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第一話:転生

 人は割と呆気なく死ぬのだと、まさか自分自身で実感することになるとは思いもしなかった。

 

 十六歳の冬、霜月。

 横断歩道を渡っていた最中、スリップしたトラックに接触し、そのまま縁石に頭部を強打。

 気を失い目覚めることなく逝去。


 それが僕、大窪 枢(おおくぼ かなめ)の最期となった。


 人間の五感のうち、最後まで残るのは聴覚だとどこかで聞いた。


 それが本当だったのかどうか、僕には確かめようがない。

 けれど、あの瞬間――意識が途切れる直前、たしかに“音”だけはあった気がする。


 遠ざかる車のブレーキ音。誰かの叫び。風が木々を揺らす音。

 そして、自分の脈が静かに、確かに、耳の奥で打ち鳴らしていた。

 ドクン、ドクン、と。

 それが一つ、また一つと途切れて、やがて静寂へと沈んでいった。


 何もない闇の中で、僕はただ、浮かんでいた。

 温度も、形も、重さもない空間。

 それでも、意識だけはまだそこに在った。


 ふわふわとした浮遊感。

 夢と現の狭間にいるような、意識だけはあるあの感覚。

 金縛りにも似たあの感覚。


 それは静謐。

 それは無。


 死んだ後は神様にでも頼んで遥か先の未来を見せてもらいたい、小さな頃そんな事を思った。

 しかしいざ死んでみたらどうだ、神どころか何も無い。

 僕は今、何なんだろうか。

 魂?幽霊?

 いやしかし、そこまで未練は無いはずだ。

 両親との関係は正直希薄だったし、友人も居るには居るが親友と呼べるほど親しい友は居なかった。

 もちろん恋人も居ない。


 どれほどの時間が過ぎたのだろうか、体感では数十分。

 もしかしたら数時間経っているのかもしれないし、数分かもしれない。

 何も無い、文字通り"無"のここでは時間感覚があまりに薄い。


 もしも、永遠にこのままだとしたら?

 そんな考えが思考に混じる。

 すると、つい先程まで驚くほど澄み切っていた思考に嫌な不安が立ち込める。


 澱のように、濁った黒がじわじわと染み出してきて、思考の輪郭を鈍らせていく。


 ……やばい、これはまずい。


 言葉にならない焦燥が内側から這い出してくる。

 動けない。逃げられない。叫べない。


 このまま、自分が“自分”であるという感覚すら溶けていってしまいそうな、そんな錯覚。

 正確には錯覚ではないのかもしれない――意識というものが、境目を失い、拡がって、やがて散っていくような。


 そのときだった。


 ピン、と音が鳴った。

 硬く張った弦を指で弾いた様な、そんな高い音だ。


 音の出処に無いはずの耳を傾ける。

 すると微かに聞こえてくる。

 

 カラカラ……カラカラ……

 キコ……キコ……


 何か軽いものが転がるような音と密着した木材が擦れるような音。


 どこかで聞いたことがある、そんな音。

 どこだ、どこで聞いたんだ。

 記憶を漁る。

 カバンの奥の方に転がってしまった小物を探すため、中身を全てひっくり返すように。

 覚えている限りの記憶を探る。


 そうして――辿り着いた。


 あの音は、廻り舞台だ。

 歌舞伎座の裏手、暗転の後に次の場面を用意するため、巨大な円盤がゆっくりと回転する音。

 そのとき、舞台裏では人が動き、糸が張られ、道具が滑らかに配置される。


 僕は、何度も観てきた。

 あの音を、空気を、香りを、緊張感を。

 舞台という“嘘”に、息を呑み、心を奪われてきた。


 そして、ようやく気づく。


 これは――次の“場”への転換だ。


 世界が変わる。

 僕が、変わる。

 何かが、幕を開ける。


 闇の帳がゆっくりと引かれ、

 銀糸が、上から下へ、斜めに、交差し、編み込まれていく。

 音は続く。

 規則的な、まるで舞の拍子のような調べを持って。


 やがて。


 音が、言葉になる。


 『問う――何を編み、何を斬り、何を紡ぐか』


 声ではない。

 意味が直接、脳髄に落ちてくる。


 『その名を継ぎたる者、大窪 枢――されど、死した名を捨て、今一度問う。汝の名は?』


 問われた。

 まるで、“役名”を選べと言われているかのように。


 僕は――


 「……カナメ。僕の名は、カナメだ」


 その瞬間、全てが震えた。

 音が、糸が、世界が。

 目の前に広がる光の繭が、まばゆく輝いた。


 そして、僕は生まれなおす。

 糸と音の加護を持つ者として――新たなる舞台へ。


 今思えば、つまらない人生だった。

 趣味は謳歌できたし、そこそこに友人も居た。

 だが、死に切れる程満足できていたか?

 否。

 断じて、否。


 まだ足りていなかった。

 まだ演じていなかった。

 まだ僕は、僕という役を演じ切っていなかった。


 だからこそ、応えたのだ。

 あの問いに。

 “何を編み、何を斬り、何を紡ぐか”という、名もなき何かの呼びかけに。


 僕の人生は、脇役のまま終わるには惜しい。

 人間は全て、己の人生の主役でありながら、他の人生の脇役である。

 しかし僕は、僕自身の人生ですら脇役だった。

 ならば今度は――幕が上がる前に、構えを正し、衣装を整え、照明が差す瞬間を、この目で見届けよう。


 それが僕の“開演”。

 幕開けの刻だ。


 


 ──そして、世界は“光”に包まれた。



 §



 光の中で、再び僕は意識を取り戻した。


 ――眩しい。


 瞼の裏が焼けるようだった。

 ぼんやりとした白、灰、橙のにじんだ明るさ。

 聞こえるのは、パチ……パチ……と何かが燃える音。

 鼻の奥に染みる、乾いた薪の匂い。


 田舎に住む祖父母の家に行った時、よく香っていたあの匂いだ。


 囲炉裏の残り火。煤けた畳。土壁。

 胸の奥にこびりついていた幼い記憶が、ふと引き出されたようだった。


 目を開けるのが怖い。

 けれど、開けなければ始まらない。


 ゆっくりと、まぶたを上げる。


 木の梁。

 藁葺きの天井。

 干されたトウモロコシが吊るされている。

 壁際に積まれた薪。

 窓は小さく、紙が貼られているだけの簡素なもの。

 差し込む光はやわらかく、世界全体が古い絵本の中のようだった。


「目ぇ覚めたか」


 嗄れた声が静寂を払う。


 声の方に視線を動かせば草臥れた襤褸を纏った老人の顔が目に入った。


「ここは……?」


「目隠し森の外れにある、落ち人の溜まり里だ」


 聞き慣れない単語が思考を掻き混ぜてくる。

 インフルで丸々一週間休んだ後の数学の授業ってこんな感じだったなと、どうでもいい感想が浮かんできた。


 ぼんやりとした頭で、言葉を反芻する。


 目隠し森。

 落ち人の溜まり里。


 森の名前はいわゆる固有名詞だろう、今は捨ておく。

 "落ち人"……落ち武者のようなニュアンスを感じる単語だ、それに加えて"溜まり里"か。


 困惑する僕に気付いたのか、老人は言葉を落とす。


「要はお尋ね者共の溜まり場ってこった。それよりお前さん、気ぃ失う前のこと覚えてるか」


「……いえ。あの、僕はどうしてここに……?」


「森ん中でぶっ倒れてたんだ。鳥撃ちに出た先に、ガキが倒れてたもんだから肝が冷えたぞ」


 老人は、わざとらしく大げさな仕草で胸を撫で下ろしてみせた。


 そんなやり取りにも、どこか生々しい体温がある。

 あぁ、本当に生きているんだな、と実感がじわじわと湧いてくる。


「そいつぁさておき……お前、名前は?」


 今度は少し強めの声で促される。

 僕は一瞬だけ逡巡し、すぐに答えた。


「……カナメ。僕の名前はカナメです」


 口に出して、はっきりと感じる。

 この名前は、僕自身が選んだものだ。

 前の人生の残滓ではなく、これからを生きるための、新しい“真名”だ。


「ほう、大層な名だな」


 くつくつと笑いながら老人は言う。


「"カナメ"ってのはここらの言葉で"縁を手繰る者"って意味だ」


 "縁を手繰る者"。


 老人の言葉を聞きながら、僕はそっと右手を見た。

 そこには、まだ微かに、銀糸のような光が滲んでいる。


(……やっぱり、偶然じゃない)


 胸の奥に響いたあの問い。

 "何を編み、何を斬り、何を紡ぐか"。

 あれは、ただの夢や幻じゃない。


 新たな世界、新たな舞台――そして、僕はそこに与えられた役者だ。

 名前さえも、自分で選び取った。


「……ありがとうございます」


 自然に、そんな言葉が口をついた。


 礼など必要ない、とでも言いたげに、老人はぶっきらぼうに鼻を鳴らす。


「俺に礼言ったって何にもなんねぇぞ。ここはただ生きるってだけでも楽にいけねぇ場所だ。さっさと出ていって家に帰んな、嬢ちゃん」


 囲炉裏の火が、ぱちり、とまた音を立てた。

 それが妙に、骨に染みた。


 ――嬢ちゃん。


 言われて、今さらながら気づいた。


 自分の声が高かったこと。

 手が小さかったこと。

 体が軽かったこと。


 恐る恐る、囲炉裏の脇に置かれた銅鏡を覗き込む。


 そこに映ったのは、

 白い肌に、薄い金色の髪。

 瞳の色は、琥珀に似た淡い茶。


 明らかに――かつての僕とは、違う顔だった。


 少女。

 しかも、年齢はせいぜい六歳か七歳くらいだろう。


「……マジか」


 小さく呟いた声すら、まだ子ども特有の柔らかさを帯びていた。


 驚きに固まる僕を他所に老人は話を続ける。


「んで、お前……どこの村のもんだ?ここいらにこの里以外の人里は無ぇ筈だ」


 カナメは老人の言葉にどう返すか悩む。

 前世の話などしても信じては貰えまい、ならば。


「……それが、ここで目を覚ます前の事を覚えてないんです」


 嘘を吐いた。

 わざわざ己を助けてくれた老人を騙すような真似は心苦しいものがあるが、真実を話しても警戒されて終わりだろうから。


 言葉を選んだ上で、僕は静かに繰り返した。


「……何も覚えていないんです」


 老人は、しばらくのあいだ僕をじっと見つめた。

 その眼差しは、年老いた獣のように鋭く、濁りがなかった。


 嘘を見抜かれたか――。

 一瞬、そんな緊張が走る。


 けれど、老人はふっと息を吐くと、囲炉裏の火を火箸でつつきながら言った。


「……ま、そういうことにしといてやらぁ」


 追及はしない。

 ただ、深く干渉もしない。


 ここの連中はきっと、そうやって互いに"踏み込まない"ことで生き延びてきたのだろう。


 僕もまた、同じだ。

 ならばこの嘘も、必要なものだった。


「さて……お前さん、これからどうする?」


 ふいに、老人が問いを投げた。


 これから、どうするか。

 そんなのは、決まっている。


 


 ──生きる。


 


「ここで、生きていきたいです」


 即答だった。

 迷いも、飾りもない。


 老人は目を細め、火の粉が舞う囲炉裏をじっと見つめると、ゆっくりと頷いた。


「なら、覚悟するこった。ここは弱ぇ奴から死んでいく。誰も手ぇ貸しゃしねぇ。生きてぇなら、テメェの手で掴み取れ」


 わかってる。

 わかっているとも。


 (……これが、僕の開演だ)


 心の中で、静かに呟いた。


 銀糸の文様が、右手にうっすらとまた滲んだ気がした。


 


 ──編め。


 ──斬れ。


 ──紡げ。


 


 新たなる世界で、新たなる己を生きるために。

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