表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

森の乙女アプリコットと七つの罪

作者: 彩季

【荊の森】


 豊かな栗毛色の髪を持った娘、アプリコットは村から外れた森でプラムを摘んで暮らしていました。


 肌は健康的な小麦色、頬は薔薇色、すっきりと伸びた手足はみずみずしい美しさをアプリコットに与え、野から吹く風に髪をなびかせたアプリコットは、まるで春の女神のようでした。


 荊に囲まれた森の中にぽつんとある小さな家で、アプリコットは百歳を超える老婆に育てられて成長しました。

 すっかり年頃の娘に成長すると、求婚する青年が後を絶ちませんでしたが、アプリコットを育てていた老婆は青年達の求婚を片っ端から断っておりました。

 森を過ぎる旅人や商人から噂が広がり、アプリコットの美しさは街でもたいそうな評判となっていましたが、名のある貴族や大商人からアプリコットを屋敷へ欲しいと請われても、老婆はいくら金を積まれようとアプリコットを手放しませんでした。


「よくお聞き、アプリコット。お前はこの森から出てはいけないよ。この森から出たら、お前は生きてはゆけないよ」

 というのが老婆の口癖でした。アプリコットが去ると一人きりになってしまう寂しさから、老婆がそう言うのだと思っていたので、アプリコットはいつも老婆の手を優しく握り、どこへも行かないと言って老婆を安心させてやるのでした。


 天気が良い日は、机と椅子を庭に出してプラムを剥きます。摘んできたプラムの入ったカゴからひとつを取り、ナイフを使って器用に皮を向くと、隣のカゴへプラムを入れます。今日も清々しい春の陽気でしたので、アプリコットは日当たりの良い庭に机を持ってきてプラムを剥いておりました。


 日差しが弱まり始めた頃、細い小道から馬車がやってくるのに気づきました。白く雄雄しい馬にひかれた馬車は、今まで見たどの馬車よりも豪華なものです。

 アプリコットはナイフを机に置くと、汚れた手をエプロンで拭きながら馬車が近づいてくるのを眺めていました。馬車はアプリコットの目の前でとまりました。


 馬車から降りてきたのは、馬や馬車と同じようにアプリコットが見たことのないほど麗しい佳人でした。涼やかな目元に、すっとした鼻筋。白い肌が濃紺の服に映えて、高貴な雰囲気が漂っていました。

 

 このような美しい殿方がいるなんて、アプリコットは信じられませんでした。アプリコットの知っている村の男たちや青年は、いつも汗臭く、土で汚れていました。時々訪れるアプリコットを屋敷に欲しいという使者のものだって、村で一番の地主の息子だって、身なりは綺麗にしろこうはいきません。麗しの佳人は、頭のてっぺんから爪先まで、村の誰もが真似できない品がありました。


 その佳人もまたアプリコットの美しさに驚き、言葉を失っておりました。

 名はエリオットと言い、さる貴族の使者として、主人の色好みに辟易しながらアプリコットをたずねてきたのですが、数々の美しい婦人を目にしてきたエリオットでさえ、アプリコットの美しさは信じられないものでした。

 コルセットなどとは無縁であろう簡素な村娘の衣服も、汚れたエプロンもアプリコットの美しさの前では、むしろ馬小屋に立つマリア像のような神聖さがありました。このままま何時間でも、くいいるように見つめてしまいそうでしたが、御者が馬車の扉を閉める音で、エリオットはようやく我に返り、恭しくアプリコットにお辞儀しました。


「ハミルトン公爵家の使者としてまいりました。アプリコットという娘は、貴女ですか」


 アプリコットは青年にすっかり見入っていたのを恥じらい、頬を染めながら「はい」と小さく頷きました。青年の声は凛としていて、精悍さと誠実さが見て取れました。


「わが主から貴女を屋敷の侍女として迎えたいという託を預かってまいりました」

「……あのう、ごめんなさい。わたしには年老いた祖母がおりまして、この家からは出れませんわ」


「それならどうぞ、お祖母さまもご一緒に。侍女とは申しましても、ハミルトン公は貴女のために別荘を一つ造らせておいでだ」

「ですが、きっと、祖母が許しませんわ。それに、ただの侍女ですのに、別荘など、どうして……?」


 エリオットは口ごもりました。一点の曇りのない瞳で、小首をかしげてエリオットを見上げるこの娘の無知に驚くと共に、娘の純粋さにまた言いようの無い神聖さを感じました。

 ハミルトン公は、アプリコットを妾にと望んでいるのでした。

 けれどもエリオットは、この娘の真っ白なハンカチーフのような心に染みを作るのはとんでもない大罪に思え、本来なら言わずとも察してもらうことは話さず、そのまま話を進めました。


「礼金も弾みますし、何一つ不自由させないとおっしゃっておいでです。こちらでの暮らしとは比べ物にならないほど贅沢が出来ますよ。お祖母さまもきっと、喜ばれることでしょう」

「まあ、それでは、お祖母さまに聞いてみますわ。どうぞ、中へ」


 エリオットはまた、アプリコットの人の良さ、疑うという心を知らない純粋さに驚きました。こんなにも無防備に見知らぬ人物を家にあげて、もしもエリオットが心無い輩だったらどうするのでしょう。

 木造の小さな森の家の中に、恐ろしく醜い老婆がチェアーに座って眠りこけていました。何度も折れ曲がった鷲鼻にはこぼれおちそうなイボがいくつもついていますし、顔は皺だらけで殆ど表情がわかりません。エリオットにとっては死んでいるのか生きているのかさえわかりませんでしたが、アプリコットが天使の琴音のような声で「おばあさま」と呼ぶと、濁った瞳をぎょろりと広げて見せたので、かろうじて生きているのだということがわかりました。


「お祖母さま、この方が私とお祖母さまを身請けたいとおっしゃってくださるの」

「アプリコット、可愛いアプリコットや。お前はこの森から出られないんだよ」

「ええ、わかってるわ、お祖母さま。でも、お祖母さまも一緒なのよ。お屋敷に住めるのですって」

「お前はこの森から出たら、生きてはゆけないんだよ、アプリコット」


 うわ言のように繰り返す老婆の言葉は、エリオットにとっては不気味で、不愉快な、魔女の囁のようにも思えましたが、アプリコットは震える老婆の手を握り、優しく声をかけています。それからエリオットを振り返ると、残念そうに微笑みました。


「ごめんなさい。お祖母さまはやはり、慣れ親しんだこの森を離れたくないみたいだわ。私も、急にそのような屋敷へ連れてゆかれても、お仕事がままならないだろうし……」

「困りました。私は貴女をつれて屋敷に帰らなければ、きっと主人に首を切られてしまうでしょう」

「まあ」

 アプリコットは本当に気の毒そうにエリオットを見ました。


「貴方の主人は、とても怖いお方なのね。どうしましょう。でも、私はお祖母さまを置いてはゆけないわ……そうだわ。しばらくこの森に滞在なさってはいかがかしら。貴方が真摯にお祖母さまを説得すれば、きっと、お祖母さまも納得いたしますわ」


 可愛らしく小首をかしげ、エリオットを見上げるアプリコットは、暗い家の中でさえ輝いて見えました。エリオットには、この魔女のような老婆を説得することは不可能のように思いましたが、アプリコットの美しさという魔力にやられてしまい、よく考えぬまま、アプリコットの申し出を受けたのでした。後付でしたが、老婆の寿命はさほど長くはないと思い、老婆が死んだらアプリコットを連れてゆこうと思ったことにしました。家を出ると、エリオットは御者にその旨を伝え、街で宿でも取って連絡があるまで待機しているようにと言付けました。


「それにしても、この森は荊だらけですね。ここまでやってくるのに、苦労しました」

「荊? 私はいつも森でプラムを摘んでいますが、荊など見たことありませんわ」


 エリオットは不思議に思いました。森はアプリコットの住む家を覆うように、どこもかしこも荊だらけで、森の中を歩こうとしたら、鋭い棘に衣服や肌がさかれ、馬車でなければ到底通れないでしょう。しかしこの無垢な乙女が嘘を言うはずがありません。アプリコットは荊の抜け道をしっているのに違いないとエリオットは思いました。

 エリオットは森の家の二階に一室をあてがわれました。

 まるで夢のような日々。

 朝はアプリコットの作るスープの匂いで目が覚め、午前中はアプリコットと一緒にプラムを摘みに行き、サンドウィッチを食べ、午後は家の補修やまき割りと、男手のいる仕事をこなしたり、アプリコットと一緒にプラムを剥いて過ごしました。


 そう、これで あの魔女のような老婆がいなかったら、なんて幸せな生活でしょう。エリオットは、アプリコットがそばで微笑んでいるという、それでけでとても幸せな気分になれました。毎日はただ優しく、ジャムを煮詰めるようにコトコトとゆっくり過ぎてゆきます。


 主人に仕えていたころの、権力争いや世間の喧騒などは遠い昔のことのようでした。このまま二人だけで暮らせたら。けれども、老婆はまるでエリオットから守るように始終アプリコットにくっついていたので、エリオットがアプリコットと二人きりになれるのは、プラムの実を摘みに行く時だけでした。

 プラムの木は、庭の裏手の茂みを抜けた場所にありました。急な坂道になっているので、足も目も悪い老婆は来れないのです。新緑の中で、アプリコットの栗毛色の髪はよく映えます。クスクスと軽やかな笑い声と共に、アプリコットは羽のように野を駆けて、エリオットを振り返りました。

 この頃にはエリオットは、アプリコットが自分と同じような気持ちを抱いているのではないかと確信していました。老婆をはさんで見つめあう、アプリコットの瞳。無垢な天使のようだったアプリコットに、その時ばかりは少し、悪戯気といいますか、いけないものが入り込む気がしました。いけないもの。神聖の中に在って、不道徳なものとは、魅力的なものです。


「貴女を愛しています」


 アプリコットを捕まえて、抱きすくめながらエリオットはとうとう口にしました。アプリコットは主人が妾にと望んでいる娘です。主人にばれたら、ただでは済まないでしょう。けれども、エリオットはアプリコットへの気持ちを抑えることが出来ませんでした。こんなに愛らしい娘をあの、でっぷりと太り、年の食った好色な爺の元へなどやれません。


「エリオットさま……」


 鼻をくすぐる花のような香りがエリオットからはしました。アプリコットはエリオットに身を任せると、エリオットの胸に顔を埋めました。


 プラムの木の奥の奥、茂みのまた奥にまでアプリコットを誘うと、エリオットはプラムの木の下にアプリコットを押し倒しました。そうして編み上げた胸元の紐を解いてゆき、あらわになった胸元に唇を押し付けていると、アプリコットの不安そうな声が耳に届きました。


「あのう、エリオットさま?」

「大丈夫だよ、アプリコット」

「何が大丈夫ですの」

「これから起こることさ」


 アプリコットの素肌はエリオットの手のひらに吸い付くように滑らかで、愛らしい乳房はつんと上を向いていて、エリオットは嬉しくなりました。しかしアプリコットは、突然荒々しくなったエリオットに困惑していました。あちこちをまさぐられ、どんどん衣服を脱がされてゆき、とうとう一糸纏わぬ姿にされた時、アプリコットはどうにも怖くなってきました。愛しいエリオットがまるで別人のように思えたのです。


「なんだか恐ろしい」

「……何?」


 エリオットはすっかりアプリコットのしなやかな肢体に夢中になっていたので、おざなりにしか返せませんでした。アプリコットは頭上に咲き乱れるプラムの花をぼんやりと見上げながら、先ほどの「大丈夫だよ」というエリオットの言葉を何度も何度も思い返してやり過ごしました。


 すっかり事を終えると、アプリコットは自分の内側から何かが変わってゆくのを感じました。今までのアプリコットは胎児で、今生まれたかのように、世界が違って見えました。無垢だったアプリコットは、もうどこにもいません。

    

 まず初めに、夢の中の王子のようだと思っていたエリオットのことを、ひとりの人間の男だと見れるようになれました。そして自分も、人間の女なのだと気づき、こんな辺鄙な森の中でずっと過ごしてきたのが不思議でなりませんでした。

 同じことの繰り返しを、あの森の家で生まれたときから繰り返してきました。そこには悲しみも怒りも無く、ただ同じ毎日だけがあるのです。


「どうしたの、アプリコット」


 いつまでも頭上のプラムをぼんやりと眺めて、起き上がろうとしないアプリコットをエリオットは心配して覗き込みました。エリオットの着ていた羽織をかけてやりますが、アプリコットはそのまま立ち上がって、森の奥の家を見つめるばかりです。パサリと落ちた羽織を拾って、エリオットはアプリコットを見上げました。


「アプリコット?」

「エリオットさま、私、夢から覚めたみたい」


 それからアプリコットは、エリオットのそばに同じように座ると、エリオットの唇にそっとキスをし、端正な顔を両手で優しくつつみました。


「森から出ましょう。そうして、二人で暮らしましょう。おばあさまに気づかれないうちに」

「本当にいいのかい? 僕は主人の屋敷から追われるだろうし、こっそりと暮らさなければなるよ」

「エリオットさまがいらっしゃれば、私は何もいらないわ」

 御者に手紙を書いて、翌日馬車をよこそう、というエリオットの言葉を拒み、アプリコットはその身ひとつで、そのまま森を抜け出しました。エリオットと手を繋いで森を抜けると、日が暮れる前に村へたどり着くことができました。

 エリオットは馬を一頭、いくらかのお金と引き換えると、アプリコットを乗せて森を抜けようとしました。しかし、森にはあの荊があります。やはり馬車を村に呼ぼうと提案すると、アプリコットは小首を傾げて言いました。


「どうしましたの、エリオットさま。荊などありませんわ……ほら」


 本当に、荊などありませんでした。一体どういうことでしょう。しかしエリオットには深く考えている余裕がありませんでした。アプリコットの焦燥が移ってしまったかのように、あの魔女のような老婆が追いかけてくるのではないかと恐ろしく思い、休むことなく森を抜けました。


 エリオットは国の外れに別荘を持っていました。それは幼少の頃、名のある貴族だった伯父が残したもので、主人のハミルトン公も知りえない秘密の屋敷です。逃げるように森を離れ、エリオットとアプリコットはその屋敷で暮らすことにしました。

 アプリコットは唐突に訪れた言いようの無い力に突き動かされて森を抜けてきましたが、やはり老婆が気がかりでした。しかし屋敷に住むようになると、エリオットと二人だけの毎日に夢中で、アプリコットは老婆のことなどすっかり忘れてしまいました。時折ふと、老婆の「森を出たら生きては行けない」という言葉が脳裏をかすめましたが、アプリコットは都合よく忘れた振りをしました。エリオットとの暮らしは、アプリコットが想像していたよりもずっと幸せに満ちた暖かいものだったのです。


 屋敷での幸せな日々は、ゆっくり流れているようで、しかし矢のように過ぎ去り、かくして森の妖精、女神、マリアであったアプリコットは、人間の女になったのでした。


【七つの罪】

 

 荊の森から逃げてきたエリオットとアプリコットは、古めかしい屋敷で細々と暮らしはじめました。とても大きな屋敷でしたので、大広間とキッチン、それから庭だけを開放して、使用人を雇わず二人きりで生活していました。決して裕福な暮らしではありませんでしたが、それは幸せに満ちたものでした。


 けれども一年が過ぎた頃から、二人の生活に徐々に影が忍び寄りはじめました。アプリコットの純粋さがあったからこそ、二人はいつまでも森の中でのような暮らしが出来ていたのですが、そのアプリコットが少しずつ人間の欲を知るようになったのです。

 人間を罪に誘う七つの悪魔。

 森から出てきたばかりのアプリコットに、それらは密やかに囁きかけました。

 事の発端はエリオットが大きな仕事を得たことでした。主人の元を去り、身を隠してからは、友人の伝で小さな貿易商の仕事をしていたのですが、エリオットは大きなチャンスをモノにして、重要な役人に昇進したのです。アプリコットには、どうやらお仕事が忙しくなったようだ、ということしかわかりませんでしたが、屋敷に家政婦が増え、使用人が増え、使われている部屋の数が多くなってゆき、エリオットが昔のように上等な洋服を着ているようになって、ようやくエリオットが以前と同じ水準の地位を取り戻しつつあることに気づきました。


 アプリコットがまず初めに知ったのは、「怠惰」と「暴食」でした。


 家政婦と使用人が増えるにつれアプリコットの仕事はどんどん減ってゆき、ついには何もすることがなくなってしまったのです。

 毎日をぼんやりと過ごし、エリオットが屋敷に帰ってくるのをただ待ちわびる日々。

 最初は手持ち無沙汰でしたが、慣れてくると働くことが億劫になってしまうことにアプリコットは驚きました。朝早くから働いていた森での日々が信じられないくらいです。


 また、裕福になるとアプリコットが食べたことの無い贅沢なお料理が食卓に並び始めました。肉汁のしたたるステーキ、新鮮な果物を使ったケーキにパイ。どれも珍しくて美味しくて、アプリコットは朝から晩まで何かを口に含んでいました。エリオットがふと屋敷の中でアプリコットの姿を見ると、ブドウの房などを持ち歩いているなんて事もしばしばありましたが、アプリコットはどうしてか食べても食べても太らず美しいままなので、エリオットは特に気にとめませんでした。


 エリオットが以前とは比べ物にならないほど煌びやかになった屋敷で、パーティを開き始めると、アプリコットは屋敷に大勢の針子や宝石商を呼んで豪華なドレスを作ることに夢中になりました。レースに、サテン、ベルベット。華やかなドレスを身に纏ったアプリコットの美しさは、パーティに出席している男女すべての視線を釘付けにしました。ため息の出る美しさ。同じ年頃の婦人が集まる、その中でアプリコットが気づいたことは、自分は他の人間よりも遥かに美しい容姿を持っているということでした。


 アプリコットは「高慢」を知ったのです。それはとても心地の良いものでした。


 かつて森の中でエリオットに惹き付けられた時ほどの魅力を感じる青年はいませんでしたが、エリオット以外の男性に羨望の眼差しを向けられるのはなんて楽しいことでしょう。アプリコットは徐々に美容に心を配るようになり、ダイヤの原石のようであった美しさはどこまでも磨かれてゆきました。


 すっかり贅沢と余暇に慣れてしまったアプリコットに比例して、エリオットは仕事が忙しくなり屋敷を空けることが多くなりました。すると、エリオットと違い毎日を遊び呆けているアプリコットは不満を持ち始めました。

 仕事なんて嘘をついて、もしかして他の女と遊んでいるのではないか。

 そんな妄想に取り付かれて、エリオットに当たるなんてこともあり、エリオットをうんざりさせました。

   

 森の中にいたあの天使のような娘から、急速にそこらにいるただの女になってゆくアプリコットを、エリオットは複雑な思いで見つめていました。しかしエリオットはまだアプリコットを愛していました。ついアプリコットの贅沢を許してしまい、その後で嫉妬に狂いそうになるのです。エリオットはアプリコットの美しさを自慢に思っていましたが、他の男がアプリコットへ向ける視線に気が気ではありませんでした。

 数日空けて屋敷に帰れば、アプリコットは手がつけられないほど不機嫌ですし、エリオットが帰ってきてもパーティ三昧で、昔のようなあどけない愛らしい視線でエリオットを見ることもありません。次第に二人は屋敷の中で顔を合わせることが少なくなってゆきました。


 いつから二人の関係はこのようなしいものになってしまったのでしょう。

 森の中で微笑んでいた天使は、どこへ行ってしまったのでしょうか。

 香水と化粧の匂いを屋敷に撒き散らすアプリコットは、エリオットにとってはもう天使でもマリアでもありません。エリオットはアプリコットへの愛と嫉妬の苦しさから逃れるように、仕事を始めた頃からそばにいて励ましてくれた、貿易商の友人の妹と関係を持つようになりました。


 それにアプリコットが気づかないわけはありません。アプリコットは「嫉妬」と「憤怒」を知りました。


 エリオットの裏切りは、微かに残っていたアプリコットの無垢な心をすっかり醜いものに変えてしまったのです。引き止めるエリオットをふりきり、アプリコットは馬車を走らせ、エリオットと過ごした屋敷を飛び出しました。アプリコットにとっては、信じられない、ひどい裏切りでした。ただ、痛めつけられた。エリオットの苦しさなど、アプリコットにはわかりません。嫉妬は憤怒に変わり、悲しみは憎しみに変わりました。エリオットが憎い。それだけがアプリコットの心の内を強く支配しました。


 森の娘であったアプリコットには、行くあてがありません。すっかり贅沢な暮らしに慣れてしまったアプリコットに、森へ帰るなんていう選択肢はありませんでした。帰ったとしても、老い先短い老婆がどうなっているのか知りたくありません。

 途方に暮れたアプリコットが憤怒と憎しみを持って訪れた先は、エリオットの昔の主人、ハミルトン公爵の屋敷でした。


 馬車を降りると、アプリコットはエリオットの屋敷よりも何倍も豪華で大きい、お城のような屋敷を見上げました。門の衛兵がアプリコットを不振そうな目で見ますが、アプリコットがにこりと微笑むとたちまち衛兵は愛好を崩しました。


「ご婦人、公爵家へ御用ですが?」

「ええ。公爵様にお呼ばれされていますの」

「ハミルトン公に? 紹介状か、身分を証明するものはございますか?」

「森の娘、アプリコットと伝えてくだされば、ご存知と思いますわ」


 衛兵は訝しげにアプリコットを見つめました。この艶やかな婦人の美しさと洗練された身なりから、どこかの貴族のご令嬢ではないのかと思いましたが、権威を示す名前を持ち出す様子はありません


「少々お待ちください。確認させますので。……それにしても、森の娘だなんて、不思議な通り名ですね」

 アプリコットは黙って控えめに微笑みました。しばらく待っていると、使いの者がやってきて、衛兵に耳打ちしました。

「どうぞ、アプリコット様。主人がお待ちです」


 アプリコットは門をくぐると、使用人につれられて屋敷の中へ入りました。


 ハミルトン公は、アプリコットが思っていたよりもずっと醜く、年のいった初老の男でした。太った腹はボタンがはちきれそうですし、脂っこい顔に下卑た目つき。頭は白髪の混じった髪が禿げかけており、首はなく、指はソーセージのようでした。

 ハミルトン公はアプリコットが部屋へ入ってくるなり、下卑た目つきをさらに怪しく光らせて、舐めるようにアプリコットを見つめました。美女は数多といますが、アプリコットの美しさは格別です。豊かな栗毛色の髪を結い上げ、喪服のような詰襟の黒いドレスが禁欲的で、抑えられた艶やかさがドレスに収まらずに匂い漂ってくるようでした。

 この婦人が何用で参ったのかは定かではありませんでしたが、どうにかして屋敷に留める手はないかとハミルトン公は卑しい思考をめぐらせました。


「はじめまして、公爵さま。アプリコットでございます」


「……さて、それで、何の用で参ったのかね」

「助けてくださいまし、公爵さま。一年ほど前に公爵さまの使いが森へやってきて、私めをお屋敷へ欲しいという託を受けたのですが、その使者が公爵さまの命令に背き、私を連れ去ったのです。今、ようやく隙を見て逃げてくることができました 」


 なんと、策略を張り巡らせる必要などありませんでした。獲物が自ら腕の中に飛び込んできたことにハミルトン公は嬉しさを押さえきれませんでした。


「おお、それは、それは。怖かっただろうね。もう大丈夫だ、安心しなさい。その使者、エリオットと言ったかね。そいつはすぐにひっ捕らえよう。貴女はここで暮らせば良い」


 実のところ、ハミルトン公はアプリコットのことも、エリオットを使者へやったことなどもすっかり忘れていたのですが、使いの者がぽろりとこぼした「世にも美しい婦人」という言葉につられてアプリコットを屋敷に上げたのでした。まさしくこの世のものとは思えない美しい婦人。好色で名の知れたハミルトン公が放っておくはずがありません。


 アプリコットは、公爵のでっぷりした身体が自分の上に乗り、油顔を近づけられたり、ソーセージのような指でまさぐられるのを想像して身の毛のよだつ思いでしたが、そのような思惑は微塵も見せず艶やかに微笑み、礼を述べました。


 ハミルトン公はたちまち美しいアプリコットに溺れました。宝石やドレスを好きなだけ買い与え、屋敷を与え、アプリコットを喜ばせようとこれ以上ないほど甘やかしました。

 望まれるまま、アプリコットの欲は増してゆきました。そうしてアプリコットは「強欲」を知ったのです。


 何でも欲しいものを手に入れることが出来ました。初めはドレスや宝石という小さなものでしたが、次第に金額も大きくなってゆき、より珍しく、高価な品にアプリコットは弾かれてゆきました。美しいものに囲まれたアプリコットは、毎日を豪勢に、そして野心を秘めて過ごしました。


 アプリコットの中に生まれたのは、全てを手に入れたいという野心。何もかもを持っているように見えるアプリコットでしたが、ひとつだけ持っていないものがありました。アプリコットは貴族という血筋そのものの高貴さが欲しくなったのです。


「アプリコット、可愛いアプリコットや。欲しいものは何でも言っておくれ。この世の全てがお前のものだ」

「ああ、公爵さま。私は貴方が恋しい。どうか私を妻にしてください」

「お前が望むなら、すぐにでもそうしよう」


 アプリコットは公爵家の夫人となりました。貴族となり、公爵家夫人としてパーティへ出席するようになると、社交界でもアプリコットの美しさはたちまち知れ渡り、「レディ・アプリコット」の評判は皇室にまで届くようになりました。

 だけれども、もっと、上へ。上へ。アプリコットの野心は留まるところを知りませんでした。


 この頃、「強欲」と一緒にもう一つ知ったのは、「色欲」でした。


 エリオットの若く美しい肉体を知っているアプリコットにとって、醜く老いたハミルトン公と寝具を共にするのは大変な苦痛でした。サロンで捕まえた見目麗しい燕や、屋敷の若い使用人などと関係を持つようになり、アプリコットもまた煌びやかで淫らな生活に溺れてゆきました。


「貴女を愛しています」


 と、ある日、若い恋人がベッドの上でアプリコットに囁いた時、アプリコットは一瞬、薄い緑から濃い緑まである鮮やかな野原と、頭上に咲き乱れていたプラムの白い花を鮮明に思い出しました。

 数年も経っていないのに、懐かしく、遠い日の出来事に思いました。エリオットは今、どうしているのでしょう。とても遠いところに来てしまった気がします。じわじわとした郷愁に一粒の涙がこぼれましたが、アプリコットは気づきませんでした。


 アプリコットは公爵家の夫人となりました。貴族となり、公爵家夫人としてパーティへ出席するようになると、社交界でもアプリコットの美しさはたちまち知れ渡り、「レディ・アプリコット」の評判は皇室にまで届くようになりました。

 だけれども、もっと、上へ。上へ。アプリコットの野心は留まるところを知りませんでした。


 この頃、「強欲」と一緒にもう一つ知ったのは、「色欲」でした。


 エリオットの若く美しい肉体を知っているアプリコットにとって、醜く老いたハミルトン公と寝具を共にするのは大変な苦痛でした。サロンで捕まえた見目麗しい燕や、屋敷の若い使用人などと関係を持つようになり、アプリコットもまた煌びやかで淫らな生活に溺れてゆきました。


「貴女を愛しています」


 と、ある日、若い恋人がベッドの上でアプリコットに囁いた時、アプリコットは一瞬、薄い緑から濃い緑まである鮮やかな野原と、頭上に咲き乱れていたプラムの白い花を鮮明に思い出しました。

 数年も経っていないのに、懐かしく、遠い日の出来事に思いました。エリオットは今、どうしているのでしょう。とても遠いところに来てしまった気がします。じわじわとした郷愁に一粒の涙がこぼれましたが、アプリコットは気づきませんでした。

 ハミルトン公は、最近関節を患って、前よりも気難しくなっていました。アプリコットの若い恋人達に気づいているわけではないのでしょうが、アプリコットが夜遅くに屋敷へ帰ってくると、このところ毎日、すぐにアプリコットを部屋に閉じ込めました。


「今日はサロンへ出かけて、疲れておりますの。どうか、明日にしてくださいまし」

「何を生意気な。誰のおかげでこうしていられると思ってるんだ」


 そう言って強引にアプリコットをベッドへ引きずり込むのです。アプリコットはうんざりしていました。しつこい愛撫も、ねばっこい皮膚も、酒臭い息も、気持ち悪くてしかたがありません。これがこの先も続くのかと思うと、アプリコットの野心はまたうずくのでした。

 もっと、上へ。

 ハミルトン公よりも地位のある、美しい貴族がいい。出来れば皇太子。それらは今のアプリコットには、ただの夢物語ではありませんでした。

 どうしかして公爵と離縁して、想いを寄せてくれている皇太子と近い仲になろうかと、最近のアプリコットはそればかり思案していましたが、今日はどうにもわだかまりがあります。突然記憶の緑の中へ引き戻された時のことが、アプリコットの胸にひっかかっているのでした。

 どうして今自分の上に乗っているのは、エリオットではなく、この醜く卑しい男なのだろうと、唐突に不思議になりました。いつからこのようなことに? どうしてエリオットとアプリコットの幸せは、終わりを迎えてしまったのでしょう。アプリコットは、エリオットの犯した過ちがとても些細なことに思えました。


 アプリコットは酔っ払って眠りこけている醜男をゆすりました。


「あなた。あなた。初めて私がこの屋敷へ来た時のことを覚えておいでですか? その時、私を連れ去った使者は捕らえるおっしゃっていらしたけれど……」

「ああ、エリオット! あの愚か者か。安心するがいい、しばらく前に捕らえて、地下の牢に繋いであるわ」


 ハミルトン公は呂律の回らない口でそう言うと、またいびきをかきはじめました。アプリコットの心臓がドクンと揺れました。エリオットが、この屋敷に。しかも地下牢にいる。エリオット。何て懐かしい響きでしょう。いつのまにかアプリコットのエリオットへの憎しみは消えていました。


 エリオットの存在に、アプリコットは激しく動揺しました。よく気持ちの整理のつかぬままガウンを羽織ると、蝋燭を持ってこっそりと部屋を抜け出しました。地下牢へと向かうアプリコットの心臓は早鐘のようでした。

 牢の番をしていた使用人は、アプリコットの姿を見ると驚いて口を開きかけましたが、アプリコットが有無を言わさず「下がりなさい」と強い口調で言うと、すんなり鍵を渡して従いました。 この頃のアプリコットは、屋敷では公爵に次ぐ権限を持っていたのです。


 松明の灯りだけの、石造りの廊下に木戸があり、鉄格子のはめられた小さな窓がありました。そこから中をのぞいてみると、エリオットが手首を鎖に繋がれて、ぐったりとしていました。懐かしい姿に、アプリコットの胸が詰まりました。


「エリオットさま!」


 懐かしいエリオットの姿を見たら、森の美しい緑やプラムの花びら、黄色い実が色鮮やかに脳内に蘇り、森の娘であった遠い日の自分が思い出されました。アプリコットは覚束ない手つきで鍵を差し込むと、エリオットの元へ駆け寄りました。


「アプリコット……?」


 エリオットは夢を見ていました。羽のように野を駆ける乙女の後姿。まるで天使のような無垢な笑顔。美しい声が自分を呼ぶ。

 懐かしい響きの声で目を覚ましましが、目に飛び込んできた姿は、懐かしい面影を残した見知らぬ高貴な婦人でした。

 エリオットははっきりしない視界でアプリコットを見上げ、しばらくしてようやく目の前にいるのがアプリコットだと気づきました。

 栗毛色の豊かな髪からはほんのりと品の良い香りが漂い、薄い夜着の上から上質のガウンを羽織っています。


 エリオットは悲しくなりました。初めて会った日のアプリコットは無垢で純粋な天使のようでした。アプリコットをこのように貶めたのは、自分のせいだ、森から連れ出したのがいけなかったのだと、エリオットは取り返しのつかないことをしてしまった気持ちになり、アプリコットから目を逸らしました。


「噂は聞いてたよ。公爵夫人になったんだね」

「エリオットさま、そんな目で見ないで」

「貴女をそんなふうにしてしまったのは、私だ。同じ罪がある」

「もう何もおっしゃらないで。私は愚かでした。今、ようやくわかりました。夢から覚めたみたい」


 アプリコットは跪くと、エリオットの汚れた頬を両手で優しく包みました。その手は森で過ごしていた頃では考えられないほど手入れされて美しいものでしたが、温かさは昔と同じものでした。


 七つの罪を知ったアプリコットは、最後にもう一つ、人間しか持ちえないものを知ったのです。それは愛でした。アプリコットはようやく、エリオットを真に愛していたことに気づいたのです。かくして森の妖精、女神、マリアであったアプリコットは、完全に人間の女となりました。世にも奇妙な美しさは、もうありません。エリオットの前にいるのは、人並みの美しさを持った普通の女でした。


「まだほんの少しでも私を愛しておいでなら、もう一度チャンスを下さい、エリオットさま」

「泣かないで、アプリコット。間違いを犯したのは私の方だ。貴女を傷つけてしまった」

 アプリコットがエリオットの手錠を外すと、二人はしっかりと抱き合いました。エリオットは牢で生活していたためか、ひどく衰弱しています。乱暴された傷跡も見えました。アプリコットは涙が止まりませんでした。


「森へ帰ろう、アプリコット。そうして初めて会った頃のように、森の家で幸せに暮らそう」

「ええ、ええ、エリオットさま。貴方がいれば、私は何もいりませんわ」


 アプリコットとエリオットは屋敷を抜け出すと、アプリコットが夜会用に使っていた馬車を使って、懐かしい、始まりの場所である荊の森へと向かいました。

 二人の行く手には霧が深く立ち込め、雨の匂いがやさしく二人を追いかけます。

 荊の森には、やはり頑丈な荊が生い茂っておりました。アプリコットは不思議に思いましたが、エリオットは記憶を頼りに森の奥へと進みました。ガタゴトという小気味良い馬車の揺れに身を任せながら、二人は手を取り合い、この数年感じたことのない幸せを噛み締めていました。


 森の家にたどり着くと、アプリコットは老婆の名を呼びながら家に駆け込みました。けれども、家の中はすっかりからっぽで、老婆はどこにもいませんでした。アプリコットのいない間に老婆は天に召されたのだと、エリオットはアプリコットを慰めました。

 

 二人の生活は、また幸せに満ちたものに戻りました。毎日は、外の出来事などなかったかのように、ゆっくりと、ただ優しく過ぎてゆきます。こうしてアプリコットとエリオットは、いつまでもいつまでも、幸せに暮らしました。



 

 数日後。森の渓谷で、地すべりによって落下した馬車が見つかりました。馬車の中では一組の男女が事切れていたのですが、その死に顔は眠るように安らかで、微笑さえ浮かんでおりました。

 荊の森には、悲しみや怒りがありません。ただ、毎日。死んでいるのと、同じなのです。 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ