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誰も寝てはならぬ悪役令嬢  ~氷の処刑姫は、夜明けまでに破滅を回避したい~  作者: kiyoaki


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第1話 氷の処刑姫と「前世の台本」

 砂漠の夕陽が、大帝国「神瑠シェンルー」の王宮を血のような朱に染め上げていた。


 大気のなかには、異国の市場から風に乗って運ばれてくる沈香と、乾いた砂の匂い、そして処刑場に漂う鉄錆に似た血の香りが混じり合っている。この世のものとは思えぬ美貌を誇る第一皇女、トゥーランドットは、大理石のバルコニーから地上を冷たく見下ろしていた。


 彼女の纏う極彩色の長衣カフタンは、神瑠特有の重厚なシルクで仕立てられ、その縁にはペルシャ伝来のアラベスク模様が金糸で刺繍されている。風に揺れるたび、翡翠とラピスラズリを連ねた首飾りが、チリ……と涼やかで硬質な音を立てた。


「……また、一人」

 紅を引いた唇から、吐息のような呟きが漏れる。

 広場では今、一人のうら若き貴公子が、膝を突き、首を断たれようとしていた。西方の小国から、この「氷の処刑姫」の美しさに魅せられてやってきた哀れな犠牲者。彼はトゥーランドットが課した第一の謎にさえ答えられず、絶望のなかでその命を散らすのだ。

 トゥーランドットの瞳は、夜の砂漠のように深く、底知れない黒を湛えている。だが、その瞳の奥に、誰にも悟られぬ絶望が渦巻いていることを知る者はいない。


(ああ、もう、止めて。こんな残酷な台本は、もうたくさんよ……!)

 彼女の内側で、前世の記憶が悲鳴を上げていた。

 かつての彼女は、極東の島国でオペラを愛し、その芸術に魂を捧げた一人の音大生だった。

 プッチーニの旋律に酔いしれ、名歌手たちの歌声に涙した日々。それがどうして、目覚めた時には、自身が最も愛し、かつ恐れた「氷の姫君」へと転生したのか。


 ここは、彼女が知るオペラ『トゥーランドット』の世界に酷似しているが、より残酷で、より壮麗な実感を伴う異世界だ。

 神瑠帝国。中華の龍の威容と、ペルシャの夜の神秘が溶け合うこの国で、彼女は「悪役令嬢」としての役割を押し付けられていた。

 求婚者に難解な謎を出し、解けぬ者を次々と処刑する。

 それは、亡き祖母が異国の男に受けた屈辱を晴らすための復讐——という名の、狂った台本。


「姫様、お顔色が優れませぬ。薔薇水でもお持ちしましょうか」

 背後で控える宦官が慇懃に問いかける。

 トゥーランドットは冷ややかな一瞥をくれた。

 その視線だけで人を凍らせるような拒絶の美。それがこの「役」に求められる演技だった。


「不要よ。私はただ、この退屈な儀式が早く終わるのを待っているだけ」

 嘘だ。 胸の奥では、氷細工のような心臓が軋みを上げ、今にも砕け散りそうだった。 このまま原作の台本通りに進めば、彼女はさらなる犠牲者を積み重ね、やがて現れる「謎の異邦人」によって打ち負かさせる。それは愛という名の征服であり、彼女自身の自我の死をも意味していた。


(私は、操り人形じゃない。誰かの死の上に成り立つ愛なんて、絶対に認めない)

 彼女はバルコニーの手すりを強く握りしめた。

 指先に食い込む冷たい大理石の感覚が、彼女を現実へと繋ぎ止める。

 彼女は決意していた。この狂った運命を、前世で培った「知恵」と、この世界で手に入れた「覚悟」で書き換えてみせると。


 処刑を告げる銅鑼の音が、重々しく響き渡る。

 群衆の嘆きと歓声が入り混じるなか、トゥーランドットは静かに身を翻した。


「次の求婚者は?」

「はっ、西方の地を追われた亡国の王子と名乗る者が、門の外で控えております。名は——」

「名などどうでもいいわ」

 彼女は、自身の私室へと続く長い回廊を歩き出す。

 壁面に飾られた瑠璃の燭台が、彼女の影を壁に長く、不吉に映し出した。


 トゥーランドットは知っている。

 次に現れる男こそが、物語の歯車を回す運命の男、カラフであることを。

 だが、この異世界のカラフは――どうなのだろう。

 彼女の知る物語よりもずっと鋭く、野心に満ちた男だという噂も耳にしていた。


「……私の出す謎を、あなたは解けるかしら。いいえ、解かせてみせる。ただし、私が用意した『新しい台本』の上で……」

 部屋に戻った彼女は、机の上に置かれた羊皮紙を広げた。

 そこには、彼女が夜を徹して考え抜いた、新たな謎が記されている。

 プッチーニが遺した三つの謎——「希望」「血」「トゥーランドット」。

 それらはあまりにも有名すぎ、そして犠牲を強いるものだった。


 彼女が書き換えた第一の謎は、彼女自身の孤独と、前世の記憶を封じ込めた禁断の問い。


『昨日には王であり、今日には奴隷。触れれば崩れ、語れば消える。瞳を閉じた時にだけ鮮やかに色づく、檻なき牢獄の花。その名は?』


 これは、転生者である彼女にしか理解し得ない「追憶」の苦しみをなぞったものだ。

 もしこの謎を解く者が現れたなら、その者こそが、彼女の氷の心を溶かす熱を、あるいは共に地獄へ落ちる覚悟を持った者だろう。


「誰も寝てはならぬ、か……」

 彼女は窓の外、夜の帳が下り始めた神瑠の街を見つめ、小さく口ずさんだ。

「Nessun dorma」——誰も寝てはならぬ。

 それは彼女が発した布告の言葉となるはずだったが、今、その言葉は彼女自身への呪いの文言スペルとなって響く。


 誰も眠ることを許さない。

 この残酷な夜が終わるまで。

 自分も、彼も、そしてこの国を覆う血の運命も。


 その時、王宮の巨大な門が開く音が、微かに風に乗って届いた。

  新たな求婚者の訪れを告げる、重く、そしてどこか挑戦的な音。

 トゥーランドットは、鏡の前に立った。 そこには、神瑠の宝玉を散りばめた華美な装飾に守られた、孤独な一人の女が映っていた。 彼女は震える指で、自らの頬を叩き、再び「氷の処刑姫」の仮面を被る。


「さあ、いらっしゃい、名もなき異邦人。あなたの命を賭けて、私の絶望を暴いてごらんなさい」

 月明かりが、彼女の白磁の肌を青白く照らし出す。

 神瑠帝国の長い夜が、今、幕を開けようとしていた。

 オペラにはない、血と香油と、そして真実の愛が試される、未知の第4幕が。

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