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異国の地、図書館までの道

 窓の外に聖母像が見えたが、人混みに隠れてしまった。


 私が教室を出るのは、決まって最後だ。

 午前の講義が終わり、鞄にゆっくりと教科書を入れる。室温は二十四度。暑がりな私はそれでも息苦しさを覚えた。

 眩しさを感じ、窓の外を見る。雲の隙間から日は差すが、地面にはまだ雪が残っている。急速に近づく春の気配に、私は母国のことを想い出した。


 アメリカの片田舎に留学して、早くも半年が経過した。

 高校を卒業後、やりたいことのなかった私は、奨学金プログラムを見つけ、留学を決意した。元々英文学が好きだったことから英語力に問題はなく、留学の手続きはスムーズに進んだ。有名な大学ではないということもあり、入学は思っているより簡単だった。


「はあ……」


 私は大きな溜め息をつく。なんでこうなったんだろうな、と少しの後悔を脳裏に浮かべながら。


 入学当初は頑張った……気がする。ネイティブの会話に追いつくために、必死で同級生に話しかけた。

 結果は、疲れてしまった。


「図書館に行こう……」


 いつの日かパーティやイベントの誘いも断るようになり、図書館に籠るようになった。

 講義を受け、講義が終わり、図書館で勉強して、図書館で本を読んで、講義を受け、講義が終わり、図書館で……そして、帰る。変わらない毎日だ。


「図書館に行くのね?」


 急にかけられた高い声。

 私は驚いて顔を上げる。


「あ、マリアさん。よく日本語が分かりましたね」


 私は英語で返す。先ほどぼそりと呟いたのは、日本語だった。


「モトはいつも図書館に行っているからね!」


 そう言って笑顔を見せるのは、私と同じ留学生。マリアという名のフィリピンから来た褐色肌の女の子は、彫りの深い顔に感情をありありと張り付けている。

 ちなみにモトというのは、私の姓から取った、ここでのニックネームだ。名では発音がしづらいらしく、こう呼ばれている。


「それにしても珍しいですね。てっきり私だけが残っていると思いましたよ」


 私は周りを見渡す。教授も帰っていた。


「モト、聞いて」


 いきなり真剣な声になるマリア。その視線の先には、ドーナツの食べかすがあった。

 そして、それに向かう蟻の隊列があった。


 私は目を逸らし、冷静を装い声を出す。


「珍しいですね。どこから入ってきたのやら」


 私はアメリカでも寒い地域に居る。それでも虫がいないとは言い切れないが。


「蟻はいいの! ドーナツもまあ……いいの! 汚いのは嫌だけど……ちょっとこっち来て」


 マリアが私の手を引く。

 私はもう片方の手で鞄を取り、引きずられていった。


 教室を出て、生徒が集まる談話スペースに連れていかれた。

 そして、そこに置いてある大きなゴミ箱を指さし、マリアは少し怒った声で私に言う。


「これ、どう思う?」


 ゴミ箱の中には、食べられることのなかったドーナツたちが箱ごと捨てられていた。ダース単位で買われたであろうそれらは、大半が手つかずのままだ。


「もったいないですね……」


 私は見ないようにしていた現実に、顔をしかめてしまう。そのドーナツたちは学生に無料で配られたものだ。


「本当にそうよね。信じられないわ」


 マリアは表情を呆れに変え、そのまま私の手を引っ張りながら外に出た。


 山がすぐ近くにある、田舎の光景だ。

 空気は綺麗で、籠った室内と違って肌寒さすら感じるが、それすら気持ちがいい。こればっかりは田舎で良かったと思える。


「私はここが好きよ。皆良い人だし、自由な雰囲気も最高ね」

「私もそう思います」

「でも、ちょっと自由過ぎる気がするのはなぜかしら」

「あー、ですよね……」


 私は言葉をつぐんでしまう。

 自由とはすばらしいものだが、行き過ぎた自由は輪を乱すだけだ。他者と迎合しろ、とまでは言わないが、色々と気を使い合う日本の文化の方が私には合っているのかもしれない。


「分かってくれる? うんうん! じゃあ、図書館に行きましょう!」


 マリアが言ったのは珍しい提案だった。

 私は少し不思議に思い聞き返す。


「マリアさんも勉強ですか?」


 図書館で勉強すること自体は学生が行う普通のことだ。ただ、マリアがそこに居る場面は見たことがない。


「気になっていたのよ。通り道だからね」


 マリアはそれだけ言って、淡々と歩き始めた。手は繋いだままで、肌越しに伝わる少し硬い感触が、彼女の日常を語っている。


 広大な大学の敷地をふたりで歩く。だだっ広い道だ。車道と歩道の境など、ここには存在していない。

 教室があった建物から図書館までは十分弱で、気晴らしにはちょうどいい。


「私ね、オタクなの」


 いきなり話しかけられた私は、固まってしまった。予想外の”otaku"という単語に、脳の処理が遅れた。

 ちょろちょろと音が聞こえる。ここは、小さな噴水がある場所だ。


「そんなに驚かなくても……」


 マリアは珍しく困り顔だった。

 私はそんな彼女の後をついて行く。正直、どう反応すればいいか分からなかった。


 木々に囲まれた広場を抜け、図書館が見える。

 少し様子がおかしい。

 田舎の学校ということもあり、図書館が混むことはない。ただ、それでも人影が少なすぎる。


 その理由は、図書館入り口に張られた一枚の紙に書かれていた。


「電気系統の故障、なのか……でも開いてはいるみたいですね」


 図書館の中は一部が薄暗くなっていて、人はいない。


 私の手に力がかかる。

 そのまま図書館の中に引き込まれてしまった。


「マリアさん?」


 私の問いかけに対する返答はない。

 窓から差す光は、本を借りることぐらいはできるだろうが、勉強をするには心もとない明るさだ。

 次の講義の予習でもするためにマリアはここに来た、と考えていた私は、彼女の行動が分からなくなった。


 マリアは私の手を引きながら二階にある区画に向かう。そこには、各国の文学が揃えられている。

 彼女が立ち止まったのは、私にとっては馴染みの深い本たちが並ぶ書架の前だった。


 マリアは少し探す動作をして、一冊の本を手に取った。

 それは、ある作家が書いた短編集だった。変色しているが、形自体は綺麗で新品同様だ。きっと誰にも読まれることなく、ここで待っていたのだろう。


「好きよ、ここの皆が……」


 彼女の顔は優しく、まるで我が子の頭を撫でるかのようにページをめくっていた。


 しばらくして、私は開かれた本を受け取った。今日の目的は、そのページに書かれている。


 題名は『後世』、1500字にも満たない短編作品だ。


 私は日本語で書かれたその文章を読む。現代の文とは違う、少し古めかしい表現が多い。

 それでも自然に、まるで内容を初めから知っていたかのように、目から脳へ、意味を帯びた文字が流れていく。


「ありがとう……」


 私はなぜか感謝の言葉を口にしていた。

 作者に対して言ったのか、それともマリアに向かっていったのか、対象のない言葉だった。


「私もその作品が好き。最初は日本語の勉強のためだったんだけどね」

「どうして私に?」

「あなたに必要だと思ったからよ」


 マリアは微笑む。いつもは元気いっぱいで、いい意味で子供っぽい彼女が、今は落ち着いた大人に見えた。


「私はね、BL小説を書いているの」


 マリアの発言はまたしても唐突で、私は固まってしまった。


「あ、BL小説っていうのはね。男性同士が……」

「知ってます」

「だよねだよね。それでね……」


 サブカルの本場である日本からやってきた私を見て、彼女は機会を伺っていたのだろう。早口の英語が私の耳から脳に流れる。スラングだらけの滅茶苦茶な英語だったが、なぜか理解ができてしまった。


 誰も居ない図書館で、真面目な本を片手に、ちょっと不真面目な内容を語る。

 今日、電気系統が故障してくれて助かった。私の性格上、普段の図書館で会話など絶対にしない。


 十数分間の談笑の後、マリアは思い出したかのようにお別れをした。次の授業が迫っていたみたいだ。

 私はずっと持ったままだった本と共に、窓際の席に座った。

 昼過ぎの日光は、本を読むには明るすぎた。

 直射日光が顔に当たり、額から汗が滲み出ても、私は本を読んだ。


 その日は、暗くなった図書館を後に寮へと帰り、早めに寝た。いつも夜遅くまで図書館に居座っている以上、自室で勉学に励むべきだが、今夜はよく寝られそうで、この機会を逃したくないと思った。

 

 次の日、私は午前の講義に向かう。

 その前に食堂で朝食を食べた。いつも決まって、トマトとチキン、そしてチーズがたっぷりのオムレツだ。

 今朝は何を思ったのか、蛍光色のパンケーキを取った。不自然な甘さがブラックコーヒーとよく合った。食わず嫌いだったと思ったが、今後も食べることはないだろう。


 同じ大学敷地内にある寮から教室のある建物までは少し遠く、道中にも一体の聖母像があった。

 私は両手を組み、祈る。別に熱心な信徒ではないが、像を見ると祈ることが日課になっていた。『人生、なんかうまくいってほしい』というあやふやなお願いだ。聖母様も困惑していることだろう。


 そして教室へと入り、講義が始まる。

 マリアはぎりぎりで講義に間に合い、今日も元気に質問をしている。


 脳の処理を必死で回し、講義が終わった。

 今日は午後の講義がある。間の時間は暇だから、図書館にでも行こう。

 変動する予定でも私の行動に変わりはなく、ゆっくりと支度をする。


「図書館に行くのね、モト」


 元気な高い声が耳に届いた。

 いつもとは違う昨日は、今日も続いているらしい。


 教室内で仲良くすることはなく、教室外で会うこともない。

 あの日を除いて、図書館で一緒に居ることもなかった。

 ただ一緒に、図書館まで道でで会話をするだけ。そんな関係だった……




 学生時代の思い出を振り返っている私は、デスク横のブラインドの隙間から外を見ていた。


 ここは日本。社会人になった私は、平凡そのものだ。


「楽しかったな……」


 首元にかけられたストラップが息苦しい。最初は少し誇らしかった社員証も、今ではただの入館カードだ。

 こんな今の自分を見たら、昔の私は笑うだろう。

 吐き気程ではないが、胃が縮み、胸のあたりに何かが溜まっているような不快感がある。胃カメラ検査でも、胸部レントゲン検査でも見つからない、得体のしれない息苦しさが、そこには存在していた。


 好きなものに携わっているわけでもないが、世間一般から見れば立派で、私自身も特段不満はない。昔からずっと自分を客観視する癖があった私には、大人になる適性があったのだろう。

 私の言動を、第二の私がみているような感覚が、時間の流れを誤魔化してくれている。


 どうでもいいか。

 全てがこの結論で締めくくられる。結局私は変わらなかったのだ。まだ、やりたいことは見つからない。


 ふと一つの英単語が頭に浮かんだ。

 ”arrogant"──傲慢

 そういえば、別れ際マリアが言っていた。『あなたの夢が見つかったら、私に対してarrogantでいいからね』というセリフだったと思う。単語の選択が絶妙で、少し笑ってしまった記憶がある。

 きっと彼女なりの応援だ。いつもくよくよしている私への気遣いだ。


 記憶が私を主観的に見てくれる。

 夢に繋がるかは分からないが、私には少し変な癖がついた。


 私は、応援をする。不器用に、応援をする。無責任に、応援をする。利己的に、応援をする。

 

 高層ビルの窓からは、都会の街並みが見えるだけ。

 昼時のオフィス街。一仕事終えた大人たちが、午後に備え英気を養う。

 個々が重なり一つの集団となった、小さな小さな人の姿に、私は心の中で応援をする。


 どこかに隠れているかもしれない聖母様への祈りも、忘れずに。

日常の中に応援を。

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