江波 千草(えなみ ちぐさ)一
「今日も全員揃っているな。残り半年、体調には特に気を付けろよ。大事な時期だから頑張らないといけないのはもちろんだが、根を詰めすぎて身体を崩しちゃ意味がないからな」
担任の宮野の目には普段見せない熱を帯びているように見える。自分のクラスがちゃんと受験戦争に勝ち残れるか。峰山高校は一応進学校なので、基本的に皆進路先は大学になる。このクラスも確か全員進学希望だったはずだ。
確か。
そうだ。私はこのクラスの事をちゃんと分かっていない。
一年も、二年も、そして今いる三年のこのクラスでも、私は結局孤独を貫いた。
友達が欲しいと思った時期もあった。けど、無味乾燥な会話をしているより、世に溢れる文学に触れる時間の方が大切だと気付いてからは、事務的な必要なもの以外周りとの関係を絶った。
私の世界と時間は本と共に流れた。
皆が現実の中だけにいる間、私はいろんな世界を本を通して漂った。作者が創った様々な物語が私にいろんな事を、いろんな感情を教えてくれた。
でもいよいよ受験を迎え、本を読む時間を勉強に割かないといけなくなった。
幸い勉強はそこそこ出来るし、自分が目標に定めた大学は偏差値的にも問題ない。かと言って油断は出来ない。あくまで今の学力での話だ。今の学力を維持するだけではなく、少しでも高い位置に持っていかなければ、万が一が起きてしまう。それは自分にとっても、親にとっても恥だ。それだけは避けなければならない。
思わずため息が漏れる。受験が終われば、今まで以上に本を読もう。
そんな日々を想像すると、自然と頬が少し上がる。
でも。受験が終わり、卒業した先には――。
――とにかく、今は頑張ろう。
「ただいまー」
「おかえりー」
我が家に帰ると、食卓には素朴ながら丁寧な食事が並んでいる。
毎日毎日凄いなと私は素直に母に感心する。一度その事を口にした事があるが、
『好きだからやってるだけよ。千草の本と同じ』
と優しい微笑みと共に、事もなげに答えた。
尊敬する母親。私が友達も作らず、ひたすら本を読み続ける事にも、何も言わずに見守ってくれている。
『千草、そろそろ新しい本棚でも見に行くか?』
そんな母と同じぐらい温和な父親。そして私を凌駕する読書量を誇る本読みの師匠。
『本はな、読めば読むほど自分にとっての財産になる。いい本を読め。いい本に出会う為に、いっぱい本を読め』
仕事をしながら一体どうやって読書にそこまでの時間を割いているのか。特に夜更かしをしているわけでもなさそうなのに。私が一冊読む間に、父は二、三冊読み終えている。父のペースは未だに衰える事を知らない。まだまだ父には遠く及ばない。
この家族に生まれてよかった。だからこそ本の素晴らしさに触れる事が出来た。
私は本を読む度に、そんな自分の環境の事を嬉しく思い、心が満たされる。
「あっ」
三年生の春。学校の図書館。
本に伸ばした私の手に、同時に伸ばした木崎君の手が触れた。
あまりにそのシチュエーションが漫画的で顔を見合わせ私達は思わず笑った。
「まただね」
彼は静かに言った。
こんな事あるんだねと私が口にすると、「何があってももう驚かないよ」とさらりと言いながら伸ばした手を引っ込めた。
「あれ、いいの?」
「うん、僕はいつでも読めるし」
彼の言葉に思わず寂しさを覚える。でも当の彼の顔には感情はどこにもない。それが一層私の中の寂しさを搔き立てた。