出発
着たことも、見たこともないような着物だった。
いつも通りの朝になり、それから支度が始まった。使用人が持ってきた着物は、水色とほんのりと桃色が混ざり合って、細かい刺繡が施されている。手触りだけでも高級な質感が伝わってきて、着付けされている時点から緊張しっぱなしだ。使用人たちはてきぱきと手際よく作業を進める。その度に、私の装飾品が増えていき、華美になっていく様子が見て取れた。
支度が終わり、後は迎えを待つだけになってしまった。後ろに控えている乳母が小さな声で話し出す。
「お嬢様、とてもお綺麗です。ですから、大丈夫です」
振り向いて乳母の顔を見ると、その目には涙を浮かべていた。この乳母は、私が生まれた時から面倒を見てくれた恩人である。普段は毅然として、表情を崩さずに仕事に従事する彼女が、そんな彼女が。眉間に皺を寄せ、まるで痛みに耐えるように、静かに言葉を発していた。
「ばあや、私は大丈夫。大丈夫だから、心配しないで。平気よ、大丈夫」
恩人のそんな表情を見て、静かな言葉を聞いて、私も細切れに言葉を繋げる。自分を惜しんでくれる人の前でやわな所は見せられない。大丈夫、大丈夫。自分自身にも言い聞かせて、ゆっくりと微笑む。
「お嬢様…」
乳母は私の手を取って、きつく握りしめる。仕事以外で使用人が家の者に触れることはまずない。まじめな彼女なら尚のこと。それを放ってまで、私の手を握ってくれる彼女からは愛情を受け取った気がした。
いつまでもくよくよしていられない。もう私がやることは決まってしまっている。例えそれが理不尽で、納得がいかなくても。言葉は少なくとも、最後になるだろう時間をかみしめていた。すると、自室のドアを叩く音が聞こえ、それと同時に乳母の手が離される。「はい」と短く返事をすると、ドアが開き執事が入ってくる。
「お迎えがいらっしゃいました」
昨日まとめた荷物を執事に預け、玄関に向かう。すでに玄関の扉は開いており、ホール内には一人の人物が立っている。「お迎え」と言っていたので、この人物が妖なのだろう。紺色の着物を着て、背はうちの執事と同じくらい。体型も人間の男性のような体つきをしている。が、その頭には猫の耳のようなものが生えていた。顔を隠すように薄い布の面をつけており、その布には家紋のような柄が描かれていた。姿形こそ人間であるが、一目で妖と判断できた。
執事は、先程預けた私の荷物をその人物に手渡す。そして、私の方を向いて一礼してきた。
「お初にお目にかかります。早速ですが、里に参りましょうか」
少し低い声、体型からも男性なのだろう。彼は、荷物を持っていない方の手を玄関の外に向けて出発を促す。手を向けられたその先、玄関の前には、神輿のような、馬車のような、和洋折衷のような、派手な乗り物が待機していた。おそらく動力となる生き物なのだろう、馬に似た生き物がこちらを凝視している。彼らが連れているということは、この生き物も妖なのだろうか。自分の常識を覆されるような光景ばかりで、圧倒されてしまっている。
「お手をどうぞ」
案内人から手を差し伸べられる。ハッと我に帰り、手を取る前に振り返る。視線の先には乳母が心配そうに私を見ていた。思わずその表情に涙が出そうだったが、ぐっとこらえて彼女の手を取る。
「私は大丈夫。だから、元気で」
私の言葉に乳母は涙を流してしまう。握った私の手を強く握り返してきて、彼女は泣きながら言葉を絞り出すように話す。
「お嬢様なら大丈夫です。どうか、ご自身を信じて」
彼女の言葉を受け取って、案内人に向き直る。差し出された手を取って、乗り物に乗り込んだ。