第一話 【逆さま】前編
だんだんと近づいてくるチャイムの音で目が覚めた。
目の前でふわふわと揺れる薄緑色を眺める。留めていないカーテンが、開け放した窓から入る風で揺れているのだ。
右の頬が痒い気がして拭ってみると、指の先についた涙の粒が夏の日差しをきらりと反射した。
寝起きに目が潤んでいるのはよくあることだ。
「矢ケ崎君」
声の方に目を向けると、こちらをそっとのぞき込む初老の男性の顔があった。算数の岡村先生だ。
「君が寝ちゃうなんて珍しいね。昨日、遅かったのかな」
「はい、すいません……」
「いや、いいんだよ。気を付けて帰りなさいね」
先生は目を細めて言うと、黒板用の三角定規を二つかかえてとことこと教室を出て行った。春樹はこの先生が好きだ。
校庭でドッジボールをしているらしい他クラスの声が、アブラゼミの声に交じってかすかに聞こえていた。
夢を見ていたのだろうか。
思い出せない。……しかし、懐かしさに似た感情の余韻が微かにあった。先生には申し訳ないが、心地良い寝覚めだ。
五時間目が終わった教室内は、帰りの支度をする生徒のばたばたという活気であふれている。
春樹はと言えば、今日はめずらしく、学校に残って良いと言われているのだった。普段は授業が終わればすぐ帰ることになっているので、こんな日は滅多に無いのだ。
貴重な時間をどう使うか悩んだ春樹は、図書室で本を読んで過ごすことに決めた。
明日の昼休みに借りようと思っていた本をのんびりと読み、学校を出たのは五時半を過ぎてからだった。
アブラゼミの声がいつのまにかヒグラシに替わっていた。日差しは多少陰っているものの、だるく重たい湿気がじっとりと首の周りにまとわりつく。
春樹の通う学校は、駅前の商店街から少し離れた田園地帯で田畑に囲まれるように建っている。学校から春樹の家までは住宅もまばらな国道で、その途中に「ラッキードリンクショップ」という看板の立つ自動販売機コーナーがあった。
コーナーというにふさわしく、乗用車や軽トラが寄せられるような駐車スペースに自販機が5台ほど並び、その横にひっそりとアルミ製のベンチが置いてあるだけの施設だ。運送業の運転手や車移動の職人が休憩ついでに缶コーヒーや清涼飲料で一息入れる、ちょっとした休憩所のような場所である。地元民や利用者からは「ラキドリ」と呼ばれ、夏場は特に重宝されているのだった。
そんなラキドリの駐車場に、今日は見慣れない車が停まっていた。
真っ黒なセダンだ。黄色く変色したヘッドライトや小さめの四角いグリルが、古い車であることを物語っている。
その奥では、こちらも真っ黒なスーツを着た男が自販機で何か買っているようだった。
背格好からすると二十代半ばくらいだろうか。髪は社会人にしては長めで、外ハネと内巻きが入り乱れたような癖毛だった。この暑さだというのに、ジャケットまでしっかりと着こんでいるのが不気味だ。
なんとなく好奇心でその後ろ姿を見ていると、男が不意にこちらを振り向いた。男は目の透けない丸サングラスを掛けていたが、真っ黒なレンズ越しに明らかに視線がかち合ったと分かる。
次の瞬間、背中を大量の虫が這うような感覚に襲われた春樹は、思わずシャツをめくって一心不乱に掻きむしった。
サングラス越しに目が合っただけで人の身体に痒みを生じさせるほど不気味なその男は、そんな春樹の様子をじっと見つめている。ほんのすこし首をかしげるように頭を傾けている様子が、得体の知れなさに拍車をかけていた。
「……西日がまぶしいねえ……」
男は急に口の端を歪ませてにったりと犬歯を剥き出しにすると、何か意味の分からないことを話しかけてきた。
確かに西日はまぶしいかもしれないが、それを通りすがりの小学生に確認して何になるというのか。
顔も怖すぎだった。サングラスをかけた猫が威嚇しているようにしか見えないが、もしかすると笑っているのだろうか。
「ちょっと、やめなさいよ」
あまりの恐怖に春樹が動けないでいると、横に停まった車の方から若い女性の声が聞こえてきた。
見ると、全開になった後部座席の窓から少女が顔を出しているのだった。春樹よりは年上だが、おそらく20代ではない。高校生くらいのお姉さんだ。
横顔だけで美人と分かる整った顔立ちに、春樹は目を奪われた。
「なんだよ、挨拶しただけだろうが」
男は、左手に持ったアイスティーのペットボトルを少女に渡しながら応える。どうやら誘拐されているわけではないらしかった。
少女は頑張ってボトルのキャップを開けようとしていたが、水滴で滑って開かないらしい。しばらく格闘した後、窓からにゅっと手を伸ばして男に突き返した。
「西日がまぶしいねって何よ。見るからに怖がってるじゃない」
「いきなりこんにちは~とか言ってくる方が怖いだろ、天気の話が無難だと思ったんだよ。そもそも向こうがずっと見てくるから……」
「もういいから黙ってて。……ごめんね、怖がらせちゃったみたいで」
少女は男に開けてもらったペットボトルに今度こそ口をつけると、春樹の方を振り返ってひらひらと手を振った。男はそれを横目に自販機から缶コーヒーを取り出すと、一口だけ飲んで若干むせながら運転席に乗り込んだ。
ゆっくりと走り出した車が見えなくなるまで、少女は後部座席で体ごと後ろを向き、じっと見つめるように春樹の方を眺めていた。
……なんだか狐につままれたような気分だ。
春樹はしばらく車が走り去った方を呆然と見つめていたが、ようやく帰宅することを思い出して家の方へと踵を返した。
その春樹の眼前に、1人の女が立っていた。
グレーのスウェットのような上下を着た女だ。
その風体から、どこかから歩いてきたとは到底思えなかった。しかし、いつからそこに立っていたのか、見当もつかない。
自分の目をまっすぐ見つめる女の顔と目が合った春樹は、一瞬、ヒグラシの声が大きくなったような錯覚を覚えて、呼吸することを忘れた。
限界を迎えた横隔膜が震え、ヒュ……とわずかに息を吸った瞬間、女は春樹の前から消えた。
立ち去ったのではない。いなくなったのだ。
……人間?女?妖怪?幽霊?不審者?お化け?幽霊?…………
真っ白になった頭の中で、様々な単語が目まぐるしく浮かんでは消えていく。
いや、ありえない。人間だったわけがない。
女は首がぐにゃりと折れ、顔が逆さまにぶら下がっていたのだから。