03 王宮殿にて
開いた扉の先には、一人の男が執務机に向かっていた。銀色の髪に、垂れさがった黒い獣の斑耳。ふわり、ゆらゆらと揺れているのは、黒豹の尻尾。
「よく来たな。サンタリア」
「楽団長、お久しぶりです」
彼は〈常夏の音楽隊〉で最も気高い男性。ゴルトス・ヘンデリアだ。どっしりと構えた彼は、僕を見て目元を和らげる。
「ヴェリ島での仕事はどうだ」
「順調でしたよ。ちょっと多いような気もしましたが」
「ははは。国王陛下が惜しんだのだろう」
「結局、仕事を使って帰ってこさせるなんて」
僕が不満を垂れると、ゴルトス団長は目を細める。
「サンタリア、ここは王宮殿であり、サンフラ浜ではない」
「……懐かしいですね」
サンフラ浜は、僕が生家で過ごしていた頃、今代の陛下に連れて行ってもらった思い出の場所だった。
「あの頃に戻りたいか」
「……嫌ですよ、どうせ貴族社会への勧誘でしょう」
僕が顔をしかめると、ゴルトス団長は肩をすくめた。どうにもこの人は僕を貴族社会に戻したがるのだ。僕はもう、貴族社会には懲り懲りだというのに。
「世間話はこれぐらいにして、仕事の話に移ろうじゃないか」
「はっ」
僕が背筋を伸ばすと、今回、命じられた仕事の内容について教えられる。
「昨今、音術師への関心が薄れていることを感じた陛下は、音術師の講師を王立学院に派遣することにした。その命を与えられたのが、サンタリア。きみになる」
「……」
「しかし、それは建前上の話だ。今年度の秋より、二人の王子が入学する予定だ」
二人、と言われて僕は首をかしげた。現在、ソルトーナ王国には王子が一人しかいない。
「第一王子は病死したのですよね」
「正確には、植物状態にあったらしい。だが、何の因果か第一王子が目覚めた。この情報は上流貴族にも知らされていない。それを念頭に置いておきなさい」
「……は、はい」
とんでもないことを聞かされた僕は、ぐっと眉を寄せる。悪い夢だったらよかったのに、手に食い込んだ旅行鞄の重みが現実であることを教えてくれる。
「……第一王子殿下は、どうやってご入学されるのですか」
「私の親戚として入学してもらう」
そうは言っても、長いこと昏睡状態にあった王子が勉強などできるのだろうか。王立学院の成績争いは、他の学校に比べて熾烈だ。僕の友人であるアルフィヤリアは落ちこぼれ、と言っていたが卒業しているだけ優秀なのだ。
「あの、勉学の方は……」
「問題ないそうだが、不安は残る」
「……それで僕を呼んだのですか」
「サンタリアは教えるのが上手かっただろう?」
「上手くはありません。人より努力家なだけです」
「自分で言うかね」
「言いますよ。僕の誇りですからね」
胸を張って言えば、ゴルトス団長はふわりと笑った。
「ウィス・サンタリア。今回の仕事、国のために精一杯頑張るのだぞ」
拒否すら、させてもらえなかった僕は、そのまま楽団長の執務室を後にしたのだった。
◆◀
トボトボと廊下を歩きながら、僕は宮廷に仕える調律師について考える。
数日前、海辺で演奏してしまったので、楽器のお医者さんに診てもらいたいんだよね。本当は、ロスサンの街で見てもらう予定だったけど、知り合いの調律師が一人もいなかったから、宮廷の人へ頼むことにした。
「すみません、ワルクンテさんは居ますか」
「はい、居ますよ」
窓口から室内を覗き込めば、そこには赤紫色の髪をお下げにした美人なお姉さんがいた。
彼女は、僕の顔を見て手を止める。
「まあ、副楽団長さんじゃないですか」
「お久しぶりですね」
「こちらに来るのは何年振りでしょうか。私がヴェリ島に赴いたのが半年前ですし……」
「約、二年ぐらいかな」
困ったように笑うと、彼女は窓口の裏から乗り出してきた。それはもうガラス板に張り付く勢いで。
「それで、本日はどんなご用件ですか?」
「いつも通り、クラリネットの点検をお願いしたいです」
僕の言葉に、ワルクンテさんは頷いた。それから小さな縦笛を取り出すと、ピーと音を奏でる。音自体は粗末なものでも、彼女の楽器に対する気持ちが、音に乗って力となる。彼女の音色に合わせて、石造りの壁が動き出した。この王宮殿ではありがちな隠し扉のようなものだった。
「はい、ここから入ってくださいね」
楽師にとって楽器はパートナーのようなもの。それを預けるのだから、信頼できる調律師に頼るのは当たり前のこと。そして宮廷楽師にとって、信頼できる調律師は、国としても重宝されるエリートである。
「ワルクンテさん、いつもこの部屋にいますよね」
「ええ、ここで暮らしていますよ。籠の中の鳥……なんていうのは冗談で、私から望んでここにいるんです」
彼女に案内された先は、楽器の調律をするための作業部屋。手を差し出されたので、相棒のクラリネットを渡す。
「こう見えて広いですし。何より、自分の仕事と向き合い続けられるのが幸せで……」
なんだか、宮廷から逃げた僕とは大違いだ……なんて少しだけへこみながら、クラリネットの状態を見る彼女に向き直る。
「状態が悪いわけではないみたい。副楽団長さんの手入れが良いからでしょうね。でも、きっと不安でしょうし、もう少し手入れしておきます」
「ありがとうございます」
頭を下げると、彼女は「予備の楽器は持っていますか?」と聞いてきた。予備の楽器は、僕たち宮廷楽師が必ず持っている普段使いではない楽器のことだ。僕は、腰につけているポーチを探ると、中から小さな長方形の楽器を取り出した。
「副楽団長さんは、カリンバも扱うんでしたね」
「あまり上手くないのですが」
木製の箱に、金属の棒が並んだこの楽器は、ホイッスルやオカリナ、ハープ、ウクレレに並ぶ手持ち楽器のひとつだった。僕はカリンバをなぞると、またポーチの中に仕舞う。
「クラリネットのこと、よろしくお願いします」
「ええ、任せてください」
そうして、僕は王宮殿の調律師工房を後にした。