第3話 ペルシャの香りは毒か、あるいは蜜か
神瑠帝国の夜は、深い静寂に包まれていた。
天空には鋭利な銀の鎌のような月が掛かり、その冷ややかな光が、広大な後宮の庭園を青白く照らし出している。
この庭園は、先々代の皇帝がペルシャから招いた造園師に造らせたという「四分庭園」形式のもので、十字に配された水路には星屑を砕いたような水面が揺れ、傍らには夜にのみ香気を放つ白ジャスミンの花が雪のように零れ落ちていた。
トゥーランドットは、身分を隠すための薄い絹のヴェールを纏い、一人、夜の回廊を歩んでいた。
彼女の心は、昼間の大龍殿での出来事以来、一度として凪ぐことがなかった。
あの異邦人、カラフ。彼の突きつけた「賭け」は、彼女が知るオペラの台本にはなかったものだ。
「あなたがこの国へ来た真の理由……。そんなもの、王位への野心か……あるいは私という女、女という領土を征服するための、男の傲慢に決まっているわ」
独り言ちる唇が、微かに震える。
だが、彼女の直感は、それとは別の「正解」を告げていた。
カラフの瞳。あの燃えるような、それでいてどこか深い哀しみを湛えた眼差しは、欲望に駆られた男のそれではない。
(私は彼を知っている。……いえ、この『トゥーランドット』という肉体が、彼を記憶している?)
前世の記憶という「知識」ではなく、血肉に刻まれた「感触」が、彼女をカラフの滞在する客舎へと駆り立てていた。
客舎のテラスに着くと、そこにはペルシャ産の高価な香油、アンバーとムスクが混ざり合った重厚で甘美な香りが漂っていた。
人を酔わせ、理性を奪う「蜜」のようでありながら、一度触れれば逃れられぬ執着という名の「毒」を孕んだ香り。
テラスの縁に腰掛け、月を仰いでいたカラフが、音もなく振り返った。
「夜露に濡れた薔薇かと思えば、神瑠の姫君か」
彼の声は、夜の風に乗ってトゥーランドットの鼓膜を甘く愛撫した。彼は立ち上がり、彼女の方へと歩み寄る。その足取りは、砂漠を往く豹のようにしなやかで、一切の迷いがない。
「……不遜な。私の庭で、よくもそんな言葉が吐けるものね」
トゥーランドットは、ヴェールの下で精一杯の虚勢を張った。
カラフは構わず、彼女の至近距離で足を止めた。彼の纏う漆黒のカフタンから、灼熱の砂漠の熱気と、異国のスパイスの香りが立ち上る。
「姫、あなたは『鍵』を探しに来た。私の心の中に隠された、真実という名の鍵を」
カラフの手が、トゥーランドットのヴェールの端に触れた。彼女は身を竦めたが、逃げることはできなかった。彼の手が、彼女の耳元をかすめ、傍らのテーブルに置かれた一枚の古い羊皮紙を指し示した。
それは、経年により琥珀色に変色し、縁がボロボロに崩れた羊皮紙だった。
「これは……?」
「我が国に伝わる、古い約束の徴だ」
トゥーランドットは、吸い寄せられるようにその紙を凝視した。そこには、神瑠の文字でもペルシャの文字でもない、幼い子供が懸命に記したような、不格好な「雪の結晶」の紋様が描かれていた。
その瞬間、トゥーランドットの脳裏に記憶がフラッシュバックした。
——まだ、彼女が「氷の処刑姫」などと呼ばれる前のこと。神瑠帝国の辺境、雪深い冬の離宮で、彼女は一人の少年と出会っていた。
その少年は、西方の小国から人質として送られてきた王子。
二人は凍える手を取り合い、冷たい世界で互いの体温だけを頼りに生きることを誓った。
「いつか、僕が君を迎えに行く。この雪が溶け、冬が終わるその時に」
少年の声が、現在のカラフの声と重なり、トゥーランドットの胸を激しく突き上げた。
「……まさか、あなたは……。あの時の?」
トゥーランドットの瞳から、大粒の涙が零れ落ち、頬を伝ってラピスラズリの首飾りを濡らした。
彼女がひた隠しにしてきた、この世界の「トゥーランドット」としての唯一の記憶。
それをこの男は十数年の時を経て、砂漠を越え、海を越え、死の謎を越えて届けに来たというのか。
カラフは、彼女の涙を親指で優しく拭った。
「姫よ。いや、私の小さな雪の精。私は、あなたの氷の仮面を壊しに来たのではない。その仮面の下で凍えているあなたを、抱きしめるために来たのだ」
言葉は、甘美な「蜜」となって彼女の心を溶かし、同時に、これまでの自分の生き方を否定する「毒」となって彼女を苛んだ。
「……いいえ、認めない。私は……」
悪役令嬢、なのだから。その言の葉の鋭い刃先がトゥーランドットの胸を刺す。
『あなたを殺さなければならない、呪われた姫なのよ』
彼女はカラフの胸を突き放すと、脱兎のごとくその場を走り去った。
背後で、カラフの深い溜息が聞こえたような気がした。
ジャスミンの香りが、狂おしいほどに鼻を突く。
夜明けまで、あと数刻。 神瑠の空に白々と夜明けが忍び寄るまでに、彼女は答えを出さねばならなかった。
彼を死なせるか、それとも、自分自身が死に身を投じるか。
誰も寝てはならぬ、神瑠の夜。
その静寂の中で、トゥーランドットの心臓は、悲鳴のような鼓動を刻み続けていた。




