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誰も寝てはならぬ悪役令嬢  ~氷の処刑姫は、夜明けまでに破滅を回避したい~  作者: kiyoaki


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第5話 奴隷娘リューの沈黙

 神瑠シェンルー帝国の東の空が、夜の重い帳を脱ぎ捨て、薄紫色のしゃを重ねたような淡く、冷酷な予感に満ちた色に染まり始めていた。


 大龍殿の前庭には、凍てつくような緊張が漲っている。

「異邦人の名を知る女を捕らえたぞ!」

 その怒号と共に、一人の少女が、屈強な近衛兵たちによって石畳の上へと引きずり出された。名を、リュー。カラフが流浪の旅路で拾い、共に砂漠を越えてきた忠実な奴隷娘である。彼女の細い腕には、無慈悲な縄目が食い込み、桃色の薄絹の衣は、荒々しい追跡のなかで無残に引き裂かれていた。


「さあ、吐け。あの男の真の名を、そしてこの国へ仇なす企みのすべてを!」

 扇動するのは、眉間に深い皺を刻んだ神瑠の大臣たちである。彼らにとって、この沈黙を守り続ける異国の少女は、権力を守るための生贄いけにえに過ぎなかった。


 その様子を、トゥーランドットは高い回廊の上から見下ろしていた。

 彼女の指先は、手すりの冷たい大理石を白くなるほどに握りしめている。

(……知っている。私は、この光景を知っている!)

 前世で何度も聴いた、あの哀切なアリア。本来の物語であれば、この忠義な少女は、愛するカラフの名を守り抜くために自らの胸を刺し、その命を散らすはずだ。それがこの「台本」における最大の悲劇であり、観客の涙を誘う絶頂クライマックスなのだ。


 だが。

「——やめなさい」

 その声は、朝の冷気を切り裂く鋭い銀の矢のごとく、広場に響き渡った。


 トゥーランドットは、重厚な刺繍が施された長衣の裾を翻し、階段を駆け下りた。

 彼女の纏うラピスラズリの首飾りが、激しい動きに合わせて激しく、美しく鳴り響く。


「姫様、近づいてはなりませぬ! この卑しき女は、帝国の安寧を脅かす毒虫……」

「黙りなさい、汚らわしい」

 トゥーランドットは、大臣の言葉を冷徹な一言で封じた。彼女の瞳には、神瑠の太陽をも凍らせるような、気高き怒りが燃えていた。

「この国の法は私であり、裁きを下すのも私よ。この女の沈黙は、彼女自身の魂の尊厳。それを暴力で暴こうとする貴方たちこそ、神瑠の誇りを汚しているとは思わないの?」


 彼女はひざまずき、震えるリューの肩に、自らの豪奢なショールをふわりと掛けた。ペルシャ産の薔薇水の香りが、血と泥の匂いを優しく包み込む。

「姫様……なぜ」

 リューが、涙に濡れた瞳でトゥーランドットを見上げた。その瞳の中に、トゥーランドットは自分と同じ「たった一人を想い続ける、愚かで愛おしい女」の姿を見た。


「もういいのよ、リュー。あなたは十分に戦ったわ」

 トゥーランドットは、リューの耳元に唇を寄せ、周囲に聞こえぬほど低い囁きを落とした。

「私はね、知っているの。あなたが彼をどれほど深く慕っているか。そして、彼がどれほどの想いを抱いて私の元へ帰ってきたのかを」

 リューの目が見開かれた。細い肩の震えが、ゆっくりと収まっていく。

「……姫様は、覚えていらしたのですね。あの冬の、約束を」


 リューは、最期の覚悟を込めたような沈黙を破り、トゥーランドットにだけ聞こえる微かな声で、カラフの「真の理由」を囁いた。それは、帝国の支配でも、名声でもなかった。

 かつて、孤独に震えていた幼き日のトゥーランドットに、一時のぬくもりを与えた少年が、その対価として彼女から奪ってしまった「心の欠片」を返しに来たのだという。


「あの方は……あなた様が流した涙を、いつか海へ還すために、砂漠を歩いてこられました」

 その瞬間、トゥーランドットの視界が溢れ出した涙で滲んだ。 リューは、原作のように自決する道を選ばなかった。トゥーランドットという一人の女の「慈悲」が、この世界の残酷な歯車を、今、確かに止めたのだ。


「大臣たちよ、聞きなさい」

 トゥーランドットは立ち上がり、リューを庇うように背に隠した。

「この女は、私の客として保護します。一指触れることも許さない。夜明けは近いわ。答えは、私自身の手で、あの男から聞き出すわ」

 大臣たちは、姫の放つ尋常ならざる覇気に気圧され、退くしかなかった。リューを安全な奥宮へと運ばせた後、トゥーランドットは一人、朝焼けに染まる大殿の塔を見上げた。


 神瑠の空は、今や燃えるような紅蓮ぐれんへと変わりつつある。

「誰も寝てはならぬ」夜が終わり、真実の太陽が昇るまで、あと僅か。

 彼女は知った。カラフが命を懸けて守ろうとしたのは、彼自身の名前ではなく、彼女が失ってしまった「人を愛する勇気」だったのだと。


「……待っていて、カラフ。あなたの真実を、私が暴いてみせるから」

 トゥーランドットは、自身の氷の心が、内側から激しい炎によって焼き尽くされるような、熱い痛みを感じていた。

 かつて音大生だった彼女が舞台の上で夢見た、どんなオペラよりも美しく切実な、愛の序奏イントロダクションだった。


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