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妹が「祝福を受けるだけなら私の方が似合います」と言うので、王太子妃候補も聖鐘祭の役目も譲りました。ですが鐘は鳴りませんでした

掲載日:2026/05/18

「祝福を受けるだけなら、わたくしの方が似合いますわ」



 王宮南翼の候補者控え室で、妹のミレーユがそう言った。


 ここはアルヴィス侯爵家でも、私の私室でもない。


 王妃殿下が王太子妃候補の面談に使われる、王宮の正式な部屋だった。


 壁際には王妃宮の女官長が立ち、その隣には神殿から派遣された立会神官が控えている。


 向かいの長椅子には、王太子ユリウス殿下。


 その隣で、妹は白いレースの手袋を胸元へ添え、まるで舞台の幕が上がるのを待つ役者のように微笑んでいた。


 私は膝の上で指を重ねたまま、妹を見る。


 ミレーユは昔から、美しいものを見分けるのが上手だった。


 ただし、その美しいものがどうやって保たれているのかには、あまり興味を持たなかった。



「お姉様は、聖鐘祭のたびに少し怖い顔をなさるでしょう?」



 ミレーユが言う。



「祈りの順だとか、香炉の位置だとか、子どもたちの入場だとか。祝福を受ける場なのですから、もっとやわらかく笑えばいいのに」



 なるほど。


 この子は本当に、聖鐘祭をそのように見ていたのだ。



「ミレーユ」



 私は静かに名を呼んだ。



「聖鐘祭は、ただ白い衣を着て立つだけの祭ではないわ」


「でも、民が見るのはそこですわ」



 妹は即座に返した。



「王太子殿下のお隣で、白い祝福衣を着て、鐘の音を浴びる姿。そこに堅苦しい顔のお姉様が立つより、わたくしの方がきっと皆さまも喜びます」



 王太子ユリウス殿下は、そこで少しだけ咳払いをした。


 たぶん、妹に言わせすぎたと思ったのだろう。



「セレフィナ」



 殿下は私の名を呼ぶ。



「君が三年間、聖鐘祭の補佐をよく務めてくれたことは分かっている」


「ありがとうございます」


「だが、今年は少し形を変えたい」



 少し。


 その言葉で片づけられるものが、世の中には多すぎる。



「民に示す王太子妃候補は、厳格さだけでは足りない。親しみやすさ、華やかさ、祝福を受けるにふさわしい雰囲気も必要だ」



 私は黙って聞いた。


 王妃宮の女官長は表情を変えない。


 立会神官は、手元の薄い板へ何かを書きつけている。


 つまり、これはただの姉妹喧嘩ではない。


 王太子妃候補の登録変更と、聖鐘祭の役目変更を確認する、正式な場なのだ。



「殿下」



 私は訊いた。



「私を第一候補から外し、妹を候補として登録なさるということでしょうか」


「正式婚約はまだ結んでいない」



 殿下は少しだけ不快そうに眉を寄せた。



「候補を改めることは、制度上可能だ」


「ええ。制度上は」


「そして聖鐘祭の白衣役も、ミレーユに任せたい」



 白衣役。


 王太子妃候補が、王太子の隣で白い祝福衣をまとい、聖鐘が鳴る瞬間に民衆へ向けて一礼する役。


 見た目は、たしかに美しい。


 広場に敷かれた青い石畳。


 鐘楼へ続く白い階段。


 王都中が息を止めて待つ、一年で最も大きな鐘の音。


 その中心に立つ姿だけを見れば、妹が欲しがるのも分からなくはなかった。



「承知いたしました」



 私がそう答えると、ミレーユの目がぱっと輝いた。


 殿下も、少しだけ肩の力を抜いた。


 私が泣くか怒るか、少なくとももっと面倒な反応をすると思っていたのだろう。


 けれど、こういう場で取り乱したところで、祈りの順は一つも整わない。



「では、王太子妃候補の内定も、聖鐘祭の白衣役も、ミレーユへお譲りいたします」



 王妃宮の女官長の筆が、ぴたりと止まった。


 立会神官も顔を上げる。


 その二人の反応で、私は少し安心した。


 少なくとも、この部屋には言葉の意味を分かっている人がいる。



「ただし、確認させてください」



 私は続けた。



「白衣役の変更は、神殿への再申請、王妃宮への誓詞差し替え、孤児院合唱隊の立ち位置変更、鐘守への通達、貴族代表への案内修正を伴います」


「大げさだな」



 ユリウス殿下が言った。


 ああ、と思う。


 やはり最初に出るのはその言葉なのだ。



「聖鐘祭まで、あと五日です」



 私は穏やかに返した。



「大げさで済むうちに、確認しておいた方がよいかと」


「お姉様は、そういうところですわ」



 ミレーユが可愛らしくため息をついた。



「祝福は心でしょう? 順番や札や立ち位置より、祈る心が大事なのではなくて?」


「祈る心を、誰にでも分かる形にするために順番があるのよ」


「まあ」



 妹は小さく笑った。



「まるで神殿の方みたい」



 立会神官の眉が、ほんのわずかに動いた。


 私は見なかったことにした。


 妹は自分の言葉がどこへ刺さったのか、まだ分かっていない。



「引き継ぎはいたします」



 私は椅子の横に置いていた革箱を、テーブルの上へ載せた。


 中には、色紐でまとめた式次第の写しが入っている。


 青は王族の動き。


 白は神殿の祈り。


 赤は香炉と聖火。


 緑は孤児院合唱隊。


 金は鐘守への合図。


 どれも、三年間の聖鐘祭で少しずつ整えてきたものだった。



「聖火を運ぶ順、神殿長猊下の金杖が下りる時刻、王太子殿下の誓詞、白衣役が立つ段、合唱隊が入る合図、鐘守が綱に触れる許可。そのすべてが入っています」


「そんなにあるのですか」



 ミレーユが箱を開き、すぐに閉じた。


 たぶん、最初の一枚で読む気をなくしたのだろう。



「あります」


「でも、これは神官や女官が覚えていることでしょう?」


「覚えている人たちを、同じ順番で動かすのが白衣役の仕事でした」


「白衣役は祝福を受ける役ですわ」



 妹は唇を尖らせた。



「そんな裏方のようなことまで、わたくしがするのですか?」


「あなたが欲しがったのは、その役でしょう?」



 私がそう言うと、部屋が少し静かになった。


 ユリウス殿下が不機嫌そうに口を開く。



「セレフィナ。嫌味を言う必要はない」


「申し訳ございません」



 私は頭を下げた。



「ただ、聖鐘祭は王家と神殿がともに民へ誓う神事です。白衣役が何を知らず、何を省いたかは、鐘が鳴る前に必ず表へ出ます」


「鳴る前に?」



 ミレーユが首を傾げる。



「鐘は、鐘守が鳴らすものでしょう?」


「神殿長猊下が金杖を下ろして、初めて鐘守は綱へ触れます」


「では、猊下に下ろしていただけばいいだけですわ」



 妹は、あまりにも簡単に言った。


 ああ。


 本当に、この子には見えていない。


 鐘が鳴るのは、綱を引く人がいるからではない。


 その綱を引いてよいと、神殿が認める順序が整っているからだ。



「分かりました」



 私は箱を妹の前へ押し出した。



「それでは、明日から聖鐘祭に関する確認はすべてミレーユへお願いいたします」


「待て」



 ユリウス殿下が思わずというように声を上げた。



「すべて、とは」


「白衣役はミレーユなのでしょう?」


「だが、君はこれまでの流れを知っている。最後まで補佐として」


「私は候補から外れるのですよね」



 私は静かに問い返した。



「候補ではない女が、候補としての役目だけを担うのは、神殿にも王妃宮にも失礼です」


「それは……」


「もし私の協力が必要でしたら、王妃宮または神殿より、正式な補佐依頼をいただければお受けいたします」



 王妃宮の女官長が、そこで初めて小さく頷いた。


 そう。


 必要なのは、そういう線引きだ。


 婚約内定者だから当然やる。


 姉だから手伝う。


 これまでそうしてきたから続ける。


 そんな曖昧な形で神事を動かしてよいはずがない。



「セレフィナ」



 ユリウス殿下の声が低くなる。



「君は私に恥をかかせたいのか」


「いいえ」



 私は微笑んだ。



「今までずっと、殿下に恥をかかせないために動いてまいりました」



 そこで一拍置く。



「その役目を、本日で終えるだけです」



 ユリウス殿下の顔から、ほんの少しだけ余裕が消えた。


 ミレーユはそれに気づかず、白い指先で革箱の留め金を撫でている。



「大丈夫ですわ、ユリウス様」



 彼女は明るく言った。



「お姉様がなさっていたことくらい、わたくしにだってできます。民は難しい順番ではなく、祝福される姿を見るのですもの」



 私は立ち上がった。


 これ以上、この場で言うべきことはなかった。



「では、失礼いたします」



 最後に一礼して、私は候補者控え室を出た。


 扉が閉まる直前、ミレーユの楽しそうな声が聞こえた。



「白い祝福衣の襟元、もう少し華やかに変えられないかしら」



 私は廊下で足を止めなかった。


 祝福衣の襟元は、華やかさのために白いのではない。


 祈りの最初に、まだ何も受けていないことを示すために白いのだ。


 それを説明する役目も、もう私のものではなかった。




 翌朝、神殿から使いが来た。


 アルヴィス侯爵家の応接室で、私は封書を受け取った。


 そこには、聖鐘祭の白衣役変更について、私に最終確認を求める文面が記されていた。



 私は短く返書を書いた。



 王太子妃候補および聖鐘祭白衣役の変更は、王太子殿下ならびに王妃宮立会いのもとで確認済み。


 今後の祭礼確認は、候補者として登録されるミレーユ・アルヴィスへお願いいたします。


 私セレフィナ・アルヴィスは、正式な依頼なき限り、聖鐘祭の準備に関与いたしません。



 書き終えたあと、少しだけ胸が痛んだ。


 神殿を突き放したかったわけではない。


 王都の民を困らせたかったわけでもない。


 けれど、ここで私が一つでも答えてしまえば、また同じことになる。


 白い衣は妹が着る。


 王太子の隣も妹が立つ。


 けれど、見えない部分だけは私が整える。


 そんな形は、もう終わりにしなければならない。



 昼過ぎ、王妃宮の女官長からも確認が届いた。


 王太子殿下が、聖鐘祭の白衣役をミレーユへ正式に申請したという。


 ただし、王妃殿下は病床から「神殿の指導を必ず受けること」と添え書きを出されたらしい。



 私はその一文を見て、少しだけ目を伏せた。


 王妃殿下は分かっていらっしゃる。


 だからこそ、止めなかったのだろう。


 止めれば、ユリウス殿下は自分が否定されたと思う。


 止めずに進めれば、何が足りないかが形になる。


 王宮の人は、ときどきひどく冷静だ。



 三日目には、神殿側から再び使いが来た。


 今度は、私宛てではなかった。


 偶然、侯爵家の玄関広間にいた私は、使いの神官が父へ告げるのを聞いた。



「ミレーユ様が、神殿での事前稽古を二度欠席されました」


「体調が優れなかったのだろう」



 父は困ったように言った。



「いえ」



 神官は表情を変えずに返した。



「祝福衣の飾り合わせを優先されるとのご返答でした」


「……そうか」



 父の視線が、こちらへちらりと向く。


 私は何も言わなかった。


 父も何も言えなかった。


 今さら私へ頼めば、候補変更の意味がなくなることくらいは分かっているのだろう。



 四日目には、孤児院合唱隊の入場順が変えられたと聞いた。


 ミレーユは、子どもたちが花籠を持って先に入る方が可愛らしいと言ったらしい。


 本来、合唱隊は祈りの後に入る。


 神殿長猊下が聖火を清め、王太子殿下が誓詞を捧げ、そのあとで民の声として子どもたちが歌う。


 祈りの前に出せば、ただの飾りになる。


 それを私は知っている。


 神殿も知っている。


 でも、白衣役はもう私ではない。



 五日目の朝。


 聖鐘祭の日が来た。




 王都の中央広場は、朝から人で埋まっていた。


 商人も職人も、貴族の子どもも、神殿の施しを受ける孤児たちも、皆が鐘楼を見上げている。


 聖鐘は、一年に一度だけ大きく鳴る。


 その音が広場から王都中へ広がると、その年の王家の誓いが民に届いたとされる。


 だから、聖鐘祭の日だけは、パン屋も馬車屋も一度手を止める。


 鐘を聞くために。


 王家が今年も神殿と民の前に誓ったことを、確かめるために。



 私は貴族招待客の列の端に立っていた。


 王太子妃候補ではない。


 白衣役でもない。


 ただのアルヴィス侯爵令嬢として、決められた場所に控えている。


 灰青色の控えめなドレスを選んだのは、正解だったと思う。


 白はもう、私の色ではない。



「セレフィナ嬢」



 低い声が、斜め後ろから届いた。


 振り向くと、灰色の礼装に身を包んだ男性が立っている。


 王弟リオネル大公殿下。


 国王陛下の末弟であり、今回の聖鐘祭では監督権限を預かっている方だ。


 年はユリウス殿下よりいくらか上だが、王族特有の華やかさより、静かな鋭さの方が目立つ。



「大公殿下」



 私は一礼した。



「本日は、ずいぶん端にいるのだな」


「候補ではございませんので」


「そうか」



 殿下は広場へ視線を戻した。



「君の返書は読んだ」


「神殿宛てのものですか」


「王家にも写しが回った」



 私は少しだけ息を止めた。


 当然といえば当然だった。


 聖鐘祭に関する候補者変更の返書は、神殿だけのものではない。



「明確でよかった」



 リオネル大公殿下は言った。



「曖昧にしていれば、今日の責任も君に寄っただろう」


「責任が寄るのは、困ります」


「だろうな」



 短い返答。


 慰めでも、同情でもない。


 けれど、奇妙に楽だった。


 この方は、私を婚約内定を失った令嬢として見ているのではない。


 ただ、どこに線を引いた人間なのかを見ている。



「殿下は」



 私は小さく訊いた。



「今日、鐘が鳴ると思われますか」


「神殿長次第だ」



 殿下は即答した。



「ただ、神殿長は甘くない」


「そうですね」


「そして神事は、可愛いだけでは通らない」



 少しだけ毒のある言い方だった。


 私は笑わないように、広場へ視線を戻した。


 ちょうど王太子一行が入場するところだった。



 ユリウス殿下は、金の刺繍が入った白い外套をまとっていた。


 その隣に、ミレーユが立っている。


 白い祝福衣。


 けれど襟元には、規定より少し多い真珠飾り。


 袖口には、金糸の花模様。


 美しい。


 たしかに美しい。


 けれど、聖鐘祭の白衣役としては、少しだけ違う。



 神殿長ルキウス猊下が、鐘楼の下に立った。


 銀髪の老神官で、声は大きくない。


 それでも、彼が金杖を石畳へ一度打つだけで、広場全体が静まる。



「今年の聖鐘祭を始める」



 鐘守たちが鐘楼の脇へ整列する。


 神官たちが聖火の香炉を持ち出す。


 本来なら、ここで神殿長が聖火を清め、王太子殿下が一段下で受ける。


 そのあと、白衣役がさらに下の段で香を受け、民へ向けて一礼する。


 神に近い順ではなく、責任を負う順だ。


 神殿。


 王家。


 王家へ連なる者。


 そして民。


 その形を、階段の高さで示す。



 けれど、ミレーユは最初からユリウス殿下の隣に立っていた。


 しかも、王太子と同じ段に。


 広場の空気が、ほんの少しだけ硬くなる。


 貴族席の年長者たちが、小さく扇を止めた。


 神殿関係者の表情は変わらない。


 だから余計に怖い。



 次に、孤児院の子どもたちが出てきた。


 早い。


 早すぎる。


 子どもたちは花籠を抱え、白い階段の前へ並ぶ。


 可愛らしい。


 たしかに見栄えはよい。


 民衆の一部から、小さなどよめきも起きた。


 けれど、神殿長の金杖はまだ下りていない。


 聖火も清められていない。


 誓詞も捧げられていない。



「……前へ出したな」



 リオネル大公殿下が、ほとんど独り言のように言った。



「はい」


「あれは、どの程度まずい」


「子どもたちに罪はありません」



 私は答えた。



「ですが、祈りの前に民の声を出した形になります。神殿側は、王家が神前の順を軽んじたと受け取るでしょう」


「なるほど」



 殿下は短く言った。



「分かりやすくまずいな」


「はい」



 分かりやすく、まずかった。



 ミレーユは壇上で微笑んでいる。


 たぶん、成功していると思っているのだ。


 民衆のどよめきを、感嘆だと受け取っている。


 ユリウス殿下も一瞬だけ戸惑ったようだが、妹が笑っているので、そのまま進めることにしたらしい。



 香炉が運ばれる。


 神官の一人が、いつもの位置へ進もうとした。


 だが、ミレーユが手を伸ばし、香炉をユリウス殿下へ先に渡すよう促した。



 広場が、さらに静まった。


 神官の手が止まる。


 ユリウス殿下の眉が動く。


 ミレーユは小声で何か言った。


 おそらく、王太子殿下が先に持つ方が華やかだとか、そのようなことだろう。



 神官は一瞬だけ神殿長を見た。


 神殿長は何も言わない。


 ただ、金杖を持つ手が少しだけ下がった。


 下ろしたのではない。


 止めたのだ。



「致命的か」



 リオネル大公殿下が問う。


「かなり」



 私は答えた。



「聖火は神殿から王家へ渡されるものです。神殿長猊下の清めの前に王太子殿下が受ければ、王家が聖火を先取りした形になります」


「先取り」


「神殿にとっては、そう見えます」


「よくないな」


「よくありません」



 リオネル大公殿下は、そこで少しだけ目を細めた。


 怒っているというより、確認している顔だった。



 それでも式は続いた。


 神殿長猊下は、すぐには止めなかった。


 たぶん、どこまで崩れるかを見ている。


 あるいは、王太子殿下が自分で気づいて戻す余地を残したのかもしれない。


 けれど、ユリウス殿下は戻せなかった。


 隣のミレーユが不安げに袖を掴むと、むしろ彼女を安心させるように微笑んでしまった。



 そして、誓詞の時が来た。


 本来なら、王太子殿下は古い言葉で、王家の責任を三つ誓う。


 神殿を敬うこと。


 民の暮らしを守ること。


 帰らぬ者の名を忘れないこと。


 最後の一つは、聖鐘祭では欠かせない。


 鐘は、祝福だけでなく、もう鐘を聞けない者たちへも鳴らされるからだ。



 ユリウス殿下が誓詞の紙を開く。


 私はすぐに違和感を覚えた。


 短い。


 紙が、明らかに短い。



「まさか」



 私は思わず呟いた。


 リオネル大公殿下がこちらを見る。



「何だ」


「誓詞を削っています」


「どこを」


「おそらく、帰らぬ者の名を忘れない、の部分です」



 ミレーユは、暗い言葉が祭にふさわしくないと言っていた。


 私はあの時、嫌な予感を覚えた。


 でも、神殿での稽古を受ければ、必ず止められるはずだと思っていた。


 受けていなかったのなら。


 あるいは、受けても聞かなかったのなら。


 この結果になる。



 ユリウス殿下が、短くなった誓詞を読み上げた。


 神殿長猊下の目が、そこで初めてはっきりと冷えた。



 広場にいる者のすべてが、その変化に気づいたわけではない。


 けれど、神殿に近い者は気づいた。


 貴族席の年長者たちも気づいた。


 鐘守たちも気づいた。


 聖鐘祭を知っている者たちが、同時に息を止める。



 最後の歌が始まる。


 孤児院の子どもたちは、よく歌っていた。


 可哀想なくらい、まっすぐに。


 あの子たちは何も悪くない。


 教えられた順に出て、教えられた歌を歌っているだけだ。


 だからこそ、胸が痛む。



 歌が終わる。


 ミレーユが、白い祝福衣の裾をふわりと広げた。


 王太子殿下の隣で、民衆へ向けて一礼する。


 鐘楼の上では、鐘守が綱に手をかけている。


 王都中が待つ。


 パン屋も、馬車屋も、城壁の衛兵も。


 すべての音が、次の鐘のために止まる。



 神殿長猊下が、金杖を上げた。


 ミレーユの顔が輝く。


 ユリウス殿下も、ほっとしたように息を吐いた。



 だが、金杖は下りなかった。


 神殿長猊下は、鐘守へ向けて首を横に振った。


 鐘守が、綱から手を離す。



 広場が、沈黙した。


 誰もが待っていた大鐘の音は、鳴らなかった。



「え……?」



 ミレーユの声が、白い石段の上で小さく響いた。


 その声は、静まり返った広場では思いのほか遠くまで届いた。



「どうして、鐘が」



 ユリウス殿下が神殿長へ向き直る。



「猊下。鐘を」


「鳴らせません」



 神殿長ルキウス猊下の声は、低く、静かだった。



「この順序では、祝福は成立しません」


「順序など」



 ユリウス殿下が言いかける。


 だが、神殿長は遮らなかった。


 ただ黙って見た。


 その沈黙の方が、言葉より重かった。



 ミレーユの顔から血の気が引いていく。


 彼女は周囲を見回した。


 民衆。


 貴族。


 神官。


 鐘守。


 全員が、同じものを見ている。


 白い祝福衣を着て、王太子の隣に立つ美しい令嬢。


 けれど、鐘を鳴らせなかった白衣役。



「わ、わたくしは、ただ皆さまに喜んでいただこうと」



 ミレーユが言う。



「子どもたちを先に出せば可愛らしいと思って、誓詞も、暗いところを少し短くしただけで」


「それが、神事を変えるということです」



 神殿長猊下は静かに告げた。



「祝福は、飾りではありません」


「でも、鐘を鳴らさないなんて」



 妹の声が震える。



「民が待っているのに」


「だからこそ、鳴らせません」



 その一言で、広場はさらに静まった。


 妹は理解できない顔をしていた。


 ユリウス殿下も、どう動けばよいのか分からない顔をしている。


 彼らは、鐘が鳴ることを前提にしていた。


 鳴らないという選択肢が神殿側にあることを、考えていなかったのだ。



「セレフィナ嬢」



 リオネル大公殿下が、私の名を呼んだ。


 私はすぐに顔を上げる。



「はい」


「この場を、完全な聖鐘祭として成立させる方法はあるか」


「ございません」



 私は即答した。


 殿下の目が少しだけ細まる。



「理由は」


「神殿長猊下の清め、王太子殿下の誓詞、民の声の順が崩れました。特に誓詞を削った以上、今年の聖鐘として鳴らせば、削った誓いを神殿が認めたことになります」


「では、終わらせる方法は」


「あります」



 私は広場を見る。


 子どもたちは不安そうに花籠を抱えている。


 民衆はざわめき始めている。


 このまま放置すれば、失敗した神事ではなく、王家と神殿の争いに見える。



「大鐘ではなく、小鐘を鳴らします」


「小鐘」


「謝罪と延期の合図です。神殿長猊下が民へ向けて、今年の聖鐘は改めて仕切り直すと告げる。その上で、王家は今日集まった民へ施しを行い、孤児院合唱隊には神殿内で歌い直してもらう。聖鐘祭ではなく、沈黙の祈りとして終えます」


「王太子は」


「壇を下りるべきです」



 私は言った。



「白衣役も」


「厳しいな」


「鐘が鳴らなかった時点で、もう優しく見せる方が危険です」



 リオネル大公殿下は、ほんのわずかに口元を動かした。


 笑ったのかもしれない。


 けれどすぐに、監督者の顔へ戻る。



「分かった」



 殿下は短く言い、前へ出た。



 王弟大公が動いたことで、広場の視線が変わった。


 ユリウス殿下がはっとする。


 ミレーユも、救いを求めるように殿下を見た。


 だが、リオネル大公殿下は二人を助けに行ったのではない。



「神殿長猊下」



 殿下は鐘楼の下で一礼した。



「監督権限を預かる者として申し上げます。本日の聖鐘は、神殿の判断に従い、鳴らさない」


「殿下!」



 ユリウス殿下が声を上げる。


 リオネル大公殿下は、甥を見た。



「ユリウス。今、鳴らせと言えば、王家が神殿に無理を通した形になる」


「ですが」


「鐘が鳴らなかった理由を、民はもう聞いた」



 その一言で、ユリウス殿下は黙った。


 そう。


 神殿長はすでに言った。


 この順序では、祝福は成立しないと。


 それを聞いたあとで鐘を鳴らせば、祝福ではなく命令になる。



「白衣役も、壇を下りるように」



 リオネル大公殿下が告げる。


 ミレーユの顔が歪んだ。



「わたくしは、王太子妃候補ですわ」


「候補であることと、今日の白衣役を続けられることは別だ」


「でも」


「下りなさい」



 短い言葉だった。


 ミレーユは泣きそうな顔でユリウス殿下を見た。


 ユリウス殿下は何か言おうとして、言えなかった。


 結局、妹は白い階段を下りた。


 祝福を受けるために上がった壇から、鐘が鳴らないまま。



 神殿長猊下が、民衆へ向き直った。



「今年の聖鐘は、改めて日を定める」



 静かな声が、広場へ広がる。



「本日は、沈黙の祈りをもって、帰らぬ者と、待つ者のために祈る」



 神殿の小鐘が鳴った。


 大鐘ではない。


 王都中へ届く轟きではない。


 広場の中だけに響く、低く、慎ましい音。


 その音を聞いた瞬間、子どもたちがようやく歌い直した。


 今度は、神殿長猊下の祈りのあとに。


 小さな声で。


 けれど、さっきよりずっと正しく。



 民衆は怒鳴らなかった。


 神殿長の言葉と小鐘の音で、最低限の形は保たれたからだ。


 ただし、大鐘は鳴らなかった。


 王都中が待った聖鐘は、沈黙したままだった。



 それは、誰の目にも明らかな失敗だった。




 式の後、私は神殿の側廊へ呼ばれた。


 灰色の石壁に囲まれた通路は、広場のざわめきから少し離れている。


 奥の扉の向こうでは、王太子殿下とミレーユが神殿長猊下、王妃宮の女官長、リオネル大公殿下から事情を聴かれているらしい。


 扉越しでも、妹の泣き声が少しだけ聞こえた。



「お姉様に教えていただければよかったのに」



 そんな声が漏れた。


 私は目を閉じた。


 最後まで、それなのかと思う。


 教えられなかったのではない。


 引き継ぎの式次第も、神殿稽古の機会も、王妃殿下の添え書きも、全部あった。


 それを軽く見たのは、妹自身だ。



「君は入らないのか」



 リオネル大公殿下が、いつの間にか隣に立っていた。



「入る理由がございません」


「妹君は、君に責任を寄せたいようだ」


「でしょうね」


「怒らないのか」


「怒るには、少し疲れました」



 私がそう答えると、殿下は短く息を吐いた。


 笑ったようにも聞こえた。



「いい返事だ」


「褒められたのでしょうか」


「たぶん」



 たぶん。


 王族からそのような曖昧な返事を聞くとは思わず、私は少しだけ笑ってしまった。



 奥の扉が開いた。


 王妃宮の女官長が出てくる。


 彼女は私へ向けて、きちんと一礼した。



「セレフィナ様。今回の件について、王妃宮より確認をいたします」


「はい」


「あなたが白衣役変更後の聖鐘祭準備に関与していないことは、神殿および王家に提出された返書で確認済みです。よって、本日の失敗について、あなたに責はありません」


「ありがとうございます」



 責任がない。


 その言葉を聞いて、胸の奥にあった硬いものが少しだけほどけた。


 私はずっと、見えない仕事の成果だけを誰かに渡してきた。


 けれど、失敗だけは自分に戻ってくるのではないかと、どこかで思っていたのだ。



「なお」



 女官長は続ける。



「ミレーユ様の王太子妃候補登録は、王妃殿下の裁可が下りるまで保留となります。聖鐘祭白衣役については不適格として神殿より正式に申し入れがありました」


「ユリウス殿下は」


「王太子殿下には、聖鐘祭の再実施に関する監督権限が一時的に外されます。今後、国王陛下と王妃殿下よりご沙汰があるでしょう」



 話し合いで済むわけではない。


 当然だった。


 聖鐘祭は王家と神殿の神事だ。


 その順序を私的な見栄えで変え、大鐘を鳴らせなかった。


 候補者の未熟だけで済む話ではない。



「承知いたしました」



 私は頭を下げた。



 女官長が去ると、側廊には私とリオネル大公殿下だけが残った。


 広場の方から、小鐘の余韻がかすかに聞こえる。


 大鐘ではない。


 でも、今日を終わらせるためには必要な音だった。



「セレフィナ・アルヴィス」



 リオネル大公殿下が、改めて私の名を呼んだ。



「はい」


「王家祭礼院で働く気はあるか」


「……王家祭礼院、ですか」


「王家と神殿の間に立つ部署だ。祭礼、誓詞、立会順、民衆儀礼、使節の神殿参拝。名前は古いが、人手が足りない」



 私はすぐに返事ができなかった。


 あまりにも唐突で。


 けれど、あまりにも欲しかった言葉だったからだ。



「なぜ、私なのでしょう」


「今日の小鐘案は、君が出した」


「大公殿下が採用なさっただけです」


「採用できる形で出したのが重要だ」



 殿下は言う。



「君は、聖鐘祭を無理に成功したことにはしなかった。失敗は失敗として残し、その上で民の前から王家と神殿を退かせなかった」


「それは」


「それができる人間は多くない」



 静かな声だった。


 同情ではない。


 慰めでもない。


 能力を見たうえでの評価だった。



「君は祝福を受ける側に立たされていた」



 リオネル大公殿下は続ける。



「だが、本来は祝福を成立させる側の人間だ」


 その言葉に、胸の奥が熱くなった。


 白い衣を着ること。


 王太子の隣に立つこと。


 民衆の前で微笑むこと。


 私はそれらを嫌っていたわけではない。


 ただ、それだけで見られるのが苦しかった。


 その下にある順序も、祈りも、人の動きも、全部含めて見てほしかった。



「正式な役目でしょうか」



 私は訊いた。


 声が少しだけ震えた。


 それでも、ここだけは確認しなければならない。



「侯爵家の娘だから手伝う、ではなく」


「正式な役目だ」



 殿下は即答した。



「任期、権限、報酬を文書にする。君の家にも、王妃宮にも、神殿にも写しを出す」


「私を、王太子妃候補から外れた令嬢として保護するためではなく」


「違う」



 また即答だった。



「使えるから呼ぶ」


「……ずいぶん率直でいらっしゃいますね」


「嫌か」


「いいえ」



 私は少しだけ笑った。



「かなり、ありがたいです」



 リオネル大公殿下は、そこで初めてほんのわずかに笑った。



「では、明日の午前に返事を」


「今日ではなく?」


「君は今日、鐘が鳴らない祭を見た。返事は一晩置いた方がいい」


「お気遣いですか」


「手順だ」



 その返しがあまりにも真面目で、今度こそ私は笑ってしまった。


 手順。


 そう言われる方が、私にはずっと分かりやすい。



 側廊の向こうで、扉が開く音がした。


 ミレーユが出てくる。


 目元を赤くし、白い祝福衣の裾を握りしめている。


 その隣には、青ざめたユリウス殿下がいた。



「お姉様」



 ミレーユが私を見つける。



「どうして」



 また、その言葉だった。



「どうして、お姉様ばかり」



 私は妹を見た。


 昔なら、胸が痛んだのだと思う。


 今も、痛まないわけではない。


 けれど、それはもう私が戻る理由にはならない。



「ミレーユ」



 私は静かに言った。



「あなたが欲しかったのは、祝福を受ける姿だったのでしょう」


「だって」


「でも私は、その祝福がどうすれば成立するのかを見ていた」



 妹の唇が震える。


 ユリウス殿下は、何も言わない。


 言えないのだろう。



「それだけの違いよ」



 私は続けた。



「そして、その違いで、鐘は鳴らなくなるの」



 ミレーユは顔を伏せた。


 白い祝福衣の真珠飾りが、側廊の灯りを受けて光っている。


 美しかった。


 けれど、ただ美しいだけだった。



「セレフィナ」



 ユリウス殿下が、ようやく口を開いた。



「私は、君がそこまで見ていたとは知らなかった」


「そうでしょうね」



 私は答えた。



「ご存じでしたら、白衣役の変更をあのようには進めなかったでしょうから」


「……戻ってくれないか」



 その声は、弱かった。


 王太子らしくないほどに。


 けれど、私の心は不思議なくらい動かなかった。



「戻る、とは」


「候補として。いや、せめて聖鐘祭の再実施だけでも」


「殿下」



 私はまっすぐに彼を見る。



「殿下が今お望みなのは、私ではありません」


「何?」


「私が整えていた順序です」



 ユリウス殿下の顔色が変わった。


 でも私は止めなかった。



「私自身を必要となさったわけではない。鐘が鳴らなかったから、鳴らすための手が必要になっただけです」


「そんなことは」


「ございます」



 私ははっきりと言った。



「ですから、戻りません」



 沈黙。


 小鐘の余韻も、もう聞こえない。


 側廊には、ただ石の冷たさだけが残っている。



「私は、正式な役目のある場所へ参ります」



 私はリオネル大公殿下へ一礼した。



「お返事は、明日の午前に」


「待っている」



 殿下は短く答えた。


 その短さが、ひどくありがたかった。



 神殿を出ると、空は夕暮れに染まり始めていた。


 王都の屋根の上に、鐘楼の影が長く伸びている。


 大鐘は鳴らなかった。


 けれど、その沈黙は無駄ではなかったと思う。


 誰が何を知らなかったのか。


 誰が何を軽く見ていたのか。


 そして、誰が何を支えていたのか。


 鐘が鳴らなかったことで、初めてすべてが見えた。



 翌朝、私は王家祭礼院へ返書を出した。


 お受けいたします、と。


 ただし、条件を三つ添えた。


 役目と権限を文書にすること。


 報酬を明記すること。


 そして、私を誰かの代わりとして扱わないこと。



 昼前、返書が届いた。


 リオネル大公殿下の署名入りだった。



 条件を認める。


 君は代わりではない。


 聖鐘を鳴らすために必要な人間として迎える。



 私はその文を、しばらく見つめていた。


 白い祝福衣は、もう私のものではない。


 王太子の隣も、もう私の場所ではない。


 でも、胸の奥は不思議なくらい軽かった。


 私は祝福を受けるためだけの人間ではなかった。


 祈りを整え、順序を守り、人の声を正しい場所へ置く。


 そうして初めて鳴る鐘があることを、私は知っている。



 王都の鐘楼は、今日も静かに空へ伸びている。


 次に聖鐘が鳴るとき。


 私は白い衣ではなく、王家祭礼院の紋章を胸に、その音を聞くのだろう。


 誰かの隣に立つためではなく。


 その鐘が、きちんと鳴る場所を守るために。

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