第6章 覚醒と喪失の谷
谷間の静けさには、どこか異様な緊張感があった。左右を切り立った断崖に囲まれたその空間は、昼でも薄暗く、音が反響して遠近の感覚を狂わせる。空を見上げても、わずかな青の切れ間しか見えず、世界が閉じられているようだった。
「ここが、“記憶の底”……?」
祐輝は谷底に広がる平地に足を踏み入れた。落ち葉も苔もなく、地面は不自然なほど滑らかだった。まるで誰かが磨いたように。
晴は一歩後ろを歩きながら、指先で空気を探るように動かしていた。微細な粒子が渦を巻き、彼女の輪郭を撫でていく。ここにあるのは、ただの風ではなかった。
「ここは、誰かが“忘れること”を選んだ場所。大事なものを置いていった場所」
彼女の声は、谷の形に押し潰されたように低く響いた。
足元には奇妙な痕跡があった。丸い窪み、直線状に並ぶ黒い焦げ跡、何かが引きずられたような線。それらはすべて、“何かがここにあった証拠”でありながら、今はもう何も残っていなかった。
「ねえ、祐輝。君は、何を忘れたいと思ったことがある?」
「……忘れたいと思ったのに、忘れられなかったことならある。“間違いだったかもしれない選択”を、ずっと引きずってる」
「それって、私のこと?」
彼は即答しなかった。ただゆっくりと視線を地面に落とし、ある一点を指差した。
「そこ。誰かが、何かを埋めた場所だと思う」
晴がしゃがみ込み、地面に手を当てた。すると、目に見えない境界が破られたように、空気が震え、浅く埋まっていた金属製の容器が姿を現した。四角く、手のひらに収まるほどのサイズ。錆びついてはいたが、鍵がかかっていた。
「これ、“記憶の封筒”……?」
「たぶん。何かを記録したもの。でも、誰かの意志で“開かないように”されてた」
晴はそっと鍵に触れた。金属片が反応し、少しだけ蓋が浮いた。そこにあったのは、一枚のフィルム状の記録媒体だった。光を当てると、そこには誰かの後ろ姿がぼやけて写っていた。
「これ、私?」
「……いや、違う。けど、似てる。君の“前にいた誰か”だ」
フィルムに写っていたのは、風に髪をなびかせて立ち尽くす少女だった。輪郭は曖昧で、背景も焦点が合っていない。けれどその佇まいには、どこか晴に似た“寂しさ”があった。
「この人が……私の前に、ここにいた?」
「かもしれない。君と同じように、何かを選び、何かを残していった存在だ」
フィルムの裏側には短い文字列が焼き付けられていた。
――“私はここにいた。でもそれは誰の記憶にも残らない”
その一文を読んだ瞬間、晴はわずかに息を呑んだ。目の奥に、見たことのない誰かの影が浮かびかけて、すぐに霧散する。
「ここは、誰かの“存在そのもの”が消えていく場所なんだ。記録にも残らず、記憶からも失われる。けど、だからこそ、ここで思い出すことに意味がある」
祐輝の言葉に、晴はゆっくりと頷いた。
「じゃあ、私もここに何かを置いていくべき?」
「そうじゃない。君は、“持ち帰る”んだ。忘れられた記憶を、もう一度自分の中に」
晴はフィルムを両手で包み込んだ。触れているだけで、胸の奥に重みが移ってくるようだった。見知らぬ誰かの声が、感情が、確かにそこには宿っていた。
「……この人がいたって、覚えていようと思う。誰にも知られなくても、私が覚えてるって、それだけでも“記録”だよね」
「そうだ。記憶は、書かれていなくても残る。“誰かがいた”という事実は、君の中で生き続ける」
谷の底に微かな風が通り抜ける。さっきまでとは違う、柔らかい空気だった。
二人は静かにその場を離れた。振り返ると、あのフィルムを掘り出した痕跡は、すでに消えかけていた。
まるで、忘れられることを受け入れていたように。