第七話
桜が満開になったと、テレビで報じられてから数日が経った頃、近衛邸では鋏の音が響いていた。
鏡台の前には黒いブレザーにネクタイを締めた涼が座り、その後ろにお菊が立っている。その横からスーツ姿の近衛も様子を見ていた。
近衛邸の庭には桜の木はなかったが、どこからか風に吹かれて舞い込んだ花弁が、川を流れていく。
「ほら涼坊っちゃん、さっぱりしましたよ。」
いつの間にか、お菊は涼をこう呼ぶようになった。
涼は気恥ずかしさから抵抗したのだか、お菊の慈愛に溢れた笑みには勝てなかった。
涼の身の上を知る、数少ない人物でもあり涼もいつしか親しみを覚えるようになった。
涼も近衛も、早くに両親を亡くしている。
お菊はどうも二人を重ね合わせて見る節がある。
お菊は手慣れた様子でポマードで涼の髪を整える。短く整えられた髪を七三に分ける。
「こう見ると、本当に坊っちゃんの若い頃にそっくり。坊っちゃんが士官学校に入学するときも、こうして私が髪を整えたのよ。」
お菊が嬉しくてたまらないといった様子だが、対照的に近衛は気恥ずかしそうだ。初老に差し掛かった男性の、なかなか見れない顔に涼は思わず吹き出しそうになる。
おめかしが一通り終わり、涼は立ち上がり、近衛から帽子を受け取る。
髪を崩さないように帽子を被り、鏡台に映る自分を見た。心なしか少し大人びた気がした。
「そろそろ出ようか。」
近衛の呼びかけに、もう一度鏡に映る自分を見てから、お菊に礼を言って、出立した。
陸軍士官学校は近衛邸から、徒歩で五分の距離にある。5層ほどで、直方体の形をした校舎がいくつかあった。どの建物も黒漆塗りであり、所々に金の装飾が施されていた。
豪華ではあるが威圧感のある建物群の前には、黒い門があった。これもまた、黒漆塗で金の装飾が施されていた。屋根瓦にも金箔が押されている。巷の士官学校受験生はこの「黒門」をくぐるため、勉学に励むのである。
黒門の前には父兄と新入生が各々、記念撮影をしたり歓談に興じていた。
近衛とともに入学式の会場に向かおうとするが、なかなか進まない。他の父兄が近衛に挨拶に来るためだ。随分と顔の広い養父を少し誇らしく思うとともに、普段気軽に接しているためか、少し違和感も感じる。
陸軍士官学校は全寮制であり、入学式の会場で新入生と父兄はしばしの別れとなる。
涼は近衛に休日には近衛邸に顔を出すと約して別れた。
ふと、数日前の近衛との会話を思い出す。
「実は私には亡き妻との間に一人娘がいてね。今年、陸軍士官学校の2年次なのだが、どうやら私のことを毛嫌いしているようで、入学して以来顔を見せないんだ。娘には涼君のことは伝えている。もし会ったらたまには顔を見せるように伝えてくれ。」
娘との距離をはかりかねている父親の姿を思い出し、愉快なような少し寂しいような気がした。
会場の入口には、名前が張り出され着席すべき場所が指定されている。
涼は「相良」を探していたが、途中で「近衛」を探さねばならないことに気づく。涼は正式に近衛の養子になったのだ。
涼の席は最前列の真ん中の方だった。
一番前の舞台から見て左手の扉から講堂に入ると、長い髪を後ろでまとめた女子生徒が目に入る。
席に座った彼女は自然な様子で背筋が伸び、制服がよく似合う。強い意志を感じさせる瞳は壇上に向けられている。
ほんの一瞬だがその端正な顔を見つめた涼の視線に、彼女は気づいたのだろう。目が合う。
すぐに涼は目をそらし、自分の席に着いた。
式は特に変哲のないもので、陸軍大将やら校長やらが長々と話すだけだった。
長かった式が終わり、涼は自らが振り分けられた教室に向かう。振り分けられたのは1組だった。
校舎内は外観とは違い、上から吊るされた照明照らされ、広々とした様子だった。天井には幾何学的な装飾が施され、モダンな印象を受けた。
涼にとって、この世界で初めての同年代と接する機会であり、緊張した面持ちになるのは仕方のないことだろう。
入り口で席の場所を確認してから、開け放たれた扉をくぐる。
ストック無しで1日2話更新はきつい…
気合で頑張ります




