A子とB子
コンプライアンスだなんだと言われる世の中になったって、人はいつでも自分より不幸な人を探している。
「あ、ごめーん」
学校の階段を派手に転げ落ちたクラスメイトを薄目で見ながら、女子生徒は少しだけ熱い肩を摩る。
雷が落ちたような派手な音がしたにも関わらず、周りの生徒たちは、倒れている彼女の長いおさげを踏まないように気を付けるだけで、声もかけずに通り過ぎていく。
「えっ、動いてないよ…あの子。大丈夫かな?」
「大丈夫っしょ。つか、どんくさいあっちが悪いんじゃん…行こ」
筆記用具が散乱する中、ロングスカートを扇状に広げたまま、踊り場で微動だにしない彼女を見て、「フンッ」と尖った鼻を鳴らす。鋭い目つきで歩く後ろ姿を、友人が戸惑いながら追いかけていく。
「う…っ」
遠ざかるかつての親友の足音を聞きながら、痛すぎて瞑る事しかできなかった目を、薄っすらと開ける。切れ長の瞳がぼんやりと捉える指先は、床に触れたまま力が入らない。
急に後ろからぶつかられて落ちたので、受け身も何も取れなかった。頭も頬骨も肩も膝も、全部痛い。口の中で血の味がする。骨がジンジン痺れている。指一本も動かしたくない。起き上がろうと思う気力すらない。
「うちら、世界で一番仲良しな自信があるわー!」
そう言って、大きな目を嬉しそうに細めていた彼女はもういない。小学1年生の時に出会ってから11年間、ずっと二人で一緒に居たのに。自分に彼氏ができたことが切っ掛けで、「世界で一番の絆」は一瞬で切れてしまった。
――「ずっとあたしが好きだった人なのに、なんであんたが」って言われたって、しょうがないじゃん。知らなかったんだもん…。
「二人の間に秘密は無しね」って、そっちが言ったくせに。こんな事になるなら、興味半分で付き合ったりなんかしなきゃよかった。自分にとって、顔見知りの同級生よりも、彼女の方が何百倍も大切だったのに。
無視から始まった彼女の嫌がらせは、わざとぶつかる、大きな声で悪口を言う…と、どんどんエスカレートしていき、ついには身に覚えのない噂を学校中に流されてしまった。そして、その噂をあっさりと信じた彼にはフラれ、クラス中から白い目で見られることになってしまった。
あの時、自分に向けられた蔑む視線に対して、「違う」としっかり否定しておけばよかった。そうしたら、床に這いつくばった状況でも、手を差し伸べてくれる人がいたかもしれないのに。
――あんな事されたのに、「また親友に戻れるかも」なんて考えて…ばかみたい。
指先を見つめる視界がじわっと滲む。
悲しい。切ない。情けない。色んな感情が胸の奥に爪を立てて、ガリガリと深く抉っていく。
もう嫌だ。なんで、こんなに惨めで苦しいのに、頑張らないといけないのだろう。
「……」
誰も自分が見えていないかのような。空気のように扱われる光景がフラッシュバックし、グッと奥歯を噛みしめる。すると、階段の上から「パシャッ」とスマホのカメラが鳴る音がした。
「やば、音デカッ」
「うちの学校で殺人事件起きてて草」
「SNSに載せたらバズんじゃね?」
「――っ!」
上から降り注ぐ、3人の甲高い笑い声に、床で冷えた体がカッと熱くなる。
この状況が、そんなに面白いだろうか。
全身、痛くて苦しいのに。胸の奥まで削られて、呼吸さえも辛いのに。苦しんでいる姿までおもちゃにされなきゃいけないほど、自分は何か悪い事をしたのだろうか。
――してない…そんな事、絶対にしてない…!
零れそうになる涙をグッと堪え、掌に力を込め立ち上がる。ズキッズキッと体中が悲鳴を上げる中、周りに散らばる筆記用具を搔き集め、階段を駆け上る。上段に辿り着いた瞬間、膝や足首に電流のような痛みが走り、思わず「うっ」と鈍い声を出す。すると、写真を撮っていた生徒たちが大笑いし始めた。
「何あのおっさんみたいな声―」「うっ!」「真似すんなって~」と、お腹を抱えて笑う声に悔しさを感じながら、自分のクラスまでヨタヨタと歩いていく。角を曲がり、何とか辿り着いた教室に入った瞬間、「きゃぁっ!」と微かに悲鳴が上がった。みんなが自分を見ながらざわついているのがよく分かる。でも、痛みと悲しみが強すぎて、周りの反応なんて気にしていられない。
一刻も早く、ここから離れたい。こんな場所に居たくない。
痛みが増す右足を引きずりながら、自分の机に向かっていく。授業開始のチャイムと同時にやってきた先生が、ギョッとして「おい!大丈夫か!?」と声をかけてくる。だが、階段から突き落とした張本人が、「体調が悪いから帰るそうでーす」と言うと、教室がシーンと静まり返った。
何が「体調が悪い」だ。自分がやったくせに。
ぶわっと腹の底から湧き上がる怒りで、肩が上下する。
「いや、体調っていう問題じゃなくて…あっ!ちょっと!」
机にかけていた黒革のスクールバッグを強引に掴み、荷物を適当に詰め込むと、「おい!」と焦る声を振り切って教室を後にした。
「はぁ、うっ、はぁ…」
壁や手すりを伝って歩き、やっとの思いで下駄箱につく。しかし、昇降口のガラス扉一枚を隔てた状況を見た瞬間、苦痛で歪んでいた目がハッと見開いた。
――…土砂降りだ。
今日は、天気予報では晴れだと言っていたのに。さっきまで、雨音一粒も聞こえなかったはずが、まるでシャワーが地面を叩いているような音がする。
どうしよう、傘なんて持ってきてない――と扉を見つめて、あることに気づく。
――見た目、凄い事になってる…だから、みんなこっち見てたんだ…。
ガラスに映る、情けない顔をした自分の姿を戸惑いながら凝視する。
朝、崩れないようにしっかりと結ったおさげは、四方から引っ張られたようにボサボサに。眉毛の上で丁寧に切りそろえられた前髪は冷や汗で束を作っている。
乱れた髪が張り付く頬と、その頬に目立つ打撲痕。そして、切れた口端が痛々しい。
野良猫に引っ掻かれた…いや、取っ組み合いのけんかをしたようなボロボロの姿を見ていると、これ以上酷い醜態はないのではと思えてくる。雨に濡れることを躊躇っていた自分が、バカみたいだ。
「はぁ…」と小さく息を吐き、下駄箱からスニーカーをとって、上履きと履き替える。
重たい扉に手をかけて、力を込める。キィ…と金具が軋むと同時に、より強い雨音が鼓膜を震わせた。一瞬、つま先が前に進むのを躊躇ったが、意を決してタイルを蹴る。その瞬間、頭上から大きな雨粒が降り注いだ。
ザアァァァ…と、息つく間もないほどの雨に押されて、自然と頭が下がっていく。あっという間にずぶ濡れになったスニーカーを細目で見ながら、呼吸の代わりに水溜りをパチャンと弾いた。
――学校抜け出すなんて、初めてかも…。
いや、抜け出すどころか、早退すらしたことがない気がする。まさか、初めての早退がこんなきっかけになるなんて。
チャプチャプと水面を弾きながら、俯きがちで校門から出る。
どうしよう。まだ2時間目を終えたばかりだ。帰宅するには早すぎる。しかも、こんな状態で家に帰ったら、母親がびっくりするに決まっている。
――今まで「学校楽しいよ」って嘘ついてきたのに…何て言い訳しよう。
心配性の母親を困らせたくなかったから、毎朝笑顔で学校に行っていた。だけど、それももう無理かもしれない。というか、頑張りたくない。
「は――――…」
明日を想像するだけで、大きな溜め息が口から零れる。
嫌だな。もう全部どうでもいいな。今すぐ部屋に引きこもりたいけど、このまま家に帰りたくないしな――。
鬱々とした気分のまま、あてもなく通学路を歩く。
宅配トラックが行き交う、入り組んだ住宅街。生まれた時から住んでいるこの見慣れた街に、一人きりになれるような、逃げ場なんてどこにも――と思考を巡らせ、ピタリと足が止まる。
「あっ…」
そう言えば、ある。
一か所だけ。
ジャリッ、と靴底が地面を擦る。そして、ぎゅっと鞄の持ち手を強く握ると、振り返り、来た道と反対方向へ歩き出した。
瞬きで雨を弾きながら、あの場所はどうやって行くんだっけと考える。
小学生の時に、親友…だったあの子と見つけて、秘密基地と名付けて遊んでいた廃工場の空き倉庫。隣町との境目にある古い建物なので、皆怖がって近づかない、二人だけを感じられる特別な空間だった。
――たしか、この道を曲がって…。
迷路のような細い路地を進んでいくと、家だらけだった街並みが、徐々に閑散としていく。
ああ、そうだそうだ。畦道を通ると近道になって――と、記憶を辿りながら歩いているうちに、やがて景色は田んぼだらけになり、思い出の秘密基地に辿り着いた。
――懐かしい…。
広い田んぼの端っこに、フェンスで囲まれた倉庫が二つ並んでいる。
記憶の中よりも小さく見える倉庫をじっと眺めると、フェンスが途切れた入り口に、昔はなかった「立ち入り禁止」と書かれたテープがあることに気づいた。昔は入り放題だったけど、今は管理されているのかもしれない。
通報されたらどうしよう…という不安が一瞬頭の中を過るが、ここまできたら、もうどうなっても良いか…と、足が自然とテープを跨ぐ。所々雑草が生えたアスファルトを歩き、駐車場を越え、外観を確かめるように倉庫を周る。そして、あの頃、よく二人で遊んでいたスペース――2つの倉庫を繋ぐように屋根が少し伸びた薄暗い軒下を見つけると、ピタリと足を止めた。
倉庫もフェンスも、当時より小さく見えるけど、ここのひやりとした空気は昔と変わらない。
「……」
雨に侵食されていない、乾いた地面にびしょびしょの足跡を付ける。微かにペンキの匂いが漂う壁に背を預けると、そのままゆっくりと腰を下ろした。
「うわ…」
ぐしょっ…と肌を濡らす不快感で、眉間に皺が寄る。顔を顰めながら体育座りをすると、漸く雨から逃れられた安堵で、「はぁ…」とか細い息が漏れた。
しかし、安堵も束の間、倉庫の間を通り抜ける隙間風が、濡れた体をブルッと震わせる。咄嗟に膝を抱きしめると、水浸しの靴の中で、親指がギュッと丸まった。
寒い。鳥肌が止まらない。もしかしたら、雨に打たれている方が温かく感じるかもしれない。
こんな所に来ないで、素直に家に帰った方が良かったかも――と、後悔が頭の中を占めていくけど、体はここから動こうとしない。
ヒソヒソ声も聞こえない、威圧的な視線を向けられない、親に嘘をつかなくてもいいこの場所に、心の奥底に居る自分がホッとしているのが分かる。
――でもな…下校時刻までずっとここに居たら、風邪ひきそうだし…それに、そんな時間に帰って、誰かに会ったら嫌だし…どうしよう。
長袖のシャツを少し捲り、ネイビーの文字盤が映える腕時計を見る。
時計の針はもうすぐ11時30分を指しそうだ。それなら、もう少しだけ。あと30分だけここに居よう。
プルプルと寒さに体を震わせながら、膝の上で組んだ腕を見つめる。
――お母さん…には、「体調不良になって帰ってる途中に、雨で滑って転んだ」って言えば、信じてくれるかな…。
いや、信じてくれなくても、それで押し通そう。
なんだかもう、毎日嘘を重ねすぎて、どこまで本当の事を喋っていて、どこまで嘘をついたのかが分からなくなってきた。いつから自分は、こんな子になってしまったんだろう。
「親友がいるって最高だ」と楽しそうに笑っていた自分を思い出し、恥ずかしさと悔しさで唇を噛む。
水にインクが一滴落ちて広がるように。胸の中にじわじわとどす黒い感情が広がっていこうとした、その瞬間、目の前がふっと暗くなった。
俯いた前髪の隙間から人の足のようなものが見え、ドキッと心臓が跳ね上がる。
――えっ…人!?全然気づかなかった…!やばい、やばいやばい…!
不法侵入に気づいた関係者か、後をつけてきた不審者か。どちらにしろ、まずい状況だ。
ドクッドクッと脈打つ鼓動が、降りしきる雨音よりもうるさい。
緊張で微動だにせずにいると、目の前の人物が目線を合わせるようにしゃがみこんだ。正面から感じる視線と距離の近さに恐怖が増し、自分の腕だけをじっと見つめる。だが、声をかけられるかも…と、身構えたものの、相手はずっと無言のままで。
「……?」
一体、何が目的なんだろう…と、不思議に思い、恐る恐る顔を上げる。
すると、そこに居たのは強面の警察官でも、怪しい目つきの不審者でもなく、少し緩やかなパーマがかかった金髪のボブを揺らす、学生服を着た少女だった。
――な、なに?この人…。
「クールな美少女」のお手本のような、キリッとした目元とスッと通った鼻筋を崩さぬまま、ビニール傘を差し、ガムを噛みながら無表情でこちらを見ている。もしかして、幽霊?なんて考えながら、瞬きもせずに見つめ返していると、彼女が着ている制服が見慣れたものであることに気づく。
――…あれっ…もしかして、同じ学校…の、子…?
真っ白なパーカーの中に着ている、ワイシャツの胸元に入っている刺繍と、濃紺のスカート、そして黒革のスクールバッグが自分と一緒だ。…というか、この子、あれだ。知ってる。確か、学校には気が向いた時にしか現れないと言われている、有名な金髪の子だ。絶対出席日数が足りてないはずなのに進級しているので、「実は親が教育委員会の関係者だ」とか、「校長の親戚の子なのでは」と噂されているのを聞いたことがある。
――「九九がちゃんと言えない」っていう噂もあるけど…本当なのかな?
そんな謎だらけの子が、何故こんな時間に、この場所にいるんだろう――という疑問が、頭の中でぐるぐると巡る一方で、瞳は彼女を捉えたまま離さない。まるで、彼女の瞳の中にある別世界に吸い込まれてしまいそう…なんて、非現実的なことを考えてしまうくらい、不思議な吸引力がある。
彼女は依然ガムを噛みながら、「何してんの」「何でそんな顔してるの」「ずっとここに居るつもりなの」と、まっすぐな瞳で問いかけてくる。その視線の強さに思わず俯きそうになるが、「そらしちゃダメだよ」と言われている気がして、口を噤んだままじっと見つめ返した。
少女漫画に出てきそうな綺麗な放射線を描く、彼女の虹彩。攻撃的でもあり、無でもあり、優しさもあり、軽快さもある、神秘的な瞳だ。
――何でだろう…。この目、見たことある気がする…。
でも、どこで見たんだっけ。
こんなに特徴的な瞳なら、絶対に覚えている筈なのに。
――校舎で、すれ違った…?いや…違う。遠くからしか見たことない。中学生の時に、部活で戦った他校の子…の中には、こんな謎に包まれた雰囲気の子は居なかった。じゃあ、小学生?小学生の、いつ…?
急ぎ足で過去を振り返りながら、楽しそうな虹彩を、瞬きをせずに見つめ続ける。
すると、靄がかかる頭の中に、パッと雨の日の光景が浮かんだ。
――雨…?しかも、この場所…?
今日のようなざあざあ降りの大雨の中、工場の敷地で、女の子と二人で踊るようにはしゃいでいる映像が断片的に流れだす。
一体、あの子は誰だろう。この場所は、親友と見つけた場所なのに、何で別な女の子が出てくるんだろう。記憶の糸を手繰り寄せ、女の子の顔を思い出そうと集中する。
あと少し。あと少しで、ぼやけた輪郭がはっきりとしそうだ――と、焦った指先がシャツを引っ掻く。と同時に、少女が持っていた傘の持ち手をグッと膝に押し付けてきた。
「!」
突然の衝撃に驚いて、咄嗟に持ち手を掴んでしまう。すると、彼女は気だるそうに立ち上がり、そのまま雨の下へと歩き出した。
「あっ、」
足の痛みを堪えながら立ち上がり、遠ざかる背を目で追いかける。
――…思い出した。たまたま一人でここに来た時に会って、一緒に遊んだ女の子…。あの子が、彼女なんだ…。
雨の中を臆することなく進む後ろ姿が、昔、手を広げて雨を受け止めていた女の子の姿とはっきりと重なる。そして、その姿に強烈に憧れ、同じように真似てみた――当時の感情がブワッと蘇り、自然と胸が高鳴っていく。
何で忘れていたのだろう。あんなに無邪気にはしゃいだのは、後にも先にもあの時だけだったのに。
――また、話してみたいな…。
見つめあった時間は、たったの8秒。
だけど、明日への不安も、人への恐怖を拭うのにも、十分な時間だった。
「うわっ!…わりぃ」
急いで保健室から出ようとした瞬間、ちょうど入室しようとしていた女子生徒とぶつかってしまい、男子生徒は申し訳なさそうに手を上げた。
彼は相手の返答を待たず、また、自分の肩が濡れている事にも気づかず、足早に廊下を歩いていく。
「あらっ。今来たの?ふ……って、ちょっとぉ!なぁんで、ずぶ濡れなのよぉ!」
室内と廊下の狭間に立ち、黙って少年の後ろ姿を見ている生徒――いや、「保健室の住人」と呼んだ方が正しい少女の水浸し姿に驚き、先生が素っ頓狂な声を上げる。
「ちょっとちょっとちょっと…!傘を差さなかったの!?外、大雨でしょ!?」
棚から大きなバスタオルを引っ張り出して急いで手渡すと、濡れた髪が張り付く首がほんの少しだけ前に出る。お風呂上がりのように頭にバスタオルを被った少女は、返事もせずに、雨を吸いすぎて重たくなったパーカーを脱ぎ、目の前の革張りのソファの上にべしょっと置く。続けてスクールバッグをポイッと投げると、「あぁっ!」と言う声と共に、先生の眉間の皺が深くなった。
「まったくも~!」
プンプン!と憤慨する先生は、白衣をはためかせ、パーカーを手洗い場に放り込む。水で洗って、絞って置いといて、次は雑巾を取って…と、慌ただしく動く、友達のような、時には姉のような、またある時には母のような人の背を、頭をガシガシとタオルで拭きながら見つめる。
「…さっきの人、どうしたの?」
「えぇっ?あぁ…友達が怪我したって聞いたから、保健室に居るんじゃないかと思って、見に来たのよ」
「へー」
「心配してわざわざここに来るなんて、優しい子よね~。そう思わない?」
雑巾で濡れたバッグとソファを拭きながら、小皺が目立つ目尻を嬉しそうに細める。
怪我人や病人、暇つぶしで保健室に来る人は多いけど、わざわざお見舞いに来る人はあまり居ない。自分にとっては、とてもほっこりする出来事だったのだが、「別に」と素っ気ない反応が返ってくる。
「あのねぇ、少しは人に興味を……って、あら?何か良いことでもあったの?」
勝手に棚から貸し出し用のジャージを取り出す少女は、どことなく機嫌が良さそうだ。保健室の住人仲間と一緒に居る時でさえ、無表情の事が多いのに。珍しいわね…と凝視していると、彼女はチラリとこちらを一瞥して、フッと口角を上げた。
「うん。幼馴染…?に会った」
「へぇ――っ!あなたにそんな人いたの!」
「声でかっ。うざ」
何故か自分の事のように喜んでいる、自称「みんなのお姉さん」に顔を顰めて、簡易ベッドの上にジャージを投げる。「続きは?続きは?」と問いかけてくる視線を、仕切りのカーテンを引いて遮ると、できあがった小さな個室で細く長い息を吐いた。
その落ち着いた表情とは裏腹に、心臓はトクトクトク…と、いつもよりも早い鼓動を刻んでいる。
――…またあの場所で会えたら良いなって、思ってたけど…本当に会えると思わなかった…。
初めて遊んだ日から、ずっと気になっていた。
あの子、今何してるんだろう…って。
だけど、あの後何度か廃工場を訪れたけど、一度も会えなかったし、名前も覚えていないから探しようもなかったので、もう二度と会えないんだろうなと思った。
だから、高校の入学式の時。
桜の花びらが舞い散る中、綺麗に結われたおさげと純粋さに満ちた瞳で笑っている姿を見つけて、驚いた。太陽のような笑顔に当時の面影が残っていたので、すぐに彼女があの女の子だと気が付いた。だけど、すれ違っても、廊下から眺めてみても、相手は全く自分に気づかなかった。
――まぁ、一回しか遊んでないし、覚えてるわけないか…。
残念ではあるけれど、自分には、自分から声をかけるようなコミュ力は持ち合わせていない。だから、仕方ない――そう思って、仲良くなるのを諦めた。
その時は本当に、「仕方ない」と思ったのだ。
でも、3年生になったばかりのある日の放課後、偶然寄ったカフェで彼女は男の子と向かい合わせで座っていた。少し短くした前髪を、彼が「可愛い」と褒めていて、あの子が嬉しそうに微笑む――その幸せそうな姿を見た瞬間、胸の奥がモヤッとざわついた。
おかしいのは分かっている。
一緒に過ごした時間は、ほんの数時間なのに。こんなに彼女の事が気になってしまう自分は、異常だ。
これは執着なのか、嫉妬なのか、羨望なのかよく分からない。ただ、二人の姿を見て、強烈なもどかしさを感じた。
その日以降、学校に行くのが面倒くさくなり、「保健室登校の常連」から「住人」になってしまった。
晴れている日は日向ぼっこをしながら学校に向かい、雨の日は彼女と出会った場所に一度足を運んでから、学校に行く。そんなことをしている間に、あの子は親友と喧嘩をし、皆から無視されるようになってしまった。それに気づいたのは、つい最近の事。
目を閉じれば、捨てられた子犬のような表情で膝を抱えていた彼女の姿が浮かんでくる。
モデルのように小さくて愛らしい顔は、思いっきり殴られたのかと思うほど傷だらけで痛々しかった。恐らく、あの女が原因なのだろうと思うと、腹が立って仕方ない。
――…明日、声掛けよ。
目が合った瞬間の彼女の瞳は、酷く絶望していた。
自分は口下手だし、適当な慰めは悪影響にしかならない事を知っているから、声をかけたりはしなかったけど。それでも、じっと見つめているうちに、彼女の瞳に微かに光が灯っていくのを感じた。
きっと、彼女は明日も学校に来る。
たとえ来なくても、毎日校門の前で待ち続ける。
昔、大雨の中を二人で走り回った――あの、二度と忘れられない自由で尊い時間を、もう一度二人で味わう為に。彼女とでしか得られなかったあの世界を、くだらない誰かのせいで逃さない為に。ほんの少しだけ行動してみようと思った。
「っくしゅっ」
ブルッと体が震えあがり、勝手にくしゃみが出る。
流石にもう着替えよう…と、未だ湿っているシャツのボタンに指をかけながら、久々に正面から見た彼女の顔を思い出す。
最後に一瞬見せた、ハッとした表情。
あの綺麗な瞳が揺れたのは、自分を思い出してくれたからだったら良いな、と思った。