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第2章 罪の記録の部屋

 記録保管庫の扉は分厚く、内部の湿度と温度を一定に保つための処置が施されていた。市庁舎の地下二階、その一角にひっそりと存在するこの部屋を訪れる者はほとんどいない。けれど祐輝にとって、ここは定期的に立ち寄るべき“交差点”だった。

 室内には窓がなく、わずかな蛍光灯の明かりが棚の隙間に影を落としていた。封印済みの紙資料の他に、過去のデータを記録したメモリドライブが金属製のケースに収められて並ぶ。いずれも、旧市街の歴史や行政処理の変遷を記録したものだ。

 だが祐輝が求めているのは、表に出てこない記録だった。誰かが書き残した手紙。提出されなかった報告書。破棄されたはずの診断書。正式な記録の間に挟まる、“揮発性の記憶”だ。

 彼は棚の中から一冊の黒いファイルを取り出す。背表紙には日付も名称も書かれていない。けれど中身を見れば、明らかにこの街の何かを――いや、“誰か”を記録したものであると分かる。

 「また来たんだな」

 静寂を破る声が背後から聞こえた。振り返ると、そこにいたのは中年の男性だった。肩幅が広く、目元には常に微笑を浮かべているような影がある。市庁舎の保管課に長く勤める男――挙之である。

 「久しぶりですね」

 祐輝は椅子から立ち上がり、軽く頭を下げた。

 「まあな。ここの鍵を持ってるのは俺とお前くらいだ。たまには顔くらい見せに来い」

 言葉は柔らかいが、どこか探るような視線が含まれている。祐輝はファイルを閉じ、デスクの上に置いた。

 「この中に、晴のことが書かれてる資料があるかもしれないと思って。断片的に、ですけど」

 「晴、ってのは……例の、あの子か」

 挙之はわずかに眉をひそめた。彼が知っている“あの子”の存在は、公的にはどこにも記録されていない。けれど何かが存在したという“気配”だけは、確かに残っていた。

 「こんな記録、正規には残らない。けど――それでも誰かが、何かを見た。そういう痕跡だと思ってます」

 「なるほどな」

 挙之はデスクの縁に腰を下ろし、懐から金属製のライターを取り出す。中身は空だったのか、火はつかない。彼は苦笑を漏らし、それをまたポケットに戻した。

 「ここに来る奴の多くは、過去を納得するために記録を探す。でもお前は違うな。“記録されなかったもの”を探してる」

 「それが、僕の知っている“真実”だからです」

 祐輝は静かに答えた。その言葉に挙之は何も言わなかった。ただ、彼の視線は一冊のファイルにとどまり続けていた。


 ファイルを開くと、紙の質感がわずかに湿っていた。保存処理が甘かったのか、それとも――いや、そんなことは今はどうでもよかった。そこには、短い記録が一枚だけ、無造作に挟まれていた。

 〈報告:市内旧西棟 第3区画 少女の幻影について〉

 〈確認者:名前不記載 日付不記載〉

 〈内容:午前四時過ぎ、旧西棟裏庭にて白い服の少女を目撃。姿は明確で、目が合ったが声は聞こえず。数秒ののちに消失。周囲に足跡・体温痕なし〉

 「……やっぱり、あるんだ」

 祐輝は低く呟いた。この目撃記録が誰によるものかは分からない。だが、晴の存在を示す“誰かの経験”が、こうして紙に残っていた。それだけで、充分だった。

 「お前さ、これ全部本気で追ってるのか?」

 挙之の声には、苛立ちでも心配でもない、ただ純粋な“理解の及ばないものへの問い”があった。

 「本気で、ですよ。僕は晴に会った。今も、会ってる。……じゃないと、今日ここには来てません」

 「でも、誰にも見えないものだろ? それって……」

 「それでも、いたんです。そこに。言葉を交わして、笑って、雨の日に傘を貸した」

 ファイルを閉じながら、祐輝は自分の指がかすかに震えていることに気づいた。それが怒りなのか、不安なのか、自分でも判別できなかった。

 「俺には見えない」

 「……ええ。見えなくてもいいんです。信じてくれとは言いません。ただ――」

 祐輝は言いかけて、口を閉じた。ここで語るには、その想いはあまりに私的すぎた。

 「お前の自由だよ。だがな、記録に残らないってことは、誰かがそれを“意図的に”消してる可能性もある。それだけは、忘れるなよ」

 挙之の目が一瞬だけ鋭さを帯びた。何かを警告しているようにも見えたが、それが何を意味するかまでは読み取れなかった。

 「助言、感謝します。でも、それでも探します。記録にならなかった“物語”を」

 ファイルを丁寧に棚に戻しながら、祐輝はゆっくりと背を向けた。挙之の足音はもう聞こえなかった。部屋には、再び静寂が戻っていた。

 帰り際、保管庫の入り口近くに貼られた掲示に、ふと目がとまった。

 〈保管庫内の記録は、認可なしに閲覧・複写することを禁ずる〉

 その赤文字を横目に見ながら、祐輝は心の中で呟いた。

 ――“じゃあ、見るだけなら、記録じゃない。記憶だ”

 そう考えた瞬間、地下の薄暗い廊下を抜ける彼の背中が、かすかに軽くなった気がした。


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