第二話 クチバシ犬の襲撃
初めて異世界を救う勇者になったのは十五才の冬だった。
あの日、受験を間近に控えた俺は「突然異世界に飛ばされて勇者になれたりしないかなぁ」等と愚にもつかないことを考えながら椅子の上で伸びをした。
そして、突然その通りになった。
何者かの肯定的な雰囲気を感じた瞬間、俺は水の中に落下した。
幸いにも水は浅く、すぐに飛び起きた目の前に全裸の少女がいた。
彼女は水の巫女を名乗ると、俺に勇者として世界を救ってほしいと懇願した。
訳が分からないまま勇者になった俺は、彼女とともに戦いの日々を送り、五年かけて魔王を討伐した。
厳しいが、素晴らしい冒険だった。
そして、世界を救い終わり、水の巫女と結ばれようとしたその晩に、俺は元の世界に戻された。
ありがたいことに俺は浦島太郎にはならなかった。
元の世界では半年ほどしかたっていなかったからだ。
五年間の戦いでついた幾多の傷は消え、鍛えた体も全て元通り召喚前の貧弱なものに戻っていた。
そして入試の期日は過ぎていた。
以来十年、俺は気配以外何も感じさせない正体不明の存在によって度々異世界に送り込まれては、それを救ってきた。
そして今いるこの異世界は、俺にとって十三番目の異世界ということになる。
*
俺達は、石畳で舗装された街道を北へと進んでいた。
いや、退却しているのだから戻っていたというべきか。
馬も人も、疲れ切った表情で地面を見つめながら足を引きずるようにして歩いている。
無理もない。
昨日の敗戦以降、不眠不休で行軍を続けているのだ。
それでも歩き続けられるのは敵の追撃が怖いからだ。
オーク共は人間を捕まえると、生きたままその肉をそぎ落とし、本人の目の前でうまそうに喰らうらしい。
恐ろしいことだ。
街道は放棄されて久しいらしく石畳もガタガタになっていたが、それでも周囲の荒野を進むよりはずっと進みやすかった。
おかげで随分と距離を稼ぐことができたが、それは敵も同じことだろう。
幸いにも、まだ敵勢には追いつかれていない。
振り返ってみても、焼け落ちた水車小屋の残骸が燻っているのが見えるだけだ。
会戦以来、リーゲル殿はずっと沈み込んでいた。
敗戦そのものよりも、リアナ姫を守れなかったことが堪えているらしい。
彼は、まだ姫が幼かった頃に御付武官を務めていたと以前言っていた。
「……本隊が丘の向こうで壊滅したのは、不幸中の幸いでしたな」
リーゲル殿が自嘲気味につぶやいた。
「えぇ、そうですね」
もし、あの殺戮が本陣から見える位置で起きていたらどうなっていたか。
おそらく本陣の非戦闘員は恐怖に駆られててんでバラバラに逃げ出し、大部分はあの戦場からそう遠くないところで捕捉されてしまっていただろう。
だが、幸いにもそうはならず、秩序を保ったまま退却に移ることができた。
リーゲル殿の冷静な指揮あってのことだが、幸運に助けられたのも確かだ。
神官たちはある意味騎士より貴重な存在だ。
これをほとんど無傷で離脱させられたのは大きい。
食料をはじめとした荷物の大部分を置き捨てる羽目になったが、こちらは諦めるしかあるまい。
敵の追撃が遅れているのは神殿騎士団の活躍のおかげだった。
諸侯連合軍の生き残りによれば、それはもうすさまじい戦いぶりだったようだ。
〈光の槍〉を振るいつつ敵陣に突入した彼らは、たった五百騎で三つの方陣を壊走させ、敵の本陣を強襲すべくさらに奥へと突進を続けた。
しかし、多勢に無勢。敵の死体を踏み越えるごとに彼らの勢いは失われていった。
さらに二つの方陣をつぶしたところで力尽き、その軍旗とともに敵の群れの中に飲み込まれていったという。
そして、その混乱を突いて百騎余りの騎士たちと、歩兵隊の内、負傷者を救護するため丘の上に留まっていた者達が離脱に成功した。
もっとも、その報告はリーゲル殿の気持ちをますます沈ませた。
なにしろ、彼が守るはずだった姫の死によって、自分たちが守られる結果になったのだから。
彼女はどんな最期を迎えたのだろうか。
オークに捕まった女性には、男のそれとは違った意味で悲惨な運命が待っているという。
武人に相応しい最期であったことを願わずにはいられなかった。
後方から警告の声が上がった。
振り返ると、先程通過したばかりの森の中から奇妙な動物が飛び出してくるのが見えた。
一見すると狼に似ているが、口があるはずの場所には鷹に似た鋭いクチバシが生えている。
その背にはあの忌々しいオークが跨っていた。
ざっと見たところ百騎ほど。ついに奴らの先鋒に追いつかれたのだ。
殿を務めていた生き残りの騎士たちが浮足立っているのが見える。
丁度いい、ひとつ勇者の力を試してみるとしよう。
この世界の敵に、俺の力がどれだけ通用するのか確かめるいい機会だ。
「リーゲル殿、助太刀してまいります」
「お気を付けを! 奴らは短い銃を持っておりますぞ!」
リーゲル殿の警告を背に受け、馬を走らせながら〈光の盾〉を発動する。
これは神殿騎士たちが使っていた魔法だ。
俺は魔力の流れや、発現のさせ方を直感的に理解できる。
おかげで、その世界の魔法の類のほとんどを、一度見ただけで使えるようになる。
これも俺を異世界に送り込む謎の存在から与えられた恩寵の一つだ。
全速力で馬を駆り、慌てて横隊を組みつつあった騎士たちを飛び越えてオークたちの前面に躍り出る。
真正面にいたリーダーと思しき片目のオークが俺に向かって短銃を発砲した。
キィーン!という甲高い金属音が響き、〈光の盾〉が銃弾をはじく。
周囲のオーク騎兵は俺を半ば包囲するように動きながら銃口を向けてきた。
俺は両腕に〈光の盾〉を発動させ、発砲を待ち受ける。
次の瞬間、左右併せて十発近い弾丸を受け止め、〈光の盾〉が激しく明滅した。
同時に耳障りな金属音が響き、光とともに俺を幻惑させる。
だが、耐えきった。
俺の無事な姿にオーク達は明らかに動揺している。チャンスだ。
右手の〈光の盾〉を解除し、代わりに〈光の槍〉を発動させる。それを一番手近にいたオーク騎兵に投げつけた。
槍は狙い違わず命中し、そいつの心臓を胸甲ごと撃ち抜いた。
さらに俺はもう一本の槍を出現させると、先ほどの片目のオークを探す。
そいつすでにこちらに背を向け、発砲を終えた他の騎兵とともに後退しようとしていた。
ほんの僅かだが、奴らの方が足が速い。
距離を取って再装填するつもりだろう。
そうはさせるものか。
その背を追いながら俺は槍を投げつけた。
槍は光の軌跡を残しながらまっすぐ奴に向かって飛んでいく。
命中する直前、片目のオークが体を捻って振り返った。
槍は奴の脇腹をかすめて飛び去って行く。
片目のオークは大きくバランスを崩したが、完全に落ちる前に持ち直し、ひらりと再び鞍に跨った。
背後からの一撃を、とっさに身を投げ出してかわしたらしい。化け物め。
追い打ちをかけようとしたところで、両翼にいたオーク騎兵たちが片目のオークとの間に割り込むように駆けて来るのが見えた。
とっさに手にした槍を新手の騎兵に投げつけ、再び両手に〈光の盾〉を発現させる。
投げた槍は敵の頭をかすめて飛び去った。
その直後に新手のオーク達の半分が一斉に発砲した。
先程の倍近い命中弾を受けた〈光の盾〉は、さすがに耐え切れず砕け散った。
それと同時に大量の魔力が吸われていく感覚。
会戦の時に、神官たちがやけに消耗していたのはこれか。
どうやら〈光の盾〉は粉砕されたときに大量の魔力を失うらしい。
残りのオーク達は、牽制するようにこちらに狙いをつけたまま隊列の最後尾を守っている。
見事な連携だ。
振り返ってみると、味方はまだはるか後方にいた。
これ以上味方から離れるのはまずい。もう潮時だろう。
速度を落としてオークたちから距離を取る。
苛立ち紛れに左手に槍を発現させ、先頭を駆けていく片目のオークに投げつけた。
槍は光の軌跡を描ながら減衰していき、奴に届く前に消滅した。
オーク達が再び森の中に消えていく。
俺は馬を止めて味方が追いついてくるのを待った。
ひとまず追い払うことはできたが、大した被害は与えられていない。
そのうちまた仕掛けてくるだろう。
*
味方と合流した俺は、喝采とともに迎えられた。
「さすが勇者殿! 見事な戦いぶりでした!」
「あれだけの数の敵をたった一人で撃退なさるとは!」
「一騎当千とはこのことですな」
騎士たちは俺を取り囲むみ、口々に称賛の言葉を浴びせてきた。
リーゲル殿にとっても、俺の戦いぶりは予想以上だったようだ。
「見ておりましたぞ。これほどの力をお持ちとは! さすがは神に選ばれたお方ですな!」
「大げさですよ。仕留められたのは一匹だけです」
「過ぎた謙遜はかえって嫌味になりますぞ。
祝福された装具もなしに魔術を使えるのは神殿騎士の内でも一握りのみ。
あれだけの被弾に耐えられる盾を出せる者は、装具があっても一人もおりませなんだ。
その上〈光の槍〉を投げるなどというのも前代未聞です。
普通であれば手から離れると同時に消え去ってしまいますからな」
なるほど。俺の魔力も、いつも通り世界の平均から見て超人級に強化されてはいるらしい。
「あの〈黒犬〉も、勇者殿の力を見て逃げ出したのでしょう。
確かにささやかな勝利ではあるかもしれません。
しかし、おかげで皆に希望を取り戻すことができました」
確かにあの敗戦の後であれば、小さな勝利であっても大げさに喜びたくなる気持ちは分からないでもない。
もっとも、俺はちっとも勝ったしていなかった。せいぜい引き分けといったところだろう。
「ところで、黒犬ってなんです?」
「なるほど、勇者殿はご存じありませんでしたな。黒いクチバシ犬に跨っていたオークのことです」
あの片目の奴か。そして、あの獣はクチバシ犬というらしい。
「オーク共の将軍のうち、最も狡猾で油断ならぬのがあの〈黒犬〉です。
七、八年前からクチバシ犬の騎兵共を率いて現れましてな。
神出鬼没で小勢を狙って襲い掛かり、多くの騎士達の命を奪っております」
オークの英雄ということか。道理で手強いわけだ。ということはもしかして。
「もしかして、オーク達が銃を使い始めたのは、あいつが現れたのと同時期だったりしますか?」
「いえ、銃自体は随分昔から使われておりますな。
吾輩の若い時分には大した数もなく、加護の魔法も破れない。
大きな音で馬を驚かすだけの代物でしたが……。
今ではあの通り、我々にとって大きな脅威となっております」
俺の気分は沈んだ。これは厄介だ。
オーク共は特異な存在から銃を手に入れたわけではなく、自分たちであれを発明し、発展させてきたらしい。
今まで救ってきた異世界では、人類は地力では敵に勝っていた。
にもかかわらず、それらの世界が滅びかかっていたのは何かしらの特異な存在―― 恐るべき魔力を持った魔王、突然変異の大魔獣、世界を滅ぼす威力の古代兵器といった類のもの――があったからだ。
だからそれをどうにかできればその世界を救うことができた。
それが俺の仕事だった。
だが、今度の異世界は勝手が違う。
どうやら今回の敵は特異な存在に頼るまでもなく、地力において人類を圧倒しているらしい。
数だけじゃなく、おそらく技術力においてもだ。
文明的な意味で完全に負けている可能性が高い。
なにしろ、あれだけの数の銃と兵士を一つの戦場に集めることができるのだ。
もはや俺一人が無双したところでどうにもなるまい。
そもそも、今日の苦戦ぶりを考えれば、無双と言えるほど暴れられるかすら怪しい。
ここは一つ、現代知識で人類を強化するのはどうだろうか?
却下だ。
それは以前に試したことがあった。
結果は散々だった。
単純に見える火縄銃だって、冶金技術を始めとした様々な技術の集大成なのだ。
大まかな構造を知っていればどうにかなるようなものじゃなかった。
その世界に前提となる基礎技術が集積されていなければ話にならない。
うろ覚えの知識で作らせた鉄砲の試射で、鍛冶見習の少年の腕を吹っ飛ばしてしまったことを俺は忘れていない。
そして基礎技術そのものを世界に持ち込むのはもっと困難だった。
何しろ現実世界での俺は、中卒無職のプータローに過ぎないんだから。
結局のところ、俺にできるのは正体不明の存在から与えられた能力を頼りに剣を振り回すことだけだ。
大体の場合、知識を振り回そうとするより、敵の頭を刈るほうが手っ取り早かった。
どの世界もそうやって救ってきた。
これに関しては異世界十二個分の経験を積んでいる俺だ。
誰にも負けない自信がある。
だとしたらやるべきことは一つ。死ぬまで戦い続けるのだ。そう、死ぬまでだ。
不意に背後に正体不明の存在の、期待に満ちた気配を感じた。
"大丈夫。君ならできる"
……とでも言いたげな雰囲気だ。
無責任な奴らだ。ちくしょうめ。
ふと異世界で死んだらどうなるんだろうという疑問がよぎる。
不思議と今までは考えたことがなかった。
なんとなく自分は死なないと思い込んでいた。
勇者だから大丈夫だろう、と。
怖いとは思っても死ぬとは思わなかったのだ。
ジェットコースターに乗っているような感覚。
逆に、なんで今回に限ってこんなことを思いついたのやら。
まぁ、考えるだけ無駄だな。
死後にどうなるかわからないのは、異世界に限ったことじゃないんだし。