案山子の話
いつからであろうなどという疑問を抱く前から、既に果てまで続くような稲をじっと眺めているのであった。
穂はまだまだ軽く、ピンと背筋でも伸ばして首だけお辞儀をしているような、たいそう青い稲である。
そんな稲を、ぼーっと眺めている。
すると烏がバサバサと音を立てて腕に止まり、こう囁いた。
「やぁ。相変わらずだなぁ」
「やぁ。
相変わらずってのは一体、何のことだい?」
「そんなの一つに決まってるだろ。
相も変わらず、どうしたって君はここに立ち尽くしているんだ?」
「どうもこうも、生まれた時からこうなんだ。
生まれた時からここに立っていたんだ」
「空も飛べないなんて、つまらないだろう。
君は哀れな奴だ」
すると烏は1つ阿呆と鳴いて、どこかへ飛び去ってしまった。
考えたことなどない。
長いこと上る朝日を眺め、空駆ける太陽の光を受け、沈む夕日に欠伸を漏らしては静かな満月にまんじりとし、そして稲を眺めていた。
そんな私は、つまらないのだろうか。
あの烏が言うように、空を飛べないことは哀れであろうか?
翌る日、空は曇天であった。
しとしとと雨粒が降り注ぎ、穂に当たる度に粒が弾ける。
道の濁った水たまりにアマガエルがへたくそに飛び跳ねて、私を見つけるなりこう尋ねてきたのである。
「やぁ。なにか悩み事かい?」
「やぁ。
悩み事なんて、生まれてこのかたしたこともないさ」
「へぇ、そりゃずいぶんと呑気なもんだね。
じゃあ何でずっとここに立っているんだい?」
「さぁ。生まれた時からここに立ってるんだ」
「立っていると何かあるのかい?」
「いいや、何もないよ」
「それじゃあ君、まるで木偶の坊じゃないか」
アマガエルはそう言って、またへたくそに飛び跳ねながらどこかへ行ってしまった。
木偶の坊と言われてしまった。
こうやって眺めているだけなのだが、しかし木偶の坊だと言われてしまう。
あのアマガエルが言うように、悩みを持つべきなのだろうか。
稲は少し、頭を擡げたようである。
また翌る日の話である。
やけに風が強い曇天の日であったが、稲は穂を揺らすだけで、地面に力強く食い込ませた根は鼈が噛みついているみたいに離す気配がない。
私は倒れそうになりながらも、何とか踏ん張ろうと風を必死に耐え忍んでいると、通りすがりの風がこうつぶやくのである。
「いつもそこに立ってるなぁ」
「何をするわけでもない、暇そうなやつだ」
「早く倒れてしまえば楽だろうに、あいつはきっと馬鹿にちがいない」
風達はそう残して、瞬く間にどこかへと去ってしまった。
当然ながら、私には根など生えていない。
地に自らの脚が突き刺さっているだけだから、倒れるなんて容易いことだ。
だが、動くことは叶わないのである。
つまらない上に悩みもなく、挙句馬鹿な木偶の坊。
鳥につつかれ、雨にも風にも打たれ、私はとうの昔に襤褸である。
それでもなお、意味の無いことを続けているには理由があるのだ。
あの青かった稲達が、金色に輝き出したときたら!
軽く頭を擡げていた若い稲が、今や腰から立派なお辞儀でもするように、ずっしりと頭を擡げた立派な稲に姿を変えているのである。
その成長、育っていく彼らを見ておきながら今更これしきの事で倒れるだって?
冗談じゃない。
どれだけつまらないだの木偶の坊だの馬鹿だの阿呆だの言われたところで、太陽の元光り輝く稲達に何が怖いというのだ。
それを見守ってきた私が、一体なぜ負い目を気にしなければならない。
胸を張れ。
そして見届けろ。
この捻くれ者の風達にすら屈しない、黄金の精神を見せてやるのだ。
穂は乱れど、この程度で稲が折れることは無かった。倒れることも、有り得なかった。
風は止み、立ち込めていた雲は晴れ渡り、そして穂は今その成長を遂げたのであった。
鎌が、サクッと音を立てて稲を刈り取る。
その様はあまりにも呆気なく、あれだけ長い間苦難を乗り越えてきた稲達がこうも呆気なく刈り取られてゆく姿は虚しさその物であった。
すると、一人の人間が歩み寄ってくる。
「お前のおかげだなぁ。随分ぼろぼろになっちまって、よく頑張ったなぁ」
今度は足元がサクッ。
私の脚が、土から抜き取られる音がした。
私はただそこに立ち、ただ見ていただけである。
何も頑張っちゃいない。
だがもし、ただ見続けてきた私が何かの、誰かしらの役に立っていたとしたら、それは幸運なことなのではないだろうか。
「あれ?
でもこの案山子、こんな笑った顔してたっけなぁ」
或る、案山子の話であった。