第2話 新しい謎、残酷な提案
神瑠帝国の至宝、大龍殿。
広大な空間は、天井から吊るされた幾千もの密陀僧の燈明によって、揺らめく琥珀色の海と化していた。
壁面を覆うのは、ペルシャの職人が生涯を捧げて織り上げたという、深青のタイルと金箔のアラベスク。
中華の威信と西域の贅が残酷なほどに調和したその場所で、今、一人の男の命が天秤にかけられようとしていた。
水晶の玉座に深く腰を下ろしたトゥーランドットは、目の前に立つ異邦人を射貫くように見つめた。
その男、カラフは、砂塵に汚れ、使い古された革の衣を纏っていたが、その立ち姿には隠しようもない王者の気品が溢れている。
漆黒の髪は夜の色を映し、その双眸は灼熱の砂漠を生き抜いた鷹のように鋭く、妖しいまでの光を湛えていた。
「異邦人よ、今一度だけ問う。銅鑼を鳴らしたことを後悔してはいないか」
トゥーランドットの声は、冷たい銀の鈴を転がしたような響きを持っていた。
彼女の指先は、衣の袖に隠された扇をきつく握りしめている。
(逃げて。今すぐここを立ち去って、命を惜しんで!)
内なる前世の魂が叫んでいた。
だが、彼女の唇から漏れるのは、氷の姫としての苛烈な宣告のみである。
カラフは、不敵な笑みを浮かべた。
「美しき姫よ。あなたの瞳に宿る絶望という名の闇、それを暴くためならば、地獄の業火に身を焼かれることすら厭わない」
「愚かな……。ならば、第一の謎を授けましょう」
トゥーランドットは立ち上がった。極彩色の長衣の裾が、大理石の床に擦れて、絹のさざめきを立てる。
彼女は、自らの深淵から汲み上げた言葉を、呪文のように紡ぎ出した。
「——昨日には王であり、今日は奴隷。触れれば崩れ、語れば消える。瞳を閉じた時にだけ鮮やかに色づく、檻なき牢獄の花。その名は?」
静寂が、場を支配した。
大臣たちは息を呑み、宦官たちは互いに顔を見合わせる。
それは、この世界の論理を越えた、あまりにも抽象的で詩的な問い。
前世という「あり得ざる過去」を抱える者だけが知る、喪失の痛みを含んだ謎。
カラフは、目を閉じた。
その長い睫毛が、琥珀色の光の中で微かに震える。
彼が目を開いたとき、その瞳にはトゥーランドットの魂を透かし見るような確信が宿っていた。
「それは、肉体を縛る鎖よりも強固に、人の心を繋ぎ止めるもの……。正解は、『夢』あるいは『前世の追憶』だ」
トゥーランドットは、息が止まるのを感じた。
正解。
それも、ただ言葉を当てたのではない。
彼は、彼女が抱える「戻れぬ場所への思慕」の気配を、その答えに込めていた。
「……見事ね」
彼女は震える声を押し殺し、さらに一歩、段上から踏み出した。ラピスラズリの首飾りが、彼女の激しい鼓動をなぞるように乱れ打つ。
(どうして? なぜこの男は、私の心を知っているかのような顔をするの?)
焦燥が、熱い滴となって背筋を伝う。
彼女は、より深く、より血の匂いのする第二の謎を突きつけた。
「ならば、次はどうかしら。——乾いた大地を潤すことはなく、ただ一つの渇きを癒すためにのみ流れる。触れれば熱く、放っておけば氷より冷たくなる、目に見えぬ紅い鎖。その正体は?」
その問いを発した瞬間、トゥーランドットの脳裏に、この世界の幼い日の記憶が閃光のように走った。
雪の降る夜。王城の片隅で、自分を庇って傷ついた少年の腕から流れていた、あの熱い鮮血。
それは呪いであり、同時に彼女をこの世界に繋ぎ止める唯一の絆でもあった。
カラフの表情から笑みが消えた。 彼は自らの胸元に手をやり、まるでそこに刻まれた古傷を確かめるかのような仕草を見せた。
「それは、大地に実りをもたらす雨ではない。人の魂を縛り、運命を狂わせる、愛よりも重い契約……。正解は、『誓い』あるいは『血脈の呪い』だ」
どよめきが、津波のように大龍殿を飲み込んだ。
二問正解。 あの「氷の処刑姫」が、これまでの求婚者をことごとく死に追いやった鉄の論理を、この異邦人は紙細工のように破ってみせたのだ。
トゥーランドットは、目眩に襲われた。
足元のタイルの模様が、まるで生き物のように蠢き、彼女を底なしの深淵へと引きずり込もうとする。 カラフが、ゆっくりと階段を上ってくる。一歩、また一歩。
彼の纏う砂漠の熱風の匂いが、彼女の鼻腔をくすぐった。この豪華絢爛な監獄に閉じ込められていた彼女が、何よりも切望し、何よりも恐れていた「生」の匂いだった。
「二つの謎は解かれた。さあ、最後の一つを」
カラフの声は、低く、甘く、そして抗いがたい魔力に満ちていた。
彼はトゥーランドットのすぐ目の前で足を止め、その逞しい手で、彼女の震える指先を包み込んだ。 冷たい氷の肌と、燃えるような熱い肌が触れ合う。
「……っ!」
トゥーランドットは、その手を振り払うことができなかった。
目の前の男の瞳の中に、彼女は自分と同じ「孤独」を見た。それは、滅びた国を背負い、名もなき旅人として荒野を彷徨ってきた者だけが持つ、果てしない夜の色。
「あ……」
彼女が三つ目の謎を口にしようとしたその時、カラフは彼女の唇を、その長い指で優しく制した。
「待たれよ、美しき姫。三つ目の謎を解く前に、私から一つ、賭けを提案したい」
トゥーランドットは、濡れた瞳で彼を見上げた。
原作の、オペラの台本とは違う。
「明日の夜明けまでに、私がこの国へ来た真の理由を当ててみせよ」
カラフの顔が、唇が触れんばかりの距離まで近づく。
「さすれば、私の首はあなたのもの。しかし、もし当てられねば……。あなたこそが首になっていただこう」
それは、きっと死よりも過酷な、そして甘美に灼けつくような挑戦状。
神瑠の月が、大龍殿の窓から青白い光を投げかけ、二人を幻想的なシルエットで縁取った。
トゥーランドットは、激しく脈打つ胸を押さえながら、目の前の傲慢な異邦人を睨みつけた。
物語は、もはや誰にも予測できない方向へと、狂おしく加速し始めていた。




