第4話 誰も寝てはならぬ
神瑠の帝都に、地の底から響き渡るような重低音の銅鑼が鳴り響いた。
「——誰も寝てはならぬ! これより曙光が天を射抜くその時まで、神瑠の民は睡蓮の如き微睡を捨てよ。異邦人の名を、その真実を暴くのだ。さもなくば、都を血の河で洗うこととなろう!」
トゥーランドットが放った苛烈な布告は、瞬く間に砂漠の風に乗って、甍の波を越え、路地裏の隅々にまで行き渡った。表向きは、求婚者の正体を知らぬことへの憤怒。その真意は、熱病のような焦燥に裏打ちされた、彼を守るための「戒厳令」に他ならなかった。
王宮の一角、月光が銀の刃のように差し込む私室で、トゥーランドットは装飾過多な長衣を脱ぎ捨てた。代わりに身に纏ったのは、夜の闇に紛れるための深藍の薄絹。胸元には、前世の記憶を呼び覚ますお守りのように、大粒のラピスラズリが冷たく鎮座している。
「お逃げなさいと言ったのに、あの強情な方は……」
彼女は窓から眼下を見下ろした。宮廷の影では、腐敗した大臣たちがうごめいている。彼らにとって、謎を次々と解き明かすカラフは、姫の心を掌握し、帝国の権力構造を根底から覆しかねない恐るべき侵入者だった。彼らが狙いは、名を知ることではない。夜明けを待たずして、カラフという「存在」そのものをこの世から抹消することだ。
「姫様、あちらの回廊に不審な影が。黒い装束を纏い、西域の曲刀を隠し持っております」
影から現れたのは、彼女に忠誠を誓う密偵の少女だった。トゥーランドットの瞳に、毅然とした光が宿る。
「……私の台本に、卑怯な暗殺者の出番などないわ」
彼女は回廊を走った。 神瑠の建築美を象徴する、透かし彫りの回廊。その影から、沈香の香りに混じって、冷たい鉄と殺気の匂いが立ち上る。大臣たちが放った刺客——砂漠の暗殺教団の流れを汲む者たちが、カラフの寝所へと静かに包囲網を縮めていた。
「そこまでよ、闇の狗ども」
トゥーランドットの声が、静寂を切り裂いた。暗殺者たちは、まさか「氷の処刑姫」自らが剣を手に立ちはだかるとは予想だにしていなかった。驚愕に揺れる彼らの隙を突き、トゥーランドットは袖に隠していた瑠璃の香炉を投げつけた。
パリン、と硬質な音が響き、中から幻惑の香煙が噴き出す。ペルシャの秘術を用いたその香りは、吸い込む者の神経を瞬時に麻痺させる、甘美な捕縛。
「我が名はトゥーランドット。この国の法であり、運命そのもの。私の許しなく、その男に触れることは許さない!」
凛烈たるその姿は、中華の威厳と、ペルシャの戦乙女の苛烈さを併せ持っていた。
暗殺者の放った最後の一矢が、彼女の肩を掠めようとしたその時——。
背後から伸びた逞しい腕が、彼女の身体を力強く引き寄せた。
「……姫。これでは、どちらが救い主か分からぬな」
耳元で囁かれた、低く熱い声。カラフだった。 彼は既に目覚めていた。それどころか、最初からこの夜襲を予期し、彼女が来るのを待っていたかのような、余裕に満ちた微笑を浮かべていた。
「なぜ……! あなたは隠れていればよかったのよ。私の名を呼べば、すべては終わったのに」
トゥーランドットは、彼の胸の中で激しく脈打つ鼓動を感じながら、震える声でなじった。 カラフは、彼女の額に落ちた乱れ髪を優しく指で払い、その深い瞳で彼女を捉えた。
「あなたの布告を聞いた。『誰も寝てはならぬ』と。それは、私に『独りで死ぬな』と言ってくれているように聞こえたのだ。違うか?」
トゥーランドットは言葉を失った。
そうなのだ。この「Nessun Dorma」は、この世界における最大の愛の告白だった。誰も眠らせないことで、暗殺の隙を消し、都中の目を彼に向けさせ、彼を孤独な異邦人から、この国の「主役」へと押し上げたのだ。
「……自惚れないで。私はただ、私の謎が解かれぬまま終わるのが癄なだけよ」
「ならば、この夜が明けるまで、共に見張るとしよう。この恋の行く末を、そして、明日の朝に昇る残酷な太陽を」
二人は、月明かりに照らされた回廊の片隅で、背中を合わせるようにして立った。 遠く帝都の街からは、名前を探して彷徨う民衆の怒号と、それに応えるような遠吠えが聞こえてくる。
神瑠帝国の歴史上、最も長く、最も熱く、そして最も美しい夜。トゥーランドットは、自身の氷の心が、カラフの背中の熱によって刻一刻と溶かされていくのを感じていた。
それは、破滅への序曲か。それとも、新しい夜明けへの福音か。
夜気の中に混じるジャスミンの香りが、一層色濃くなった。
東の空が、微かに紫がかった灰色に染まり始める。
運命の幕が下りるまで、あともう、わずか。




