氷の子
ある日、空から一つ流れ星が落ちてきた。それは寒さを連れてきて、国を一つ凍らせた。しんしんと降り積もる雪と、じわじわと広がる寒さに人々は一人、また一人と国を後にし、ついには一人の少女だけが残った。
彼女は一日中空を見上げて過ごしていた。たまに雲の隙間から覗く空を見るのが、何よりの楽しみだった。夜には、空に連れて行ってくれないかと星に手を伸ばした。
そんな彼女はいつからか、どうして自分はこの国にいるのだろう。氷しかないこの寂しい国から、どうして出て行かないのだろう、と考え始めた。その考えは次第に大きくなり、外に行ってみたいという気持ちが生まれた。気付いた時からこの国にいて、いつの間にか一人になった。その寂しさに耐えられなくなった。
彼女は朝早くに家を出た。いつも冷たく透き通っている空気はさらに透明になり、頬を引き裂くようだ。空は真っ白な雲に覆われ、氷との境界を曖昧にしている。そんな中を歩いていると、空を歩いているように感じた。
町を抜けて森に入った。木々は堅く凍っている。それは、時折吹く風に揺れることはなかった。しばらく歩いて行くとぽっかりと木のないところに出た。その空間は木によって円のように囲まれている。中央に、大きな岩が地面から生えていた。その岩の上にきらきらと光る鳥がいた。少女にとって、初めて見る鳥だった。それは近づいて行っても逃げることなく、少女の目をじっと見つめている。鳥まであと三歩、というところでそれは羽を広げた。
『行ったら凍る、白くなる。星の降った国の子よ、お前の居場所はあそこだろう』
鳥はばさばさと羽を広げてそう鳴いた。少女はそれをただ茫然と見つめ、気づいたときに鳥は森の奥へ跳ねて行ってしまった。
鳥が行ってしまったあと、それが本当にあったことか、それとも夢だったのか、少女は分からなくなった。その疑問は胸の中でとぐろを巻いていたが、かまわず歩き続けることにした。
日が昇って、沈んで。また昇って、また沈んで。雲の向こうの日が十ほどそれを繰り返して行ったとき、追いかけるようにして月が昇ってくるのを見た。濃紺の空に星と一緒に浮かんでいる。
空ばかり見て歩いていたせいで地面の変化に気付かなかった。硬く、ごつごつとしていたのにいつの間にか、柔らかな緑色の草に覆われていた。氷の冷たさはなく、瑞々しく感触が伝わってくる。暫くその感触を楽しんだ後、腰を下ろし、ぽすん、と頭を後ろに倒した。視界に映るのは星と月の端だ。空に手を伸ばすが、やっぱり星を取ることは出来ない。けれど、あの国の小さな隙間から覗くほんの少しの星では駄目でも、この大きな空の星なら、自分にも掴めるものがあるのではないか。そう思うと、自然と笑みが広がった。すると頭の奥がぐるぐると回るような感覚がやってきて、あっという間に意識を押し流した。
どれほど寝ていたのだろう。弱々しい光を感じて目が覚めた。まず始めに目に入ったのは、真っ白な雲に覆われた空だった。それは、いつも国で見ていたものと同じだった。体を起こし辺りを見回すと、瑞々かった草の色はそのままに凍り付いていた。触るとぱりぱりと崩れていく。視界の中に鮮やかに見えた緑がぼうっと崩れた。頬を、凍った涙が転がって行く。氷が追ってきた。逃げなくてはいけない。氷が追って来られない遠くまで。
彼女はすぐに歩き始めた。足元から草の崩れる音がする。それを聞くたびに涙が零れた。
氷は続き、白い雲はそのずっと先まで広がっている。雲の向こう側で、日が段々と傾いているのだろう。辺りが灰色から黒に移っていく。それでもやはり、彼女は進み続けた。雲のたなびいている先から星や月の光が僅かに届いている。
日の沈んだほうを背にして、月のほうへ月のほうへ。月が沈んだほうを背にして、日のほうへ日のほうへ。日を追いかけているのか、それとも月を追いかけているのか、何回も繰り返しているとそんなことは分からなくなった。
時折空をちろりと見上げ、雲のたなびく先を確認する以外ずっと下ばかり見ていた。そして気づくと、巨人が砂遊びできそうなほどの砂が広がっていた。溜息が漏れるほど、大きな光景だ。届く光はさらに多くなり、砂の山一つ一つの陰影を薄っすらとだが作り出している。坂を下り砂に足を踏み入れると、まるで飲み込まれていくような感覚だった。空気中に水分が感じられないせいか、大きく息を吸い込むと咳き込んでしまった。
砂に足をとられながら進む。その度に光が強くなっていくようだ。実際、砂の山の影が徐々に濃くなっている。雲の切れ目まであと少しだ。次第に歩く速さが増す。あと少し、あと少し。胸がどきどきする。笑い出すのを止められない。
影が一際濃いところまで来た。上を向くと、ちょうど雲の切れ目の下だ。そこを走りすぎて、視界を星空一杯にしていく。両手に抱えきれないほどの星が浮かんでいる。
足音だけが規則的に聞こえる。動くのは自分の影だけだ。そんな中では、自分が進んでいるのか、それとも同じところをぐるぐると回っているのかさっぱり判断が付かない。頼りになるのは、砂の上にぽつりぽつりと残された小さな足跡だけだ。
月と星の輪郭がぼやけて、空と砂の境界が白んでいく。そして砂の山の向こうから、真ん丸に燃える太陽が顔を出した。彼女は歩くのを止めて、暫しその様子に見入った。雲に遮られていない太陽。そんなものに見下ろされていると、体の奥が、光によってじんわりと暖められていくような気がした。
空は白から青に染まり、濃紺は月を追いかけてどこかへ行ってしまった。
日が昇りきると、刺すような光が身体を突き抜けた。空気は一瞬で熱く変わり、息を吸うと喉が火傷しそうなほどだ。歩き続けようと思ったが、じりじりと皮膚を焦がす日に負けて砂の山の影に座った。そこでは、幾分か暑さが和らいだ。そしてあの国にいたときと同じようにじっ、と空を見上げた見ている方向には太陽が無いのに、空そのものが光を持っているように目の中に青が沁みこんできた。
雲に隠されない青空はこういうものなのか。力強く、その色が身体にまで沁みこんできて、染められてしまいそうだ。
そこでまた、あの鳥を見た。鳥はじっとこちらを見つめ、とんとんと跳ねながら近づいてきた。
『国へ戻れよ、白の国。日の差すとこにはいられない。差した日すべて、白くなる』
少女は砂を投げつけた。鳥は諦めたように山の向こうへ跳ねて行った。それを見届けると体が重くなった気がする。
砂を一掴みして目の高さから落とした。足元に小さな山が出来る。あの国では、地面は殆ど凍りついたようになっていて砂を見ることは無かったから少し物珍しかった。もう一度同じようにした。今度は風がどこかに運んでいった。それを目で追うと、薄い線が生き物のようにうねりながら浮かんでいた。
じっと空を見上げていても、氷が来ることはなかった。そのことに安堵しながら、日が傾くのを待った。
夕焼けは朝焼けよりも赤かった。砂の陰影が徐々に長くなっていき、濃紺の空が広がっていく。そして夕焼けが半分ほど沈むと彼女は立ち上がった。薄っすらと白い月が、砂の山に寝そべるようにして浮かんでいた。
月へ向かう後は夕焼け。月が流れる逆は朝焼け。
月が出て、朝焼けが追いかけて、また月が出る。いくつもの月を見送った。太陽を隠す雲はずっと昔に見えなくなった。
そして砂は終わりを迎えた。目の前にあるのは乾燥していながらも草の生えた場所だった。そこをずっと歩いて行った。平らな地面には鋭い石が転がっていて、歩く度にちりちりと足の裏が傷んだ。その石には、薄らと霜が降りていた。
幾つも太陽を見送り、何度も月を見上げた。ちりちりと傷んだ地面は、もう気にならなくなっていた。次第に、千切れたような雲がぽつりぽつりと見られるようになった。それは幸せを包んだような、そんな安心感を抱かせるものだった。こんな穏やかな気持ちで青空と雲を見られるとは思っていなかった。白の眩しさに思わず目が眩んだ。けれど、霜はまだ地面を覆っていた。
さらに進むと不思議な空間に出会った。大きな水溜りだ。白い地面が、岸のようにそれを囲んでいた。けれどそれに触れても冷たさは感じなかった。ざりざりとした、砂とは違った感触が伝わってくるだけだ。辺りは痛いほどの静寂に包まれている。そこには、風の音すら無かった。
まるで夢の中のように現実味がない、そう思った。白に覆われた地面はあの国でよく目にしていたものだ。けれど、こんな風に穏やかな気持ちにはならなかった。
水溜りは浅く、向こう岸まで行くのにそこまで大変そうではない。足を入れると、切られるような冷たさとともに波紋が広がっていった。
半分ほど進むと、自分は空の中にいるような気がしてきた。何故だろう、と足を止めて俯くと、水面の向こう側にも雲が見えた。そして、自分の姿もそこにあった。試しに、今日は、というと、向こう側の自分も今日は、と返した。この水溜りは鏡のように透き通っていて、こちら側の事をそっくりそのまま写し取っているのだ。そのせいで、上にも下にも空があるように感じたのだろう。
水溜りを渡りきると、そちら側も雪のようなもので地面を覆われていた。振返って水面を見ると、水面と空との境界線なんてものは無く、空がぽっかり浮かんでいた。
「誰?」
突然の声に、肩がびくりと震えた。声のするほうには壺を持った女の人が立っていた。その人はこちらを興味深そうに見つめた。少女は咄嗟に何も言えず俯いて、はくはくと口を動かしたりしていた。前に人と話したのは随分前のような気がする。なんと言えばいいのか思いつかなかった。
ざりざりと、足音が近づいてきた。その人は少女と向き合うと、腰を屈めて
「ここで何をしているの?」
と聞いてきた。
俯いているので女性の表情は窺い知れないが、その声は優しく、怒っているようには聞こえなかった。そこで彼女はおずおずと顔をあげ、
「歩いていました」
と答えた。
「氷の国から出てきて、草の広がるところを抜けて、砂の山を越えてきました」
すると、彼女は驚いたように目を見開いた後、その顔に笑みを浮かべた。
「すごい、そんな遠くから来たの?」
「…はい」
「丘の向こうに私の家があるの。暫く誰とも話していないから寂しくて、よかったらうちに呼ばれない?」
その人は手を伸ばして言った。そのときの笑顔があまりにも眩しいから、彼女は思わず、はいと返事をした。
ちょっと待っていてね、そう彼女は言うと、少女の後ろに広がる水溜りの水際に立ち、壺を倒して水を汲んだ。写っていた雲は、水と一緒に吸い込まれていった。
「行きましょう。ついてきて」
そう言われ、彼女はその背中を追った。ゆったりとした速さで、壺を落とさないように慎重に進んでいく。霜に慣れていないのだろうか。冷たさに時折小さく声を上げた。けれどたまに、その人はこちらを振り返っては立ち止まり、見失わないように気を使ってくれた。
草の緑が目に映るようになった。なだらかな丘の頂には白い小さな花が、霜に覆われて震えていた。この丘が通せんぼしているせいで、あの水溜りには風がないのだろう。この下から流れてくる風は斜面に沿って空に昇って行ってしまう。冷たい風に髪がふわふわと吹き上げられた。
「あそこよ」
指差された家は真っ白で、さっき見た水溜りと同じ色だった。
緩やかな傾斜を降りていく。
「いらっしゃい」
その人はドアを開け、少女を招いた。近くで見ると、やはりあの岸と同じ表面をしている。
「おじゃまします」
今度は俯かずに言うことができたが、何故か恥ずかしくて頬が燃えそうなほど熱くなった。
「座って」
部屋に通されると椅子をすすめられた。少し落ち着かないから浅く腰掛けた。
「あそこ、空が浮かんでいるみたいで綺麗だったでしょう」
その人は棚から器を取り出すと、ね、と同意を求めるようにこちらを見た。そして鍋をかき混ぜスープを注いだ。
「綺麗、でした。とても綺麗でした」
空の中に浮かんでいるような、あの奇妙な感覚を思い出した。
「こんなものしか出せないけど、いいかしら」
ことり、と置かれたスープは透き通っていて、ゆらゆらと立ち上る湯気のなかでも中の具がはっきりと見えた。その透明さは、あの水溜りを思い出させた。
「いえ、そんな気を遣わなくても」
その人は笑うだけで、それを見ていると食べない方が失礼なのではないか、と感じられてきた。
「いただきます」
急いでそう言い一匙すくって口に運ぶと、香辛料のような不思議な香りがした。
「おいしい」
じわじわと暖かいものが胸の中を満たしていく。透明なのにいろいろな味が感じられるそれは、空っぽのお腹の中に溜まっていった。
「これはね、塩湖の塩で味付けをしたの。とても透き通っているでしょう?」
「はい」
あの水溜りは塩湖と言ったのか。鏡のように透き通った水面の下には、確かに白い地面が広がっていた。岸の白も、おそらく塩なのだろう。この家は塩を切り出して煉瓦のようにして建てられたものらしい。
「あそこの塩には不純なものが入っていないからよ。私はあそこから塩を取って使っているの」
そこで少女は緩く息を吐いた。なんて穏やかな生活だろう。それに憧れた。
「雨が降った後、一時的に水がたまってああなるの。このあたりはあまり降らないから、とても珍しいのよ」
そう言うと、彼女は椅子に腰をかけ静かに窓の方を見た。
「あなたは運がいいわ、いつもは雪みたいに真っ白なだけだから。でも今は雪があるみたいに寒いわ。初めてよ、こんなに寒いの」
その言葉に、暖かくなっていた胸の隅がぎくりとこわばった。霜に覆われた石や花が頭に浮かぶ。あの水溜りも、凍ってしまうのではないか。綺麗な鏡のように、水であったことを忘れて波紋を広げなくなってしまうのか。一度浮かんだ不安はもくもくと広がった。
それを隅に押しやりたくて、その人と同じように窓越しの空を見た。そこに切り取られた空は雲を浮かべ、悠々と泳がせていた。雲は家から離れていくように流れて行く。その流れは自分の不安も、どこかへ運んで行ってくれる気がした。冷たい風も、この家の中までは入ってこない。
そのせいだろう。突然、自分はこの場所でこの人の手伝いをして生きていけたら、という思いが生まれた。彼女は自分があの水溜りのように、静かに澄んでいくのを感じた。
「ごちそうさまでした、美味しかったです」
「どういたしまして」
女の人は立ち上がり、器を下げて洗い始めた。少女は暫くその様子を見ていたが、急にはっ、として
「やります」
とその手から器を取った。
「あら、いいのに」
「いいんです。やらせてください」
その人は、そう、と洗うための布も渡してくれた。汚れを流し、水が残らないように拭いた。冷たい水に、指先が赤く染まる。
「ねえ
「はい」
自分は何かしてしまっただろうか、と不安になった。
「あら、あなた今怖い顔になったわ」
「何かしてしまっただろうか、と思って」
すると、その人は不思議そうに瞬きをして
「何も悪いことしていないわ」
人を安心させる笑顔で言った。
「どこか行くあてはある?と聞こうと思ったの」
顔をそっと覗きこんできた。熱が集まって、顔が赤くなっていくのがわかる。
「…いえ」
また俯いてしまった。
「じゃあ、今晩はうちに泊まっていかない?今日は、とても寒いから」
それはとても嬉しかったが、食べ物を恵んでもらいそのうえ寝床まで世話になのるは忍びなかった。それに、この寒さは自分のせいなのだからよけい辛く感じた。
「悪いです。ご飯だって食べさせてもらったのに」
そう言うと、その人は困ったように眉を寄せた。胸の奥がきゅう、と絞られる感覚がした。
「じゃあ、私の手伝いをしてそのお礼、というのは?」
え?
少女は顔を上げた。その人は優しく笑っていた。
「私一人でやるには大変なこともあるの。だから手伝ってくれると嬉しいわ。」
いいのだろうか、その言葉に甘えても。長い間人の優しさに慣れていないせいか一瞬戸惑った。なぜこんなに優しくしてくれるのか理由を聞きたいと思ったが少し怖くて聞けなかった。
「お願い、します」
「ええ、こちらこそ」
自然と頬が緩んだ。泊めてもらえることではなく、今こうして話していることのほうが嬉しかった。
前に人と話したのはいつだろう。その時も、今のような気持ちになったのだろうか。そんな思い出はあの国に置いてきてしまったのか、どれだけ頑張っても思い出せなかった。
案内されたのは畑だった。薄い布が日傘のようにそこを覆っている。不思議に思いながら見ていると、その様子に気づいたのか、日差しが強すぎて葉を痛めてしまうのと教えてくれた。そして、寒いでしょうからと上着を被せてくれた。寒さに慣れている少女にとってそれは必要なかったが、断る気にはならなかった。
「やって欲しいのはね、葉に付いている虫を殺すことと野菜以外の草を抜くこと。お願いできるかしら」
優しいその人の口から、殺す、という言葉が出たことに驚いた。けれど少しでも役に立ちたかったから、はいと返事をした。お願いね、と言い残すと彼女は家の中へ戻って行った。
しゃがみこんで、一番近くにあった葉に触れる。しゃり、と霜が崩れた。裏に緑色の丸い虫がいた。触角を細かく動かしながら葉に穴を開けている。寒さのせいかその動きはひどく緩慢だった。それを摘まんで地面に落とし、石ですり潰した。緑色の体液が広がり、光にぬるりと反射する。さっきまで動いていたものは、形を残さずに死んでしまった。そのことにくらくらと眩暈を覚えながらも、葉を見ては同じ動作を繰り返した。
そう大きくはない畑だが、虫の数が多かったため最後の葉を見るころには空は夕焼けに包まれていた。寒いせいで澄んだ空は、その光をどこまでも広げている。雲はその陰影をさらに濃くして流れていった。
まだ草を抜いていなかったので彼女は焦った。その時、家の中から呼ぶ声が聞こえた。中では、ぱちぱちと燃える火の光を浴びて女の人が鍋を混ぜていた。
「もう日も暮れてきたからご飯を食べましょう。遠慮なんてしないでね」
テーブルの上には大きさのばらばらな器が乗っていた。そのどれからも、ゆらゆらと湯気が立ち上っている。その人は、いつも一人だったから同じものはないの、と少し恥ずかしそうに笑った。
「まだ、草抜きを始めていません」
申し訳なくて目を直視できなかった。
「虫は」
「終わりました」
それは伝えたくて、言葉を遮るようにしてしまった。
「ならいいわ。それが一番大変だもの」
虫が苦手なの、とはにかんだ。
「まだ少し日がありますから、やってきます」
「あ、いいのよ。そのかわりこれと同じ葉を二枚摘んできて」
濃い紫色の葉を渡された。昼間のスープとは違った、けれど雰囲気の似た香りがした。
ぷちぷちと葉を摘み顔を上げる。葉についていた霜が手に触れてまた赤くなった。空は濃紺に覆われて、夕日は丘の向こうへ半分程沈んでいる。その色は砂の山で見たものと同じで、どこまで行っても空は連続しているのだと改めて分かった。
あのずっと先には氷を運ぶ雲がある。それからどれだけ逃げても、世界は丸いのだからいつかあの、氷しかない白い国へ戻ってしまうのではないか。流れて行く雲と共にどこかへ行ったはずの不安がまた胸に広がった。思ったより時間が経っていたらしい。気付くと女の人が横に立っていた。
「私、あの国から逃げてきたんです。自分以外の人は居なくて、死んだような国でした。ここみたいに空を見られることは稀で、隙間から覗く狭い空を見るくらいしかできませんでした」
不安を吐き出すようにしてしまい、今度は申し訳なさが広がった。そっと見上げると、その人が泣いていて驚いた。その涙は水のまま地面に吸い込まれていった。見ない方がいい気がして、慌てて日の沈んでいく方に目を向けた。
「私には、どういう気持ちであなたが自分の国を出たのかわからないわ。けど、寂しかったでしょう。そんな国にずっといるのは、辛かったでしょう」
泣いているため言葉が途切れがちだった。
ありがとう、ございます。胸の中でそっと呟くが声にならなかった。涙が零れて止まらなかったからだ。そんな時も少女の周りの空気は冷たいままで、凍り付いた涙は足元に落ちて行った。
日が完全に沈むまでずっとその方を見ていた。赤い光が見えなくなると、どちらともなく家の中へ入って行った。頬が冷たくひりひりと痛んだ。家の中は暗く、暖炉で燃えていた火が消えかけていて、窓から入る以外に光は無かった。昼間は気付かなかったが、天窓がありそこからも光が差し込む。その中では影が動いているくらいしか見えなかった。
「そこに掛けてあるランプを取ってくれる?」
影の指し示す方には長方形のものがあった。
「これですか」
「いいえ、その左」
手にすると、ずしりとした重さが加わった。突然、ぽんと小さな灯りがともった。マッチの火がゆらゆらと揺れている。
「かして」
手が伸ばされランプに火が付いた。明るさが増し、互いの顔が見えた。顔には涙の筋が残っている。彼女は続いて暖炉に火をつけた。光が円のように広がる。冷たい空気がさっ、と退いて行った。
「あの、これ」
おずおずと差し出したのは摘み取った葉だ。その人は受け取ると包丁で細かく刻み、料理に振りかけた。
「食べましょうか」
二人は椅子に座り手を合わせた。ランプの橙色の光が料理を照らす。いただきます。
「ねえ、どのくらいかけてここまで来たの?」
「月が百回登って沈むよりも多く」
「何を見てきたの?」
「凍る木と緑の草、砂の山です」
砂の山、その人はここに驚いたらしい。
「砂漠を超えてきたの。私は話ししか聞いたことがなかったけど。その先に国があったのね」
「はい」
尋ねられ、答えて、淡々としていたが満ち足りた気持ちになった。料理はどれも不思議な香辛料の香りがして、体の中に栄養が溜まっていくのを感じた。食後に出されたお茶には、蜂蜜が垂らされていて仄かに甘かった。片づけは二人でやった。女の人が器を洗い、少女が拭く。
月が天窓の枠に収まったのだろう、差し込む光が強くなった。もう寝る時間だわ、最後の器を仕舞うとその人は言った。そして周りより一段高くなっているところへ行くと、布団を二枚広げた。
「どうぞ」
ぽんぽん、と指し示された場所へ向かった。
「失礼します」
人の隣で寝るのは初めてだ。顔は月明かりだけでも分かるくらい真っ赤になり、胸は早鐘を打つようだった。布団には香辛料の匂いがしみ込んでいて不思議と落ち着いた。
けれど、いくら寝返りを打っても寝付けなかった。眠っている間に氷が追いついてしまうのではないかという不安が胸の中を占めたからだ。
「寝付かれない?」
「すみません」
「いいの、私もよ。きっと、久しぶりのお客さんが嬉しいせいね」
その言葉にまた頬が赤くなる気がした。
「ねえ少し歩かない?」
「え」
「今日は寒いから、きっと塩湖に水が残っているわ。そしたらその様子を見てもらいたいし、それが無くてもここは星がとても綺麗なのよ」
砂の山から見える星に何回も手を伸ばした。今は、どれだけ伸ばしても届くことはないと分かっているが、ここの星も見てみたいと思った。
「行きたいです」
じゃあ行きましょうか、その人は布団からするりと抜け出すと少女の手を握った。二人は寒くないようにと上着を着た。
家の前で空を見上げると、雲なんて一つもない視界一杯の星だった。それにほう・・・と、息を吐くと白く空に昇って行った。
風に背中を押されるようにして丘を登っていく。昼間見た白い花は、闇の中で月明かりを反射して薄く光っていた。霜は、月の下でさらに大きく成長しているようだった。足元に気を付けながら下っていく。
夜の塩湖は、昼とは違う美しさがあった。湖はその時よりも一回り小さくなったように感じられたが、幸い水はまだそこにあった。空の黒をそのまま写し取っているから、ぽっかりと空いた空間に光が散らばっているのかと思った
「私もたまにね、眠れない時があるの。その時はこうやって歩いていると、いつの間にか眠くなるのよ」
この人も眠れない夜があるのか。
「ありがとうございます」
恥ずかしいのを堪えるように、すぐ唇をきゅっと結んだ。その人はふわりと笑って見せた。
「眠れそう?」
眠気はなかったが、これ以上付きあわせるのは悪いから、
「はい」
と頷いた。
布団に戻った後も目は冴えたままで、何よりも大変だったのは眠れない事よりも、起きていることがばれないように寝息の真似ごとをすることだった。その人の寝息が深くなるのを感じて、少女はもう一度外に出た。さっき歩いた場所を今度は一人で歩く。塩湖に付くと水際に腰を下ろして、水面にとんとんと指を付けて波紋を広げた。舐めてみるとしょっぱかった。
一つ、月に照らされた雲が流れてきて水面に映った。そこに手を伸ばしたらすくえるのではないかと思った。雲はだんだんと流れて行って、砂の山がある方へ消えて行った。
頭をぽすりと後ろに倒す。突然、ぐるぐると頭の奥が回るような眠気が襲ってきた。これは、氷に追いつかれた時に感じたものだ。彼女ははっと起き上がり、眠気を追い出すように頭を大きく振った。
ここで寝てしまっては、前と同じになってしまうのではないか。自分一人でいるのが怖くなり、急いで家に戻った。隣の布団から寝息が聞こえると、ほっと胸を撫でおろした。布団に滑り込んでも眠気はもう感じられず、空が白んでくるまで天窓からの光を眺めていた。星の光が薄れていき、溶けるように見えなくなった。
隣で、もぞもぞと布団が動いた。その人はむくりと半身を起こし目の前の空間をぼんやりと眺めた。その人の息は白かった。
「お早うございます」
布団の中から頭を出していった。その人は驚いたのか一瞬肩を震わせたが、すぐに、おはよう、と笑いかけた。
「早いのね。もう少し寝ていてもいいのに」
「いえ、もう目が覚めましたから」
よく眠れたかと聞かれ、咄嗟にはいと答えると、嘘をついた罪悪感がちくりと胸を刺した。
「そう、よかった」
その人は布団を畳んでから家の裏に少女を連れていくと、井戸から取り出した水で顔を洗うよう促した。それはひんやりと顔を清めた。その時戸が叩かれる音がした。何だろうとその方を見ていると
「あの叩き方は行商人さんよ。月に二回、ああして尋ねてくれるの」
とその人は教えた。はーい、今行きます。そう言って戸の方に行く背中を追いかける。戸の前には、荷物を沢山つけた馬と屋根まで届くほど大きな男の人がいた。彼の息も、やっぱり白かった。そして、馬は雲のようにもうもうと広がる息をしていた。
「おはよう、行商人さん」
「おはよう。なんだそっちにいたのか、悪かったなあ」
「あらいいのよ」
少女はその間、女の後ろにぴったりと張り付き離れなかった。初めて見る大きな人が怖かったのだ。
「今回は何が必要だ?」
「干し肉と種をお願いできる?」
彼は馬の積み荷に手を伸ばし、言われたものを取り出して家の中へ運び込む。それを机の上に乗せると、椅子にどかっと座った。女の人はお茶を入れている。少女はその後ろから離れなかった。
「なあ、その嬢ちゃんはどうしたんだ」
「昨日、塩湖で会ったの。砂漠の向こうから来たんですって」
彼女はことり、とお茶を置き向き合って座った。そりゃあ凄い、と呟きながら彼はお茶を啜った。
「そおいやあ知ってるか」
ちょっと思い出しただけのような口ぶりだ。
「むこうの砂漠がなくなったんだと」
窓の向こうを指さした。
「本当?」
「ああ、俺も行商人仲間に聞いただけだが、何でも氷に覆われているらしい。しかもまったく溶けないんだ。おまけに空には雲が広がって日を遮ってる」
一体どうしたんだ、と言ってまた彼はお茶を啜った。
少女はがたがたと足が震わせた。顔から血の気が引いて目の前が真っ暗になる。砂漠にいたときは雲なんて無かったはずだ。ここから逃げなくては。この人を巻き込んではいけない。悪いことばかりが頭の中に生まれる。大人二人は、不思議だ、とその話題を続けていたが、彼女の耳には入らなかった。
「どうした嬢ちゃん。顔が真っ青だ」
顔を上げると、男の人が心配そうに見ていた。彼に最初に感じた恐怖は無くなっていた。
「本当、気分が悪いの?」
女の人も、眉を寄せ心配そうに顔を覗き込んだ。二人の視線にさらされたら、普通の時なら真っ赤になってしまうが、今回は青くなるだけだった。
「大丈夫、です」
行商人は、でも真っ青だ、と言って外に出ると小さな袋を持って戻ってきた。それを開けると中からは、赤みがかった茶色をした実が出てきた。
「おまけだよ、これ食べればすぐに良くなるさ」
そう言って渡してくれた。
「ありがとう」
袋の中の実は反射して赤く光った。
「じゃあ俺は行くよ」
彼は馬に跨り、霜の降りた荒れた道を走って行った。その姿が見えなくなると、家の中に入り朝食の準備を始めた。その人は少し休んだ方がいいと言ってくれたが、大丈夫と断った。
「何か、することはありますか」
少女は頼まれて井戸から水を汲んできた。零さないように慎重に運んでくると、その人は野菜を刻んでいた。
「持ってきました」
渡すと、それは鍋に入れられた。湯気とともに美味しそうな香りが広がる。隣では、野菜が蒸されていた。
「それをとって」
指差された方には小さな壺があった。
「塩湖の塩よ」
それを鍋に一つまみ、野菜の方にも同じように振りかけた。出来上がったのは蒸し野菜とお粥だった。器に盛り付けて机に運ぶ。やはり器はばらばらだ。いただきます。手を合わせると、その人はさっき貰った実を自分の皿にのせるよう言った。一度に沢山使ってしまうのは何だか勿体なくて、三粒ずつ置いた。
「ねえ。さっき氷の砂漠の話をしたとき、どうしたの?」
冷たい水を打ち付けられたように心臓が縮み上がった。その人は心配そうに眉を寄せている。言ったらここを追い出されるだろう。寒さを引き寄せる厄介者として。そう思うと、口はぱくぱくと開閉を繰り返すだけだ。
ああけれど、この優しい人をあの寒くて寂しい白い世界に巻き込むのは嫌だ。こうやって暖かい料理を囲んでいる間にも、息はますます白くなり、空気は冷たく澄んでいく。それなら何も言わずに消えてしまいたい。優しい思い出だけがほしい。
「すみません。気分が少し悪かっただけです」
「そう」
少女はよほど思いつめた顔をしていたのか、その人はそれ以上何も聞かなかった。ただ、かたかたと匙が器にあたる音だけがした。
立ち上る湯気が細くなる頃、少女は匙を置いて小さく、すみません、と呟いた。その人はゆっくりと顔を上げ、次の言葉を待つように匙を置いた。
けれどなかなか次の言葉を言えなかった。湯気がさらに小さくなって、遂には見えなくなったとき、ようやく言えたのは
「私が悪いんです」
というものだった。少女は、たとえ追い出されたとしても優しいこの人に自分を知って欲しい、そう思った。その人は訳が分からない、というような顔をした後、どうしたの、ともう一度聞いた。
国から逃げ出したから氷が追いかけてきた。砂漠が凍ったり、霜が降りたりしたのは氷が自分を追いかけてきたから。ここがこんなに寒いのも、自分がいなくなれば元に戻るだろう。
そう一気にまくしたてると、少女は大きく息をついた。顔を上げられない。知って欲しいと思ったけれど、自分を否定されるのはやはり怖い。
「だから昨日できなかった草取りをしたら出て行きます」
本当はそれも放り出して出て行ったほうがいいのだろう。こうしている間にも氷はどんどん近づいてくる。耳をすませば、ぴきぴきと氷の広がる音が聞こえる気がした。
「それで、どうするの」
はっ、と顔を上げると、怒っているのだろう。その人は眉をきゅっと上げていた。
「すみません。すぐに出て行きます」
椅子から立ち上がり出て行こうとすると、そうじゃないの、と続けられた。
「出て行って、元の国へ帰るの?死んだ国と言ったそこで、一人で過ごすの?」
自分が辛いのに、それを隠そうとしないで。最後の言葉は震えていた。この人は怒っているのだ。厄介者としてではなく、自分を誤魔化していることに対して。
「ここにいたいです」
そう言いたかった。けれどどうすればいいのだろう。自分がここにいては、この人の穏やかな日々を壊してしまう。
「本当に帰りたいんです。国を出て分かりました。私にはあの国があっているのだと」
本心を悟られないよう強気に言った。
「そう。じゃあ今から言うのは私の我儘よ」
その人はふうっ、と大きく息を吐き出した。それは白く天井に昇って行った。
「一人でいるのは寂しい。だから、誰かと一緒にいたい」
それは、少女もずっと思っていたことだ。
「その誰かがたとえ寒さを連れてきたとしても、私はあなたを嫌いにはならないわ」
真っ直ぐな視線が伝わってきて顔を上げる。その人は優しく微笑んでいた。
「寒いくらいね、薪を燃やせば気にならないし、ここは元々夜には寒くなるのよ」
この人は優しい。だから一緒にいたい。それに甘えるだけではなくて、一緒に支えあえるようになりたい。
「ここにいたいです」
さっき胸の中で消えていった言葉は、あっさりと口から滑り出た。
少し間が空いた後、よろしくね、とその人は笑った。
すっかり湯気の見えなくなった料理を食べ終えると、昨日の晩のように女の人が器を洗い、少女が拭いた。二人の指先はどちらも赤く染まり、寒さにじんじんと傷んだ。
草取りをします、と言って表に出ると、畑には霜が降り葉を覆っていた。周りの風景は昨日より心なしか白っぽく見える。空には灰色の雲が薄く広がり始めていた。遂に氷に追いつかれてしまった。悔しさが胸に広がり、視界がゆらりと崩れそうになった。けれど、ここで泣いていても何も変わらない。だからせめて、あの人の役に立ちたい、と霜に覆われた草を抜き始めた。
凍りかけている土は堅く、草はなかなか抜けなかった。なんとか全て終えると緑は霜に色を隠されながらも列をなして寒さに耐えている。
昼ご飯は行商人が持ってきてくれた干し肉を使ったものだった。女の人がそれに畑の葉を振りかけると、ふわりと香辛料の匂いが広がった。料理を並べると、そこから立ち上る湯気は朝よりさらに濃くなったようだ。
けれど料理のおかげで、ほっこりと胸の中が温かかった。片づけをする時にもそれは続いていた。
「あの、何かすることはありますか」
器を棚に戻す時に聞いた。けれどその人は、無いわ、と言うだけだった。
昨日眠らなかったこともあるのだろう。ご飯を食べたせいか、急に眠気が襲ってきた。うつらつらと頭を揺らしていると、女の人は横になればいいわ、と布団を出してくれた。
「でも、氷が」
「大丈夫」
その人は暖炉を指さして、
「薪を沢山入れるわ。そうすれば、氷は皆溶けるから」
そう言って暖炉に薪をくべると、そこは一気に光を増した。ぱちぱちと薪の爆ぜる音が耳をくすぐると、お休みなさい、という声を聞きながら眠りに吸い込まれていった。
薄い光の中目が覚めた。とても柔らかな眠りだった。何か幸せな夢を見ていたが、目を覚ました瞬間忘れてしまった。毛布の中で暫くもぞもぞとその余韻に浸っていると、不意にひんやりとした空気が頬を撫でた。眠る前に大きく聞こえた薪の爆ぜる音は今は聞こえない。早鐘のように鳴る心臓を押さえつけて毛布をめくると、徐々に部屋の様子が見えてきた。
机も椅子もその表面に霜を纏わりつかせ、暖かな雰囲気はどこにもなかった。布団を跳ね上げて部屋を見ると、その人は椅子に座ったまま目を閉じていた。ほっとして駈け寄り何度か声をかける。しかし目を開けなかった。揺すろうと肩に手を置くと、あの国でいつも感じていた冷たさが伝わってきた。柔らかだった手は堅く凍り、ふわりと笑って見せた頬は動かない。体から力が抜けてぺたりと座り込んでしまった。
するといつか見た光る鳥がそこにいた。鳥は大きく羽ばたいた。
『振った星は寒さを連れて、国を一つ凍らせた。星があるとき氷が育ち、世界を白く染めていく』
鳴いた鳥は家の奥へ跳ねて行った。その姿はもう見えない。
あの鳥は警告してくれていたのだ。流れ星はきっと自分のことだ。氷が追いかけてきたのではない。自分がそれを広げていったのだ。
少女は声をあげて泣いた。けれどその人の目は開かない。幾つもの涙が転がっていった。
氷は皆溶けるから、そう言うのならこの人の氷を溶かしたい。彼女はふらふらと立ち上がると、薪をくべて火をつけた。
彼女は今日も暖炉を燃やす。白く閉ざされた家の中で、優しい人の目を覚ますため。耳をすませばぱちぱちと、薪の爆ぜる音がする。