前編
日曜日の夜、お笑い番組を見ながらパソコンで卒業論文を書いていると、サークルの後輩の女の子から一通のメールが届いた。俺は嫌な予感がしつつも手元にあった携帯を開きメールを確認すると、案の定そこにはこんなことが書かれていた。
――明日の午前十時に一升瓶持って正門に集合お願いします!
「アイツ……やっぱり正真正銘のバカだ……」
俺が彼女に抱く感情はいつも変わらない。そういう意味では、彼女――富永佑里は、期待を裏切らない人間だった。
◇◇◇
「やっぱり本気でいるんだな……」
朝の10時。原付を駐輪場に置いて大学の正門近くまで歩いていくと、そこには明らかに怪しい人物が立っていた。薄いクリーム色の胸元にフリルがついた可愛らしいシャツと、緑のカーゴパンツを穿いた黒髪ショートカットの女の子は、『おれの酒』と書かれた日本酒の一升瓶を大事そうに両手で抱えながら辺りをキョロキョロと見回していた。
「うわぁ……マジであんな女には近付きたくねぇ……」
すぐにUターンして東門から敷地内に入ろうと考えた。しかし、運の悪いことに現在は一コマ目の授業中なので道を歩いている人がほとんどいなかった。キョロキョロ辺りを見回していた女の子はすぐに数十メートル離れた場所に立ち尽くしていた俺に気づいて、駆け足で近寄ってきた。
「先輩マジ遅いっすよ。可愛い女の子をあんなところに待たせるなんて信じられないです」
俺はお前が信じられんわ、と心の中で思ったが、そういうことを言ってもこの女の子には意味がないということはこの三年間で俺は身に染みてわかっていた。そこで俺は無駄口を叩く代わりに「他の奴は?」と日本酒を抱えた女の子に尋ねてみるが、
「え、何言ってるんすか? 集合かけたのは先輩だけですよ。だって私、メーリスも一斉送信もしてなかったじゃないですか?」
最悪な答えが返ってくるだけだった。
「それに、こんなこと計画してもどうせ来てくれるのは先輩だけですからね」
「いや、そういう迷惑な信頼感とかいらんから。というか、それじゃあもし俺が来なかったらどうしてたんだ?」
「たぶん一生待ってたんじゃないですか?」
「……」
笑いながらさらっと言うが、コイツが言うと冗談に聞こえないのが恐ろしかった。富永佑里――テニスサークルの一年後輩の女の子――は、正真正銘のバカであったけれど、とにかく自分を曲げない女の子だった。それでいて酷くマイペースで、だから顔はすこぶる可愛くスタイルも抜群にいいのに、なかなか男にはモテなかった。というか、男に限らずあまり他の人間に理解されなかった。もちろん外見は良く、性格も明るいので友達は多かった。でも、本当の意味で彼女のことを理解している人間は同じ学科にいる女友達数人と、サークルにいる数人しかいない……らしい。
「でも、そんな心配しなくても先輩は絶対に来てくれますしね」
「……まあ、図書館で卒論の続きやろうと思ってたからな」
「ふふふ、そうやっていちいち理由を付けながらも私の言うことを聞いてくれる先輩が私、大好きです……でも、一升瓶持参としっかりと書いてあったのに、そんな薄っぺらな『PCしかは入っていません』的な鞄しか持ってきていないのは大幅減点ですね」
「別に俺はお前に好かれるために行動しているわけじゃないし、本当に卒論をやるつもりだったんだ。それに、俺日本酒ってあんまり好きじゃないし」
そう言って俺は佑里に背中を向けて、駐輪場に戻ることにした。何も言わずに歩き出した俺に対して、彼女も何も言わずにただ黙って付いてきた。そして俺は駐輪場に止めてある収納スペースの広さだけが自慢の原付に鍵を差して、座席を上げる。すると、俺の肩越しからその光景を覗いていた佑里が、
「いやー大槻先輩。さっきは生意気言ってすみませんでした。やっぱり先輩は私の想像通りの人でした」
今更おだてても遅い。俺は収納スペースにパソコンが入った鞄を入れる代わりに、袋に入った缶ビール十二本と芋焼酎と麦焼酎それぞれ一本ずつを取り出した。
「で、どこで飲む?」
◇◇◇
俺はメールを受け取った当初、大学近くのサークルの奴の家でお酒を飲むんだと思っていた。しかし、集合場所に行ってみれば、そもそもこの思い付きみたいな飲み会は俺と佑里の二人だけで開催するというではないか。ということは、その事実が判明した時点で必然的にどちらかの家で飲むと考えるのが世間一般の人の思考回路であろう。ちなみに、俺は大学から五キロほど離れたところにある実家から通っている。つまり、そういう諸々のことを勘案すれば、当然大学からも近い佑里の下宿先のアパートで飲むという答えを導き出すことができる。できる。できる……はずだったのだが、
「なぜ、大学の中庭で飲まなきゃいけないんだ?」
「へへへ、実は授業が終わってここの前を通る度に思ってたんですよね」
「何を?」
「ここで昼真からお酒飲んだらおいしいだろうなーって。しかもみんなが授業受けているときに」
バカ丸出しというレベルを遥かに超えて、もはや思考回路が人間のそれ女の子のそれとは思えなかった。どうしたら大学内を普通に歩いていてそんな発想が浮かぶのだろうか。
「チクショウ。だから二人で飲むのに集合場所が大学の前だったのか……」
「いやーやっぱり最初は日本酒よりもビールですよね」
「佑里、お前もう少し人の話を聞くことと人と話すことを練習したほうがいいぞ?」
「え? なんですか?」
「……スーパードライ飲んだら怒るからな」
「了解っす!!」
芝生の上に何も敷かずにそのまま胡坐をかいて向かい合うように座った俺たちは、とりあえず俺が買ってきたビールを開けて乾杯した。そのとき俺はただスーパードライの缶を前に出しただけなのだが、佑里が大声で「かーんぱーい!!」と言うので、周りの道を歩いていた授業に遅れそうな生徒や大学職員の人達が何事かという目で俺たちに注目した。視線が痛かった。クソッ、なぜ今まで平穏に大学生活を送ってきた俺が卒業を控えた十月の始めにこんな拷問みたいな目にあわなければならないんだ。これで職員に注意されて、もしも卒業が取り消されるようなことがあったらどうするつもりなんだ、この女は。
「二本目貰いまーす!!」
「サークルの飲み会じゃねぇんだからプレミアムモルツを一気飲みするのはやめろや!!」
今度は俺の大声で周りの視線が集まった。不覚を取った俺は恥ずかしさを紛らわせるために、500mlのスーパードライを一気に飲み干した。もちろんそんなことをすればゲップが出るのだが、他の人の前ならまだしも佑里の前でそんな気遣いをする必要も義理もない。ということで、盛大にゲップをした俺はそのまま缶を握り潰して持ってきた袋の中に入れた。
「先輩先輩、私の缶も」
「自分で入れろや」
「えー、そっちに袋があるんだからいいじゃないですか。それに先輩のリンゴもぶっ潰せるその握力で、紙くずのように缶をグシャッてやるのは見てると楽しいんですけど」
「悪い、佑里。そのリンゴを潰せる云々は沙織ちゃんの嘘なんだ」
「え、マジっすか!? じゃあ居酒屋で飲んでるとき隣で騒いでるグループを黙らせるためにビール瓶を手刀で割ったっていうのも」
「それは本当だ」
「ですよね。あそこの居酒屋ウチのサークル未だに出入り禁止ですもん」
笑いながら二本目も飲み干した佑里は、一本目の缶と一緒に俺に渡してきた。仕方なく俺はそれを受け取り缶を潰して袋に入れてやった。
「それにしてももう十月ですけど暖かいですね」
「お前そろそろ就活じゃん、どうすんの?」
「まだなーんにも決めてません。ていうか、ぶっちゃけ働きたくないです」
「みんなぶっちゃければ働きたくないんだよ、わがまま言うな」
「先輩は……食品関係でしたっけ?」
「そうだよ、まだ配属先とかは決まってないけどな」
二本目のスーパードライを飲み終えた俺は缶を握り潰し袋の中に入れた。そして、今度は……と、考えていると、佑里が自分の目の前に置いてあった紺色のプレミアムモルツの缶を手に取って俺に渡してくれた。
「サンキュ」
「どういたしまして」
プレミアムモルツを開けて一口飲むと、今度は佑里が三本目のプレミアムモルツを飲み終えたので、俺は手を出して空き缶を受け取り、そして右膝の辺りにあった開いていないスーパードライを渡した。
「先輩、好きなのにいいんですか?」
「飲みたいんだろ?」
「よくそういうのわかりますね」
「わざとらしくモルツ渡しておいて『よくわかりますね』じゃないだろ。もういいよ、好きなの飲めよ」
「わーい、だから先輩と飲むの好きなんですよ」
まるで子どものように喜んでスーパードライを飲み始める佑里。そんな無邪気な姿を見ながら、しかし、俺はあえて言わなかった。
俺も次はプレミアムモルツを飲もうとしていたこと。
それを感じたのか、迷うことなくそれを勧めてきたこと。
よくわかったな、とは思った。
でも、
でも、それもやっぱりいつものことだったから、俺は何も言わずプレミアムモルツ――通称プレモル――を喉の奥に流し込んだ。
それからもつまみも何もない、ただ酒を飲む文字通りの飲み会は続いた。俺も佑里も共に五本ずつ500mlのビールを飲み、今は二人とも最後のビールを飲んでいた。
「先輩酔ってきてますか?」
「さあ、自分ではあんまり酔ってる気はしなけどな」
腕を巻くって時計で時間を確認すると時刻は十一時半。どうやら飲み始めてから一時間ほど経ったらしい。一時間でビール二リットル以上は、つまみがないとしても若干いつもよりピッチが早い。そう考えると酔いが回ってきても不思議じゃなかった。
「あ、先輩の時計カッコいいじゃないですか。ちょっと見せてくださいよ」
「ん、お前これ見たことなかったっけ?」
俺が腕から時計を外して佑里に時計を渡すと、佑里はビール片手にうんうんと頷きながらその時計を見ていた。俺は、あの時計がそんなにいいか、と思いながらその様子を見ていたが、不意に佑里は腕を振りかぶり、
「えーい」
その時計を投げた。投げた。冗談とかそういう感じではなく、思いっきりだ。時計は芝生が生えているところを大きく越えて、赤とオレンジのレンガが敷き詰めてある道に落ちて……跳ねた。
「見てください、先輩。メッチャ飛びましたよ?」
「……」
二十歳のときに三万で買ったお気に入りの時計だった。おそらく今から拾いに行っても壊れてしまっているだろう。だから俺はそんな無駄なことはせずに、この後どうするのか、どうするべきなのかを考えた。
「佑里」
「何ですか、先輩?」
悪びれもせず、楽しそうに笑う佑里。
そんな彼女を見て、俺は大きく吸い込んだ。
「ごめんな」
怒ろうとも思ったけれど、俺は素直に謝ることにした。
「飲んでる途中で時計見て、時間気にしてごめんな。今度からは気をつけるわ」
「え? 私は全然気にしてないですよ? でも先輩がそう言うのなら、今度からは気をつけてくださいね」
そう言った佑里は持っていた缶を突き出して、俺もまたその缶に自分の缶をぶつけて再度乾杯をした。そして、文字通り杯を乾かした佑里は、空になった缶を自分で握り潰し、「周りに人が増えてきたから、次行きましょう、次」と言って自分が持ってきた『おれの酒』を掴んで立ち上がった。確かに周りを見渡せば、早めに授業を終えた生徒たちが続々と校舎から出てくるのが俺の座っている位置からでも見えた。
俺は心の中でやれやれと思いながら、自分が持っているビールを飲み干した。さすがに六本目なので、少し気持ちが悪かったけれど、飲み終えた缶を潰した俺は片付けをして立ち上がり、近くにあったゴミ箱に今まで飲んだビールの缶を捨てにいった。
「というか、なんで先輩の俺が片付けしてんだ?」
そんな当然浮かぶべき、感じるべきことを少し考えて、しかし、佑里がまた変な行動を起こしても困るので、ゴミを捨てた俺はさっきいたところまで小走りで戻ろうとした。すると酔いの所為か、途中で足がもつれた俺はそのまま無残に芝生の上でこけてしまい、気がつくと頭上では佑里が腹を抱えて大爆笑していた。
「……お前、絶対に俺のこと尊敬してないだろ」
「あははは、まあ確かに尊敬はしてないですよ。でも、さっきも言ったように信頼はしてますから」
すごく、
誰よりも。
そう言って佑里は空いている方の手を俺に差し出した。
「……だからそういう迷惑な信頼感はいらねぇって言ってんだろ」
「恥ずかしがる先輩は相変わらずかわええのー」
「ふん、からかうならもう行かねぇよ」
「はいはい、拗ねないでください。とりあえずそこから立ち上がってくださいよ」
差し出された白くて小さい手。俺はそれを握って立ち上がり、服についてしまった芝生を素早く手で払った。そして改めてさっきいた場所まで行き、置きっぱなしになっていた焼酎が入ったビニール袋を拾い上げた。その間、佑里は一升瓶を手に持ちながらずっと俺のことを見てニヤニヤと笑っていた。まったく、誰の所為でこんな目にあってると思ってるんだ。
「佑里、さっさと次行くぞ」
居心地の悪くなった俺が少し機嫌悪そうにそう言うと、佑里は逆にすこぶる機嫌の良さそうな声で「はーい」と返事をして俺に駆け寄ってきた。しかも寄るだけでは飽き足らず、空いている右手で俺の左手にしがみ付いてきた。いつも冷静で、どんなときもクールで、いかなるときもチキンであると自負をしている俺でも、さすがにこれには驚かずにはいられなかった。佑里はバカでピーキーであるが、その顔とスタイルの良さは誰もが認める女の子なのだ。だから後ろから左手に抱きつかれた俺の肘には、佑里の豊満な胸がこれでもかというくらい押し付けられていた。
「ワザとだろ?」
「嬉しいでしょ?」
「嬉しかねーよ」
「そうですか。じゃあ罰として次の場所まではこうやってイチャイチャしながら行くことにしまーす」
何が罰で、そもそもどんな罪を犯したのか俺にはまったくわからなかった。しかし、この状態の佑里と言い合いをするのはあらゆる意味で時間と労力の無駄なので、俺は黙って引きずられることにした。中庭を出るとき同じ学科の女の子やサークルの後輩に出会ったが、彼女たちは何も言わなかった……否、何も言ってくれなかった。きっと俺の悲壮感漂う顔を見て言葉が出なかったのだろう。それはわかった。ただ、お願いだからこのことを昼飯を食べながら話したり、家に帰ってブログなどでアップしたりすることだけはやめてほしい。俺はこれ以上この大学に不名誉な伝説(ほとんど酒を飲んだ佑里の所為)は残したくはないし、なにより佑里と付き合っているという誤解だけはされたくなかった。
別に俺に彼女がいるわけじゃない。
俺が佑里のことを嫌いと言うわけでもない。
ただ、佑里自身がそういう関係を望んでいないと、
そのことだけははっきりとわかっていたから。
感想等ありましたらいつでもどうぞ