9.
「お手拭きですが、どうぞ」
「……ありがとうな」
すぐ近くにあったおしぼりウォーマーから、一つ取り出して男性に渡す。このホカホカした温かさが、悲しみに暮れる男性の心に、どうか届きますようにと。そんな事を思った。男性はおしぼりを受け取った後、袋を破いて、熱々のおしぼりを顔にかける。そしてかけたまま、器用に口を動かした。
「こうやってしぼりで顔を拭くのは、おっさんのする事なんだって?」
「え、そうなんですか?俺もたまにやりますけど……はは。そんな風に見られてたのかな」
だとしたら、ショックだ。昼休みや会社帰りで、幾度となく定食屋に足を運んでいたけど、その度にタオルに顔をつけていたから。
落ち込んでいる俺を見て、男性は「またまた」とタオルの隙間から目だけを俺に寄こす。
「そんなに若いんだから、おしぼりをどう扱おうが、おっさんには見えないって」
「え、いや、だから俺は、」
「分かったわかった」
取り付く島もない男性に、俺は「本当なのにな」と喉まで出かかった言葉を飲み込む。この男性は、どうも俺を若い少年くらいにしか見てない。だけど俺は二十八歳だぞ?立派な大人だっての。
と、俺がここまで思ったところで。いつの間にか男性はお茶漬けを完食して、席を立っていた。
「ありがとう、最高に美味しかった。なるほど、これが思い出ご飯なんだな。良い店だ」
「え、か、完食!?はや!」
「病気知らずな今、あのお茶漬けの量なんて一口で終わる」
「は、はは……」
苦笑を浮かべる俺に、男性はもう一度「ありがとう」と言った。今度は少しだけ、屈強な背中を丸めながら。
「死んでからずっと、いや、余命宣告されてからずっと、と言った方が正しいかな。俺は悩んでいた。母に”あと僅かしか生きられない”と打ち明けるべきか否かって」
「悩んで、いたんですね」
「そう、ずっと悩んでいたんだ。だけど、君と話をしている内に、やっぱり俺の判断は正しかったと思った。もしも俺が”余命僅か”と言ってしまったら、俺が死ぬまで、何度だって母は泣いてしまうだろう。俺が死んだ後だって泣くんだから、泣く回数は少ない方がいい。だろ?」
「……」
「そうですね」と頷いたのは建前で、「そうなのかな」と思ったのが本心だ。男性が死ぬことが分かっていたら、もしかしたらお母さんは自分の気が済むまで、男性の傍にいて看病したかもしれない。男性がこの世を去った時に「寂しい」だけじゃない何かを、残せたかもしれない。
なんて。そんな事、絶対口に出さないけど、そんな事を思ってしまう。これが世に言う「価値観の違い」なのだろうか。
だけど、男性には男性の考え方があって人生がある。この男性は、満足に人生を終えたんだ。そこに行きつくまでの過程がどうであろうと、今、この瞬間に笑えていることが、人にとって一番大事なのかもしれない――今まで、そんな事を欠片も思った事は無かったけど、男性の満足そうな笑みを見ていると、自然とそう思う事が出来た。
人には人の、思った生き方があり、過ごすべき人生があるのだと。