第7話 氷は愛の炎に溶けて
神瑠帝国の黎明は、かつてないほどの輝きを伴って訪れた。
東の地平から溢れ出した陽光が、王宮の黄金のドームを焼き、幾千もの瑠璃のタイルを鮮烈な青へと目覚めさせていく。広場を埋め尽くした民衆の熱気は、朝露を蒸発させるほどの重圧となり、処刑台の傍らで控える大臣たちの冷酷な眼差しは、最後の獲物を待つ猛禽のように鋭かった。
大龍殿の正面階段。その最上段に、二人の影が現れた。
トゥーランドットは、この日のために用意させた、至高の礼装を纏っていた。
神瑠特有の重厚な紅の絹に、ペルシャ伝来の「生命の樹」を模した金糸の刺繍が施された長衣。
その上には、透き通るような白銀のヴェールが、朝の光を浴びて真珠の霧のようにたなびいている。
彼女の隣には、漆黒の装束を脱ぎ捨て、神瑠の貴族に相応しい濃紺の衣に身を包んだカラフが、揺るぎない足取りで立っていた。
「……静粛に」
トゥーランドットが扇を広げ、一言発しただけで、喧騒に包まれていた広場は、水を打ったように静まり返った。彼女の声には、もはや人を凍らせる呪いは宿っていない。あるのは、荒野に咲く一輪の薔薇のような、気高くも瑞々しい生命の響きだった。
「神瑠の民よ。そして、我が父、皇帝陛下。夜明けまでに異邦人の名を暴けぬ者は死すという、私の無慈避な法は、今この時をもって終わりを告げます」
大臣の一人が、震える声で異を唱えた。
「姫様、謎が解けぬまま法を曲げるは、帝国の威信を汚す行為。その男の正体を知らぬまま、生かしておくわけには参りませぬ!」
トゥーランドットは、その大臣を凛烈たる眼差しで見据えた。
「誰が、解けぬと言ったのかしら? 私は、彼の名を知ったわ」
群衆がどよめき、波のように揺れた。カラフは静かに、トゥーランドットの前で片膝を突き、その頭を垂れる。彼は自らの命を、彼女の唇から放たれる一言に委ねたのだ。
トゥーランドットは一歩前へ踏み出した。彼女の胸元で、ラピスラズリの首飾りが朝陽を反射し、青い火花を散らす。
彼女は、隣で見守る侍女リュー——かつての悲劇の犠牲者ではなく、今は自由の身となった少女——と視線を交わし、力強く頷いた。
「この男の、真の名……。それは、過去の亡霊でも、亡国の遺恨でもない」
彼女はカラフの大きな手を、自身の小さな手でしっかりと握りしめた。氷のように冷たかった彼女の指先は、今、彼から分け与えられた熱で、薔薇色に染まっている。
「彼の名は——『ジャーナム』!」
その宣言が響き渡った瞬間、神瑠の空を覆っていた目に見えぬ呪縛が、音を立てて砕け散った。 「愛」という、あまりにも単純で、あまりにも強大な真実。彼女が前世から逃れ続けてきた感情であり、この世界の「悪役令嬢」という台本が最も恐れていた「光」だった。
「彼の名は私の命、そして彼の正体は、私の『未来』です! 私は彼と共に歩むことで、この国を覆う復讐の連鎖を断ち切ることを誓いましょう!」
歓声が、爆発のように沸き起こった。 それは、死を待ち望む残酷な叫びではなく、新しい時代の到来を祝福する、歓喜の咆吼だった。大臣たちは腰を抜かし、皇帝は娘のあまりの神々しさに、目から熱い涙を零した。
カラフは立ち上がり、トゥーランドットをその逞しい腕の中に抱き寄せた。
「……見事だ、私の小さな雪の精。あなたは、自分自身で未来を書き換えてみせたのだな」
「ええ。だって、私を愛する人に……」
あんな哀しいアリアを歌わせたままにしておけないもの……。
トゥーランドットは、彼の胸に顔を埋め、幸福な溜息をついた。もはや、惨劇のために夜を徹して謎を練る必要はない。誰かの名を暴くために、民に眠らぬ夜を強いる必要もない。
神瑠帝国に、祝祭の太鼓と、ペルシャのリュートの調べが響き渡る。中華の龍とペルシャの獅子が描かれた、色鮮やかな旗が五月の風にたなびくなか、二人の婚礼の儀が執り行われた。
その夜。王宮の寝所のテラスからは、穏やかに眠りについた帝都の灯りが見えた。
ジャスミンの香りが夜風に混じり、月は黄金の果実のように甘く輝いている。
トゥーランドットは、カラフの腕の中で、微睡の淵にいた。
「ねえ、カラフ。……これからは、ゆっくり眠れそうね」
カラフは、彼女の額に優しい口づけを落とした。
「ああ。誰も寝てはならぬ夜は、もう終わった。これからは、二人で同じ夢を見るだけだ」
「悪役令嬢」としての宿命を脱ぎ捨て、一人の女として愛を手に入れた彼女の物語はここで幕を閉じる。
それは新しい物語——誰もが心安らかに眠り、誰もが愛に満ちた夜明けを迎えることができる、幸福な叙事詩の始まりに過ぎない。
神瑠帝国の夜は更けていく。氷を溶かした愛の炎を、その胸に灯したまま。




