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第7章 白銀の森の乙女

 霧が深く立ち込める白銀の森は、他のどこよりも時間の感覚が曖昧だった。木々はすべて白く染まり、枝から枝へと氷の葉がしがみつくように垂れていた。晴と祐輝は、互いに声を掛け合うこともなく、ただ静かに雪を踏みしめていた。

 この森は、かつて“誰かが眠った場所”だったという伝承がある。その“誰か”の名はどこにも残されていない。ただ、この森を抜けるときには、決して振り返ってはいけないという戒めだけが、今も囁きのように語り継がれていた。

 「ここには、もう一人の“私”がいる気がする」

 晴が口を開いたとき、森の奥から鈴のような音が響いた。それは風の通り道からではなく、木々のどこかからこぼれたような、儚い音だった。

 「この音、前にも聞いた気がする。いつか、夢の中で」

 音を追うように、二人は林の奥へ進んでいく。やがて、雪に覆われた小さな広場のような空間に出た。そこには一人の少女がいた。

 白いドレスに身を包み、足元に膝をついて地面に何かを埋めている。その姿はまるで祈っているようだった。

 「……晴?」

 祐輝が言葉を漏らす。目の前の少女は、晴と瓜二つだった。髪の色も、体の線も、指の形までもが。

 だが、少女は顔を上げない。ただ黙って、両手で雪を掘り続けている。

 「ちがう。あれは……“昔の私”」

 晴がそう言ったとき、ドレスの少女が動きを止めた。指先が何かを掴んだように固まり、ゆっくりとその場に座り込む。そして、かすれた声で歌い出す。

 ――ひとつ、ふたつ、みっつ、やっつ――

 どこかで聞いた、あの歌だった。機械仕掛けの人形が歌っていた旋律と同じ。だが今、少女の歌声は明確に、“感情”を帯びていた。

 「この歌は、記憶の封印だったんだ。“思い出したくない過去”を、自分の中に閉じ込めるために」

 「でも、思い出すために歌うこともできる」

 祐輝がそう言った瞬間、ドレスの少女が顔を上げた。その瞳は深く、まっすぐで、そして、涙に濡れていた。


 「あなたは……私が忘れようとした、私」

 少女の唇がそう動いた。けれど、その声は風に溶けて祐輝の耳には届かなかった。晴は一歩、少女の方へ近づいた。二人の距離が縮むごとに、雪は静かに溶け、白銀の森に色が差していく。

 「もういいの。あなたが閉じ込めていたもの、今なら受け止められる」

 晴がそっと手を伸ばすと、ドレスの少女もまた、ゆっくりとその手を取った。ふたつの手が重なった瞬間、森の空気が変わった。

 目の前の風景が反転する。白銀の木々が旋回し、光の粒が浮かび上がる。祐輝の目には、過去の断片が走馬灯のように映し出された。

 古びた校舎。雨の午後。傘を持たない少女。水たまりの跳ねる音。誰かの名前を呼ぶ声。そして、その声が届かなかった現実。

 「私は、あのときあなたの声に気づけなかった。だから、私はもう一度、“声を持つ私”を目指すの」

 少女の身体が光の粒に還る。晴の手の中には、銀の糸のような細い光が残されていた。それは記憶の糸、忘れられていた心のかけらだった。

 「これが、“わたしの選んだ記憶”」

 晴がそう呟いたとき、森の奥から風が吹いた。鈴の音はもう聞こえなかった。白銀の森は、いつのまにか“ただの冬の森”へと姿を変えていた。

 「君の中に、いくつもの“君”がいる。どれも全部、本物なんだな」

 「だから、もう逃げない。忘れることも、怖くない。思い出すことも、苦しくない」

 ふたりは並んで、森を抜ける小道を歩き始めた。もはや振り返ることもなく。ただまっすぐに、これから進むべき時間へと。


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