氷ノ中デ見上ゲル青
今朝、エルヴィアンカスティナッセから三度目の催促が来た。
――一刻も早く《Fizz》に来い
いったいいつから「一刻も早く」なのか、もはやわからなくなっている。
僕は眠たい眼をこすってディスプレイを見上げると、そのままプチン、と画面を《off》にした。といってもこれは寝ぼけた反動であって、故意ではない。その拍子に入ってきた朝陽に「うッ」と怯み、僕はそのまま蒲団の中に再びもぐりこんだ。だいたい、彼も意地が悪い。僕がどんなものより――例え《ママ》が作ってくれる大量のグリーンライスよりも――朝に弱いってことを、エルヴィアンカスティナッセは知っているはずだ。それなのに、どうしてこんな時間に《mail》なんて出すのか。
Pipipipipipi……
何ごとかと驚いて、がばッと起き上がる。とたんに頭が揺れた。情けないけれど、しかたがない。低血圧患者の宿命だ。
驚くことなんてなかった。携帯電話の電源は《on》にしたままだったんだから。
さながらホラー映画に出てくるお化けのように蒲団から這い出ると、弱視の眼をいちだんと細めてボタンを捜す。
――一刻も早く《Fizz》に来い
まったく同じ文面だとおもしろくないを通りこして気を悪くする。やっと覚醒しはじめた頭をのそりと上げて、寝ているあいだにどこかに消えた眼鏡を捜した。
――この時間に僕を起こそうというのがまちがいだよ、エル
――やあ、起きたね。それじゃあ着の身着のまま、《fizz》に来てもらおうか
――どういうことか、説明がほしい
エルのなんでもないふうな態度が気に入らなくなって、ついつっぱねた。
――怒るなよ。とりあえず、《fizz》においで。そうしたらわかるから
僕はしかたなく「わかった」と伝えた。このまま云い合っていても埒があかないと思ったからだ。
亀みたいにのろのろと着替えて部屋を出た。やけに視界が曇っているなと思ったら、眼鏡が埃だらけだった。こんな状態で外なんかを歩けば、寮長が耳を尖らせて怒るにちがいない。彼女はそういう変わったところに厳しいので、逆に助かる場面が多い。僕は急いで眼鏡の汚れを拭き取ると、気まぐれな友人のもとへ向かった。
気まぐれとは甚だ控えめな表現だ。僕の友人エルこと、エルヴィアンカスティナッセ――長いファーストネームは家系なのだそうだ――は、気まぐれを通りこした、変わった少年だった。何を考えているのかまったく読めず、いきなり突拍子もない行動を起こす。
この前なんかは「猫の集会が見たい」とか云い出して、この、規律の厳しさは国内随一とも云われる《都市》から、夜中にこっそり抜け出してしまった。そして驚くことに、いかなるセキュリティにも引っかかることなく生還したのである。他の人間なら、1分と待たずに引っかかってしまうにちがいない。
ちなみに、彼は戻ってきたあと僕にこう云った。
「猫の集会を捜していたら鼠の会合を見かけたよ。奴ら、リーダーを決めるのでえらくもめてた」
とにかく、エルはあらゆる意味で、他の同年代の少年たちから一目置かれるような存在になっている。それに僕がそんなエルと行動を共にしていることを、彼らは不思議に思っているようだ。それは自然の成り行きの結果によるものだから、しかたがない。
それに加えて、彼らがエルをより近づき難い要因にしていることがある。
エルヴィアンカスティナッセとは「聖なる堕天の奇妙な眼を持つティナッセ」と云う意味なのだと、以前本人から聞いたことがある。エルは右眼に氷蒼色を、左眼に紅蓮色を持ったオッド・アイなのだ。そんな眼を持つ人間など希なため、エルは今まで心から打ち解ける相手を持たなかった。僕に対しても最初の頃はそうだったけれど、今はなんとなく一緒にいるといった感じになっている。
自分でも不思議なくらい、彼は僕の心にすんなりと入ってきたんだ。それはエルも同じだったと思う。ちなみに「ティナッセ」が名前と云えば名前なんだけど、そんなことを知らなかった僕は今でも「エル」で通している。
「やあナツメ、おはよう。いい天気だね」
憎たらしい朝に見るエルの容貌は、僕にはどんなに整っていようと憎たらしいものにしか思えない。それほど、彼の笑顔は朝に似合った爽やかな笑顔なのであり、僕は朝を心から嫌っているのだ。
「新手の虐めか、エル」
エルに手招きされて椅子に座ったと同時に、僕はありったけの力をこめて――何せ朝だから力が入らない――エルを睨んだ。しかし予想通り、エルはさらりとそれをかわして、また爽やかな笑顔を向ける。やめてくれ頼むから。
確信犯エルヴィアンカスティナッセは前置きなく「何がいい?」と訊いてきた。
「何がって」
「朝食さ。まだだろ?」
云われてみれば。思わずお腹に手を当ててしまう。エルは僕の条件反射を見てクスッと笑うと、店員に焼き麵麭セットと珈琲をふたつ頼んだ。
「新作なんだって。試食してほしいってさ」
そう云うと奥の調理場にいるコックを見た。眼が合ったコックはニコリと笑った。
料理長の新作らしい麵麭がまもなく運ばれてきたが、僕は見た目の感想を云うことなくかぶりついた。腹が減ってはなんとやらだ。一方のエルは、こんがりと焦げ目がちょうどいい具合についた麵麭をしげしげと眺め、調理場から覗く料理長に「焼き具合は最高だ」とばかりに親指を立ててみせた。視線の端に、満足そうに笑顔を作る料理長の姿が入った。
「どう?」
唇に麵麭の欠片かけらを付けた僕にナプキンを渡しながらエルが訊いた。
「味のこと? だったら美味しい、と云っておくよ。もっとも、僕に味わえと云うのがまちがってるけど」
僕が味覚に無頓着だと云うことは、エルも充分承知している。
「そうだね。君が吐かないところを見ると、食すに値する代物なんだろう」
本気か冗談かとれない科白を吐いてよこし、エルは麵麭をちぎって口に放り込んだ。
《fizz》は《都市》の地下にあるレストランやバーなどの、ごちゃまぜにした空間のひとつで、人工的な淡い光を散らしたライトがテーブルの上に掛けてある、僕がどちらかと云うとお気に入りの処だ。この時間は朝食を摂る人間たちで適当に賑にぎわっていた。
「ところで、何度も送ってきた『一刻も早く来い』って、どう云うことだよ」
だいたいお互い食べ終えたところで、ようやく話を再開してエルに訊いた。
「だって、こうでもしないと一生来ないと思ってさ」
僕をなんだと思っているのか。
「じゃあ、騙したんだな」
「そうとも云うね」
いけしゃあしゃあと云ってのけるオッド・アイは、
「でも本当のところ、『一刻も早く』って云っておかないと、オレは確実に昼までここにいなくちゃならないと思ったからね」
「じゃあ直接僕の部屋に来ればいいじゃないか」
「来るなって云ったの、ナツメだろ?」
まさか。僕はエルにそんなことを云った覚えはない。何かのまちがいだろう。
「それに、例え行って起こしたとして、殴られるのがオチだし」
「僕がいつ君を殴った?」
「2回。どうせ寝ぼけてたんだろうけど、あれはひどいよ」
どんな夢を見ていたんだか、とエルは片肘をついて顎を乗せた。
「話を戻そうか。じつは、今日の冒険に、君を誘おうかと思ってね」
「冒険……って、まさか」
僕の不安になっていく表情を見、けれどもエルはいっそうの笑みを浮かべて続けた。
「この前、《都市》から南に向かって……そうだな、バギーで1時間ほど行った処に、おもしろいものを見つけたんだ」
「おもしろいもの?」
と聞き返す以前に、僕は重大な問いを投げかける義務を得た。
「エル、君、いつのまにそんな遠くまで出かけたんだ。この前っていつだよ? そんなに長い時間自由にすることなんて、ここ数日はなかったはずだぞ」
ここ数日とは、僕ら《生徒》に与えられた定期考査期間のことだ。この期間内はいかなる理由があろうと外出許可は一切出ない。自由時間も監視のもとでしかとれないはずだ。その監視の《眼》をかいくぐって、あろうことかバギーに乗って――一応、エルは免許を持っているけれど、これも貸し出し許可がないと使えない――1時間も《都市》の外にいたなんて、信じられないを通りこして、サイコウだよ、エル。
「まあ、いいじゃないか。そんなこと」
結局、僕とエルは朝食後、《ママ》の《眼》を盗んで脱出を試み、見事成功したあと《おもしろいもの》を見に、乾いた大地の果てへ駆け出した。
―――了