第9章 陽光の村の別れ
陽光の村――それは、旅の途中で晴と祐輝が一度だけ訪れた、名前すら記されていない小さな集落だった。山間にひっそりと広がるその村は、いつも穏やかな陽射しに包まれており、季節の移ろいさえゆるやかに感じられた。だが、今その光は異様にまぶしく、どこか不自然なほど温かく、逆に肌にざらりとまとわりついてくる。
「祐輝……ここ、なんだかおかしい」
晴がそう言ったとき、村の子どもたちが彼女のほうを見て小さく手を振った。けれどその目にはどこか虚ろな光が宿っており、どの顔にも“個人”としての印象が残らなかった。まるで誰かが造形した記憶の中の住人のようだった。
「これは、村じゃない。……“記憶の温室”だ」
祐輝は口元を引き結びながら周囲を見回した。彼が前回訪れたときは、確かに温かい人の気配があった。畑を耕す老人、柿を手に走る子ども、軒先で笑う女の人。だが、今そこにあるのは“光に縫いとめられた残像”ばかりだった。
「君の記憶が、“別れた場所”を拒んでるんだと思う」
「どうして……?」
「ここで何かが起きたんだ。君にとっても、たぶん俺にとっても。だから、この村は“止まってる”」
村の中心にある石畳の広場には、円形に並べられたベンチがあり、その中央に一つだけ木製の箱が置かれていた。まるで誰かが持ち寄った“贈り物”のようなそれは、少しだけ埃をかぶっていたが、鍵はかかっていなかった。
晴がゆっくりと箱の蓋を開けた。中には、何枚もの紙切れが折り畳まれて入っていた。それらは全て、“祐輝”という名で結ばれていた。
「……これ、私が書いたの?」
「いや、たぶん“君ではない君”だ。……この村に残った誰かが、俺に宛てて書いた手紙」
晴は一枚を開いた。そこには、決して巧みではないが、真っ直ぐな筆致でこう綴られていた。
――“ありがとう。あなたが覚えていてくれたから、私は消えずにいられた”
その文を読み終えた瞬間、村の光景が揺れた。光の層がめくれ、まるで幕が落ちるように、村の“外側”が露わになった。
揺れが止むと同時に、村の中心にかつての“彼女”が立っていた。晴によく似た、けれど微妙に違う少女。髪の長さも、表情も、声の質も違うのに、祐輝の中でだけ確信があった。――この子は、かつて“別れた”誰かだ。
「来てくれて、ありがとう」
少女は静かに微笑んだ。その笑みは、どこか“役目を終えた者”のような安らぎに満ちていた。
「あなたは……この村に残って、祐輝を忘れないって決めた?」
晴が訊くと、少女は小さく頷いた。
「うん。誰かが覚えていなきゃって思ったの。たとえ、それが私という“記録”であっても」
「じゃあ、私がここに来た意味は……?」
「バトンを受け取るため。私があなたの中に戻ることで、私はようやく、忘れられることができる」
その言葉に、晴の目がわずかに揺れた。
「忘れて、いいの……?」
「うん。だって、“誰かに覚えられる”って、本当はすごく重たいことでしょ。もう十分、重たくなったから」
少女は静かに歩み寄り、晴の手を取った。ふたつの手が触れ合った瞬間、光の粒が立ち上がり、少女の姿は徐々に淡くなっていった。
「ありがとう、晴。私のこと、ずっと遠くで見ていてくれて」
「……あなたこそ、ありがとう。私の代わりに、ここにいてくれて」
最後に交わされたその言葉のあと、少女は完全に光の中に溶けた。村の景色も、それに合わせるように淡くなり、やがて輪郭すら消えていった。
残されたのは、広場の中央にひとつの鍵だけだった。それはまるで、“この別れを受け入れた者にだけ”託される小さな証のようだった。
祐輝がそれを拾い上げると、晴は振り返らずに歩き出した。
「……もう大丈夫。次の場所へ行こう」
祐輝は頷き、その背中に歩幅を合わせた。陽光の村は、まるで最初から存在しなかったかのように、彼らの背後から静かに消えていった。