
「佑里……」
「でもやっぱり一番許せないのは、先輩のことを怖いとかありえないとか言ったことですよ!! どうして、どうしてそんな見当違いな事を言えるのか、私には理解できない!! 先輩ほど優しくて、先輩ほど受け入れてくれて、先輩ほど温かくて、先輩ほど楽しくて、先輩ほど先輩ほど先輩ほど先輩ほど……とにかく!! こんな先輩を自分勝手な理由と感情でフッたあの女を、沙織を、私は、私は絶対に許さない!!」
怒り狂った佑里は急に俺に抱きついてきたと思ったら、そのままズボンに手をかけた。そしてポケットを探り、そこから俺の携帯電話を乱暴に取り出した。
「何するつもりだ」
「呼び出す」
その言葉を聞いた瞬間、俺は携帯を持っている佑里の左手を掴んだ。
「やめろ」
「やだ、絶対に呼び出す。それでボロクソに文句言って、最後に殴ってやる」
「絶対にやめろ」
「やだ」
「やめないと怒るぞ」
「やだ!! やるって言ったらやるの!!」
「やったらもう絶対に一緒に飲んでやらないからな」
動きが止まった。
「そんなことしたら俺はこれから絶対にお前と酒は飲まない。お前が酔い潰れても介抱しない。メールも絶対にしねぇし、電話なんて以ての外だぞ。大学では会っても無視するし、お前がいないところではお前の悪口だけ言う。サークルにも居れると思うな。どんな手を使ってでもお前を追い出してやる。そして俺はお前との思い出をすべて消す。俺の中にある楽しかったこと悲しかったことムカついたこと嬉しかったこと、つまり俺が俺であるために必要な大切のものの中からお前は消えるんだ。それでもいいか? それでもいいんだったら沙織ちゃんを呼び出せよ」
俺は掴んでいた手首を離した。そして、反対の手で持っていた芋焼酎を一息で飲めるだけ飲んで、そのままボトルを軽く放り投げた。おそらく、今日はこれ以上飲めないだろうから。
「……ヤダ」
小さな声で呟いた佑里は、俺の携帯を両手で持って固まっていた。固まって、小刻みに震えていた。震えて、さっきまで怒っていた顔をクシャクシャに歪ませて、号泣していた。
「ヤダ!!」
腕時計だけに飽き足らず、俺の携帯まで放り投げた佑里はそのままの勢いで俺を押し倒し、抱きしめながらキスをしてきた……否、本当は俺を殺そうとしているのかもしれなかった。右手は服を掴むと同時に爪が鎖骨の辺りに突き刺さっていたし、頭を後ろからがっしりと掴んでいる左手は完全に髪の毛を引っ張っていた。それにあろうことか佑里はキスをしながら俺の口の中を噛み始め、最後には力の限り舌を噛んできた。嘘を吐くと閻魔様に舌を抜かれるぞ、という迷信は聞いたことがあったし、自殺のとき舌を噛み切るやり方があるのも知っていたけれど、まさか他人に舌を噛まれるのがこれほど痛いものだとは思わなかった。酒をしこたま飲んで痛覚を麻痺させていなかったら、とてもじゃないが耐えられる痛みじゃなかった。しかし、そもそも俺はこの痛みを耐える必要があるのだろうか。さっさと「いてぇな!!」とか言ってこの女を跳ね飛ばしたって、それは何の不都合もなく、むしろ当然の行動ではないか。
――大槻君、ありえないよ
でも、俺は当然の行動を取らない。
佑里の気が済むまで好きにやらせる。
だって、それは俺にしかできそうにないから。
「ごめんね、沙織ちゃん」
確かに俺はありえない人間だよ。
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