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ショートストーリーズ

置いていかれた春に、君がいた

作者: Yama
掲載日:2026/04/14

はじめまして。

この作品を読んでくださり、ありがとうございます。


本作は、人生に疲れ切った中年男性と、家庭に傷を抱えた少女が出会い、少しずつ互いの心を救い合っていく物語です。

派手な展開よりも、日々の小さなやり取りや、誰かがそばにいてくれることのあたたかさを大切にしながら書きました。


少しでも登場人物たちの痛みや優しさ、そして再び前を向いていく姿を感じていただけたら嬉しいです。

どうぞ最後までお付き合いください。

四月の雨は嫌いだ。


傘を差していても、靴の先からじわじわと冷たさが染みてきて、濡れたアスファルトの匂いが、どうにも惨めな気分を増幅させるからだ。


その日、相馬そうま 恒一こういち四十歳は、駅前の交差点で立ち尽くしていた。

手にしていた紙袋の中には、会社から返された私物が少しだけ入っている。安物のマグカップ、ボールペン数本、読みかけの文庫本。たったそれだけが、十二年間勤めた職場の痕跡だった。


「今回の件は、誰かが責任を取らないと困るんだよ」


部長の言葉が、雨音に混じって何度も蘇る。


本当は、恒一のミスではなかった。

けれど、言い返すだけの気力も、守ってくれる人もいなかった。気がつけば、謝罪文のような退職届に署名し、会社を出ていた。


四十にもなって、貯金は少ない。

独身。友人もほとんどいない。

誇れるものなんて、真面目に働いてきたことくらいだったのに、その最後の一つまで踏みにじられた気がした。


帰る場所はある。

古い木造アパートの二階、六畳二間。

けれど、今日はまっすぐ帰る気になれなかった。


駅を離れ、人気の少ない川沿いの道を歩く。

雨は強くなる一方だった。


そこで、彼は見つけた。


古びたバス停のベンチに、小さく座り込んでいる女の子を。


高校生かと思ったが、近づいてみると、もう少し年上に見えた。肩までの黒髪は雨で張り付き、薄いカーディガンはずぶ濡れで、足元には擦り切れたスニーカー。膝の上に置いたリュックだけを、両腕で必死に抱えている。


「……君、大丈夫か」


思わず声をかけると、彼女はゆっくり顔を上げた。


目が、ひどく疲れていた。

泣いた後なのか、瞼が赤い。


「平気です」


平気な人間の顔ではない、と恒一は思った。


「こんな時間に、こんな雨の中で座ってるのは平気じゃないだろ」


「おじさんも、平気そうには見えないですけど」


思いがけず返された言葉に、恒一は少しだけ目を丸くした。

それから、ふっと笑ってしまった。


確かにその通りだった。


「……まあ、そうだな」


「失恋ですか」


「いや、失職」


「ああ……そっちの方が重い」


彼女は少しだけ口元を緩めた。

その一瞬、年相応の幼さが見えた気がした。


恒一は自販機で温かいミルクティーを二本買って戻った。一本を差し出すと、彼女は少し迷ってから受け取った。


「名前、聞いてもいいか」


朝霧あさぎり りんです。十九」


「十九……」


思ったより若い。

恒一は名乗り返し、少し間を置いてから聞いた。


「家には帰らないのか」


凛は缶を見つめたまま答えなかった。

その沈黙が答えだった。


やがて彼女は小さな声で言った。


「帰りたくないんです。あそこ、家って感じしないから」


それ以上は無理に聞けなかった。

けれど、放ってもおけなかった。


今の時代、見知らぬ男が若い女の子に「うちに来るか」なんて言うのは、怪しさしかない。恒一にもその自覚はあった。だからこそ、彼はなるべく慎重に言葉を選んだ。


「古いアパートだけど、空いてる部屋が一つある。鍵もかかる。嫌なら断っていい。明日の朝、役所でも警察でも相談できる場所に一緒に行く。今日は、せめて雨風しのげるところにいた方がいい」


凛はじっと恒一を見た。

品定めをするような目だった。

それはたぶん、彼女がこれまで人を信用して痛い目に遭ってきたからだろう。


「……何もしないですか」


「しない」


「絶対?」


「そんな元気もない」


すると凛は、少しだけ吹き出した。


「じゃあ、信じます」


恒一の部屋は、本当に古かった。

襖は少したわみ、風呂の追い焚き機能は壊れて久しい。だが、物が少なく、掃除だけはきちんとされていた。


「こっちの部屋、使っていい。布団は押し入れにある」


「ありがとうございます……」


「腹、減ってるか」


「少し」


台所を漁ると、卵と玉ねぎと古いご飯があった。

恒一は不格好なチャーハンを作った。味は薄く、卵は焦げ気味だった。


凛は一口食べてから、ぽつりと言った。


「まずくはないです」


「その言い方は大体まずいってことだろ」


「でも、久しぶりです。誰かが自分のために作ってくれたご飯」


その言葉に、恒一は何も返せなかった。


翌朝、凛は逃げていなかった。


律儀に布団を畳み、洗面台を拭き、台所のゴミまでまとめていた。

恒一は逆に心配になった。こういうふうに過剰に「迷惑をかけません」と示す人間は、たいがい人の顔色を見て生きてきた人間だ。


朝食の食パンをかじりながら、二人は少しずつ話をした。


凛は大学生だった。

父親は幼い頃に蒸発。母親は昼も夜も働いていたが、生活が苦しくなるにつれ、凛への当たりが強くなった。

「お前さえいなければ」「金がかかる」「恩を返せ」

そんな言葉を、何年も浴び続けてきたらしい。


バイト代も生活費の名目で取り上げられ、進学後も自由はなかった。

限界だったのだろう。

些細な口論の果てに家を飛び出し、そのまま雨の中で行き場をなくしていた。


「役所とか、相談窓口とか、一緒に行こうか」


そう提案すると、凛は少し困ったように笑った。


「すぐには、まだ無理かも。知らない大人ってだけで、ちょっと怖いから」


「俺も大人なんだけど」


「相馬さんは、くたびれた大型犬みたいだから平気」


「褒めてるか?」


「たぶん」


そうして奇妙な同居生活が始まった。


最初の一週間、凛はほとんど部屋から出てこなかった。

食事の時だけ顔を出し、あとはスマホを見つめるか、天井をぼんやり見ているだけだった。


恒一もまた、失業保険の手続きと再就職の準備に追われながら、どこか空っぽだった。

何をしても、自分がいらない人間だと言われた日の感覚が消えない。


そんなある日、夕方に帰宅すると、台所から焦げ臭い匂いがした。


「うわっ、何これ」


フライパンの中で、野菜炒めになるはずだったものが黒い塊になっている。

その前で、凛が真顔で立っていた。


「料理、向いてないみたいです」


「大事故じゃないか」


「居候なんで、何かしようと思って」


恒一は思わず笑ってしまった。

久しぶりに、腹の底から笑った気がした。


結局その日は、二人で失敗作をつつきながらカップ麺を食べた。

凛は悔しそうに「次は成功させます」と言い、恒一は「台所を燃やさない程度にな」と返した。


その日を境に、少しずつ空気が変わっていった。


凛は簡単な料理を覚え始めた。

味噌汁、卵焼き、野菜炒め。

最初は危なっかしかったが、次第にまともな味になっていく。


恒一も、履歴書を書く手を止めなくなった。

面接に落ちるたび落ち込んだが、帰ると「今日は何点でした?」と凛が聞いてくる。


「三十五点」


「低いですね」


「じゃあお前が面接官やれよ」


「いいですよ。はい質問です。あなたの長所は?」


「真面目……くらいしかない」


「それ、短所みたいに言わないでください。真面目に働ける人って、かなり貴重ですよ」


十九歳の言葉にしては、不思議なくらい芯があった。


凛は心理学を学んでいた。

人の心の傷や、無力感、自己否定について、時折難しい言葉を使って説明してくれた。


「ずっと否定されてると、自分で自分を否定するのが普通になっちゃうんです」


ある晩、彼女は味噌汁をよそいながら言った。


「それって、相馬さんも同じかもしれません」


「俺も?」


「はい。自分なんて、ってすぐ言うから」


恒一は返事に詰まった。

図星だった。


「でも、それって事実じゃなくて、刷り込まれた癖かもしれないですよ」


湯気の向こうで、凛は静かに笑っていた。

救われていたのは、たぶん自分の方だった。


季節が二つ巡った頃、凛は大学に戻り始めた。

それからパン屋でバイトも始めた。売れ残りを少し持って帰ってきては、得意げにテーブルに並べる。


「これ、クリームパンです。今日は潰してません」


「基準が低いな」


「成長を褒めてください」


「えらいえらい」


そんな何気ない会話が、恒一には眩しかった。


一方で、自分の再就職はなかなか決まらなかった。

年齢もある。前職の辞め方も良くない。

何度も不採用通知を見ているうちに、胸の奥が冷えていく。


ある日の面接で、採用担当者にこう言われた。


「責任を押しつけられる立場だったということは、会社から見ればその程度の人材だったのでは?」


帰りの電車で、恒一は吊り革を握る手に力が入らなくなった。

家に着くころには、すっかり心が折れていた。


「もう無理かもしれない」


食卓で、つい本音が漏れた。


凛は少し黙った後、こう言った。


「じゃあ、一日だけ無理でいいです」


「……え?」


「一生無理って決めるには、今日の相馬さんは疲れすぎてます。だから今日は無理でいい。でも、一週間後の相馬さんがどう思うかは、まだ決めなくていいです」


恒一は呆然と彼女を見た。

凛は真剣だった。


「私、家を出た時、人生終わったと思ってました。でも終わってなかった。だから相馬さんも、今日の気分で一生を決めないでください」


その言葉は、妙に胸に刺さった。


その夜、恒一は久しぶりによく眠れた。


それから一か月後。

恒一は中堅の住宅設備会社から内定をもらった。


派手な会社ではない。

給料も前より少し下がる。

だが、面接で「うちに必要なのは、器用な人より誠実な人です」と言ってくれた社長の目は、嘘をついていなかった。


報告すると、凛は自分のことのように喜んだ。


「やった! 焼き肉です、焼き肉!」


「気が早いな」


「就職祝いです。あと私、パン屋のシフト増やせそうなんで、半分出します」


「祝いで割り勘ってなんだよ」


「あ、じゃあ八対二」


「交渉が下手すぎる」


二人で笑った。


その笑い声が、随分と自然になっていることに気づいた時、恒一は自分の心が変わっていることに気づいた。


凛が帰宅するとほっとする。

彼女の作る少し濃い味噌汁が好きだ。

疲れている時に「おかえり」と言われるだけで、救われる。


それが何なのか、わからないほど鈍くはなかった。

けれど、認めるのが怖かった。


十九歳の彼女と、四十歳の自分。

釣り合うはずがない。

彼女が向ける柔らかな視線も、自分への好意ではなく、ただの信頼か依存かもしれない。


そうやって、恒一は気づかないふりをしていた。


壊れたのは、ある日突然だった。


休日の昼。

インターホンが乱暴に鳴った。


玄関を開けると、化粧の崩れた中年の女が立っていた。

凛に似た目元を見て、恒一はすぐにわかった。


母親だ。


「あなたが相馬さん?」


女は名乗りもせずにまくし立てた。


「うちの娘をたぶらかして、勝手に住まわせて。警察に言えばどうなるかわかってるの?」


その声は甲高く、近所に聞かせることを前提にしているようだった。


恒一の背中に、かすかな震えが伝わる。

振り返らなくてもわかった。

凛が後ろにいる。


「帰ってください」


恒一は低い声で言った。


「は?」


「これ以上騒ぐなら、こちらが通報します」


「何よ、正義の味方ぶって! あの子は私が育てたのよ!」


「育てた人間が、自分の娘に怯えられるような顔をさせるんですか」


女の表情が歪んだ。

何かを叫び、ドアを蹴り、やがて去っていった。


扉を閉めた後、部屋の空気は凍りついていた。


凛は青ざめていた。

唇が震えている。


「……ごめんなさい」


「謝るな」


「私がいると、相馬さんに迷惑がかかる」


「そんなこと」


言い切る前に、凛は首を振った。


その夜、彼女はほとんど話さなかった。


嫌な予感がした。

けれど、恒一はうまく言葉にできないまま眠ってしまった。


翌朝、凛はいなかった。


畳んだ布団の上に、手紙だけが置いてあった。


今まで本当にありがとうございました。

相馬さんは、私がいなくてもちゃんと幸せになれます。

だから、もう大丈夫です。


便箋が滲んでいた。

書いている途中で泣いたのだとわかった。


恒一は、立ち尽くした。


それからすぐに、上着を掴んで外に飛び出した。


駅、大学、パン屋、川沿いの道、最初に会ったバス停。

考えられる場所を片っ端から回った。


走りながら、胸の中で一つの思いだけが膨らんでいく。


違う。

いなくても大丈夫なんかじゃない。


助けたつもりでいた。

守ったつもりでいた。

でも本当は、自分がどれだけ彼女に救われていたか、ちゃんと伝えたことがなかった。


夕方、大学近くの歩道橋の上で、ようやく見つけた。


手すりに寄りかかり、遠くの空を見ている凛の背中。

名前を呼ぶと、びくりと肩が揺れた。


「……なんで」


「探したからに決まってるだろ」


息を切らしながら、恒一は彼女の前に立った。


「勝手にいなくなるな」


「でも……」


「でもじゃない」


初めて、少し強い声が出た。


凛の目に涙が溜まる。


「私がいると、またお母さんが来るかもしれない。相馬さんの生活、壊しちゃうかもしれない」


「壊れてない」


「でも!」


「壊れてたのを直してくれたのは、お前だよ」


凛が息を呑んだ。


恒一は続けた。


「会社を辞めさせられて、何もかも終わったと思ってた。自分には価値がないって、本気でそう思ってた。でも、お前が笑ってくれて、ご飯作ってくれて、くだらない話してくれて……それで、俺は少しずつ戻ってこれた」


言葉が震える。

けれど、もう止めたくなかった。


「お前がいたから、俺は助かった」


凛の頬を涙が伝った。


「だから、勝手にいなくなるな。迷惑とか、負担とか、そんなふうに決めつけるな」


そして恒一は、ようやく一番大事なことを口にした。


「俺は、凛が好きだ」


春先の風が、歩道橋を抜けた。

凛は泣きながら笑った。


「……遅いです」


「悪かった」


「すごく遅い」


「うん」


「でも、私も好きです」


その一言で、世界の色が少し変わった気がした。


それから二人は、少しずつ現実を整えていった。


凛は大学の相談窓口や支援制度につながり、法的な手続きも進めた。

恒一は新しい会社で地道に働き始めた。

派手さはないが、真面目さをきちんと見てくれる職場だった。


前のアパートは引き払い、駅から少し離れた小さなマンションに移った。

築年数は古いが、日当たりはいい。


引っ越し初日、段ボールに囲まれた部屋で、凛が笑った。


「なんか、ちゃんとした生活って感じしますね」


「前はちゃんとしてなかったみたいな言い方だな」


「だって、あのアパート、エアコンから変な音してたし」


「風情だよ」


「恐怖の間違いです」


カーテンのない窓から、西日が差し込んでいた。

その光の中で、凛はふいに真面目な顔になった。


「相馬さん」


「ん?」


「……私、あの日拾ってもらえて、本当に良かった」


恒一は少し考えてから答えた。


「拾ったっていうか、たぶん俺の方が拾われたんだよ」


凛はきょとんとして、それからくすっと笑った。


「じゃあ、おあいこですね」


「ああ、おあいこだ」


数年後。


夕食の食卓に、少ししょっぱい味噌汁と、やけに上達した卵焼きが並ぶ。

凛はもう、料理で台所を爆発させたりしない。

恒一も、新しい職場で後輩に慕われるくらいには、肩の力を抜いて働けるようになった。


何でもない夜。

けれど、かつての二人にとっては、何より手に入れたかった夜だ。


「ねえ」


箸を置いて、凛が言う。


「私、あの時ほんとに思ってたんですよ。しばらくお世話になったら、ちゃんと出ていこうって」


「だろうな」


「でも今は」


「今は?」


凛はいたずらっぽく笑った。


「一生いるつもりですけど?」


恒一は味噌汁を吹きそうになった。


「相変わらず急だな」


「嫌ですか」


「……いや」


少しだけ照れながら、恒一は言った。


「むしろ、そうしてくれ」


窓の外では、春の雨が静かに降っていた。

けれどもう、あの日みたいに冷たくは感じなかった。


置いていかれたと思っていた人生の先に、

ちゃんと、灯りは残っていたのだ。

ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。


相馬と凛は、最初から強い人間だったわけではなく、むしろ傷ついて、立ち止まって、どうしていいかわからなくなっていた二人です。

そんな二人が、誰かに救われるのではなく、互いの存在によって少しずつ立ち直っていく姿を書きたいと思い、この物語を書きました。


誰かと出会うことで、人生が劇的に変わることもあれば、ほんの少しだけ昨日より呼吸がしやすくなることもある。

この作品が、読んでくださった方にとって、そんな「あたたかさ」を感じられる物語になっていたなら嬉しいです。


もし少しでも楽しんでいただけましたら、感想や評価などをいただけると今後の励みになります。

改めまして、最後まで読んでくださってありがとうございました。

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