きく亭
〈ありがたいものだ〉
ランチメニュー
ワンコインすなわち500円で定食が食べられる。
たまにはまともなものを食べたい、と言うより食べなければならないと思いそのレストラン「きく亭」へと入った。
店の中を見渡すといかにもレトロな雰囲気がウリと言わんばかりの作りになっていて椅子もテーブルもまるで時代を一度かニ度跨いだかのような仕様となっていた。席一つ一つには薄明かりのペンダントライトが吊るされていた。
客は誰もいない。
といってももう昼下がり。昼食よりもおやつにだいぶ近い時間だ。
(まだランチメニュー頼めるかな)
「いらっしゃいませ」
奥から腰エプロンをしたおばさんが出てきた。
還暦とまではいかないがそれに近い歳であろうか。
「お好きな席へどうぞ」
この店に来るのはこれが初めてだ。好きは席などはない。どこだっていい。
適当に席に着いてテーブルに置かれてあるメニューを見た。
どうやらランチタイム用のメニュー表だった。
通常用のメニュー表はテーブルの隅に立たせてあった。
店側としてもランチタイム中はランチメニューを注文してほしいのだろう。
「すいません」
「はーい」
さっきの腰エプロンおばさんがお冷を持って奥から出てきた。
「ご注文はお決まりでしょうか」
「えっと、ランチメニューのAセットで」
「はい、ランチメニューAセットですね。ライス大盛り無料ですがいかがいたしますか」
「あ、いえ、普通でいいです」
「かしこまりました。少々お待ちくださいね」
そう言うとエプロンおばさんは奥へと戻っていった。
お冷を一口飲みコップをテーブルに置いた。強く置いたつもりではないが音が辺りに響いた。
(食べたいと言うより食べなければならない)
別に食べたくないわけではない。食べられないわけでもない。食べる事が嫌いでもない。ただ食べる事を忘れる日々を過ごしているのだ。
ランチメニューAセットは唐揚げ定食だ。サラダと味噌汁も付いているオーソドックスなセットだった。
因みにBセットは生姜焼き定食 Cセットは鯖の味噌煮定食だった。
どれでも良かったので一番上のAセットを注文した。
(ちゃんと食べよう)
注文して20分が経った。
まだ来ない。
奥で調理をしているであろう音は聞こえるが唐揚げ定食でこんなに時間がかかるのか。
ランチタイムは安さと並んで速さも大事であろう。休憩中のサラリーマンなんかはお金もなければ時間もない。特に昼食はサッと入ってサッと済ませたいはず。ここはサラリーマン泣かせの店か。けれど別に自分はサラリーマンではないし特に時間にも追われていない。
(まあ今に来るだろう)
その後さらに10分ほど過ぎてようやく奥からエプロンおばさんが出てきた。
ワゴンを押している。ワゴンもレトロなのか一定にキィキィと音を立てていた。
わざわざランチメニュー一つにワゴンを使用してくれるとはいい心がけだなと皮肉紛いにエプロンおばさんを心で褒めてあげた。
「お待たせしました」
エプロンおばさんは手際よくワゴンからお皿を次々とテーブルに置いていく。そして「ごゆっくりどうぞ」と言ってワゴンを押して奥へと戻っていった。
「すごい....」
テーブルに置かれた料理はまず見た目が素晴らしかった。
分厚いレア加減に焼かれたお肉に牛脂が乗っかっていて、専用ガーリックソース、コーンソテーとフライドポテト、チキンライスは円錐台に整えられて上には刻みパセリが振られている。スープはオニオンのいい香りを漂わせる透き通った品でサラダは千切りキャベツの上にツナフレーク、ブロッコリー、ミニトマト、パプリカ、ポテトサラダが乗っていてクルトンが振りかけられていた。
「美味しそう...」
しかし唐揚げがなかった。味噌汁も普通盛りのライスもない。サラダはあるのだがこれは唐揚げ定食ではないのはあからさまであった。
テーブルの隅に置かれてある通常用のメニューを取って表紙を開いたら一番最初のページに出された料理の写真が載っていた。
たしかにランチメニューAセットを注文したはず。
しかし出された料理はそれではなく通常メニューの「プレミアムローストビーフ(180g)きく亭オリジナルディナーセット」であった。
しかも1990円。
混乱した。
頭の中を巻き戻して注文した時を何度も脳内再生した。たしかにランチメニューのAセットを注文している。そもそもこのレストランは初めて入ったのだ。こんなメニューがある事すら知らないのだから言い間違える訳もない。自分以外に客も居ないのだから他との間違えの訳でもない。
(どうしようかな)
「ありがとうございました。またお越しくださいませ」
結局出された料理を平らげて予定の4倍近い金額を払って店を出た。
普通なら間違いを指摘して作り直してもらうだろう。手を付けずにそのまま帰る人もいるだろう。怒鳴り散らす人もいるかもしれない。
でも自分は文句は言わなかった。
実はどこか感謝しているのだ。
こんなに漠然とした間違いを目の当たりにして一瞬神経の全てが混乱一色になった。はてな一色だ。くえっしょん一色だ。
食べる事すら忘れるくらい苦しく心を縛っているものさえもその一瞬はきっぱり忘れる事が出来たのだ。
〈ありがたいものだ〉
心の病みの呪縛から抜け出せるほどに強くなった頃 私はまた、ここに来ようと思った。