思い出がいっぱい
旧市街地から山を登った先にある、疲れたおじさんの実家には、古民家特有の畳のにおいが、辺りに漂っています。立派な佇まいの木造建築物の玄関には、すぐ隣にトイレがあり、あとは大きな畳の部屋がありました。
疲れたおじさんは『誰もいなくなってしまった』その家に、革靴を脱いで上がると、床の軋む音と共に、賑やかしい家の様子が思い起こされました。
「靴を揃えて上がるようにと、お母さんに言われたものだなぁ」
丁寧に靴を揃え、ぎしぃ、と小さく軋む家の襖を開けると、六畳の和室が二つ繋がった部屋があります。長いテーブルとテレビがあり、庭先を望むことの出来る窓からは、既に秋の装いをした紅葉や銀杏の木を見ることが出来ました。
おじさんは目を細め、庭先をぼんやりと見つめて、長いテーブルの横に腰かけます。そこは、陽気な父が酒を仰いでお正月の番組を見ていた、特等席でした。
ふと、鮮やかな秋の化粧をした庭先を、子供の影が通り抜けます。おじさんは少し驚き、苔生した花壇のあるあたりに目を凝らしました。
すると、庭の景色はみるみるうちに移ろっていきます。新緑の中で父に肩車をされる子供の姿、霧のような雨の降る中、硝子にてるてる坊主の影が映る光景、足元に黄色い花が咲き、その前を蝶が横切っていきます。そして、雪化粧をした庭の中で、赤ん坊を抱く両親の姿が窓に映ります。
おじさんは、その赤ん坊が自分だとようやく気付くと、堪え切れず視線を逸らしました。
廊下の先、奥の部屋は台所に繋がっており、向かいにあるのはお風呂場と洗面所、そして、一番大きな、今はがらんどうになったこの和室。先々から色々な音が聞こえだしました。
まず、トイレから水を流して、子供が廊下をどたどたと走る音、荒々しく水を流して手を洗う音、その後に、水道メーターを気に掛けながら、大人たちがほんのわずかに蛇口をひねって手を洗う音が響きます。お風呂場からは昔聞いた童謡の歌が聞こえ、やがて水面をびしゃびしゃと叩きだし、夥しい量のお湯が流れていく音がします。はしゃぎすぎて栓が抜け、お湯が吸い込まれていくと、子供の泣き声と両親の叱りつける声が響きました。
台所では、チャカチャカと皿を洗う音がし、さらに炒め物を作る時の、お母さんの鼻歌が聞こえてきます。鼻歌はいつも音程が少し外れていて、料理が出来るまで、キッチンの隣にあるリビングルームでテレビを見るのを酷く邪魔しました。
おじさんは一つ一つの音を辿るように、部屋を転々とめぐります。まずは玄関先のトイレです。一畳もあるのかないのか、ほんの小さな区画の中に、溜め込んだトイレットペーパーや、ひと月前で止まったままのカレンダー、お母さんお手製のトイレカバーなどが敷き詰められています。
洗面所に行くと、昔ながらの石鹸と並んで、市販の、泡で出るハンドソープが並んでいます。大きな洗濯機が部屋の大半を占める中、ハンドタオルをかけるための取っ手が無理やり狭い隙間に押し込まれていました。
洗濯機と洗濯籠のすぐ奥にあるお風呂には、パッキンに小さな黒い黴が疎らにあり、タイルの隙間に僅かなアクセントを作っています。先程抜けたお風呂の栓は、連結用のチェーンが外れ、よく手入れされた風呂桶の中に嵌めたままになっていました。
そして、廊下の奥にある暖簾をくぐり、台所へ入ると、おじさんが子供の頃に使っていた食器皿や茶碗が、つい先日使われたばかりのように、綺麗に伏せて置かれています。
おじさんは、昨年実家に帰った時に、食の細くなったお母さんが子供の頃の食器が丁度良く使っていたことを、思い出しました。
リビングルームはフローリングが敷かれています。おじさんが子供のころからあるおもちゃ箱の中身は、今も変わらずにそこに置かれています。
おもちゃの隣には炬燵になるテーブルがあり、そして、大きなテレビがあります。テレビ台の上にはたくさんの写真が置かれ、その中で、子供の頃のおじさんや、若い頃の両親の姿が溌溂とした様子で残されています。
少し視線をずらせば、棚の上に卒業式の写真、成人式の写真、両親の還暦の写真などが並んでいます。色彩が新しく鮮やかになるにつれて、写真の数が少なくなっていきます。
そして、テレビの上には、小さな縫い包みが乗せられていました。それは、子供の頃からおじさんの傍にあった、オコジョの縫い包みでした。
おじさんは、テレビに近寄ると、縫い包みをそっと撫で上げます。綿が抜けて小さく、腰も曲がり、少しばかり腹も出ています。元々は生えていたひげは、一緒に寝る間に取れてしまっていました。尻尾はだらんと垂れ、その先には黒い毛の模様があります。滑らかで柔らかかった毛は所々剥げたり、汚れたりしています。
おじさんはオコジョの縫い包みを抱き上げると、子供の時のようにそっと撫で、さらに尻尾を指で弄ったり、禿げた鼻先を突いてみたりしました。
「お前も寂しいか?」
おじさんはそう一言零すと、オコジョの縫い包みを抱いたまま、部屋を後にしました。
バタバタと走る子供の足音と、両親の叱る声が廊下に響きます。オコジョを抱いたおじさんとすれ違ったその子は、振り返り、不思議そうな顔をして首を傾げました。
おじさんは幸せいっぱいの両親と共に映っていたその子にそっと微笑みかけると、頭をくしゃくしゃと撫で回しました。
「お父さんとお母さんのこと、大事にするんだよ」
おじさんはオコジョをあやすように腕で抱き、そのまま玄関へと向かいます。石垣に囲まれた古風な玄関の前で、オコジョを抱いたおじさんは深呼吸をします。心地よい山のにおいと、急斜面の中に立ち並ぶ家々。おじさんは胸の中にあるつぶらな瞳を覗き込みます。
「家に来るか」
実家からの賑やかしい声は、ぱったりと聞こえなくなりました。