嫌な予感
賢ちゃんに告白の返事をしたその日は、ちょうど中間テストの1週間前だった。
日が流れていくのは早いもので、今日はもう、テスト当日を迎えようとしている。
「おはよ、愛」
「おはよ!柚子ちゃん!」
今日の教科は数学、理科、英語。
私は理系が大して得意ではない。
「1時間目の監督先生、誰が来ますかね?」
「さあ?大概担任なんじゃない?」
「でも1時間目数学ですよ?」
「あー…」
A組の担任、坂本先生は数学科担当だ。
ということは、彼女が来るんじゃないだろうか。
「じゃ、福原先生ですかね〜」
愛も同じことを考えたらしい。
「多分ね」
私は少しだけ肩を竦めてみせた。
想像しただけで嬉しくて、ついついニヤケてしまったなんて、当分、誰にも言えないことだ。
「…で、何であなたなんですか…?」
本鈴がなる5分前、教壇に立った由東先生を見て、私の期待は空気を入れる前__いや、それ以上にしなしなになった風船のようにしぼんでしまった。
「ぼ…僕じゃダメでしたか?」
入ってきて5秒でため息をつく私に、由東先生が困惑した声を出す。
「別に、ダメとかじゃないですけど…」
由東先生のことだって好きだ。
人間的には。
でも、人間的な"好き"と、恋愛の"好き"は大分違う。
対話をしている時は同じように楽しいのに、こういう少しだけ緊張する場面で、傍にいてほしいなぁと思うのは、やはり彼女なのだ。
「前から応援してるんで、頑張ってくださいね」
控えめなガッツポーズを作って、満面の笑みで由東先生が言った。
1番質が悪いのは、好きなわけでもないのにキュンとさせにくる"人たらし"だと思う。
結局、今日のテストで彼女に会うことはなかった。
まあでも別に、明日国語だからいっか、なんて、その時の私は悠長なことを考えていた。
「じゃあ今から配るので、静かにしてくださいね〜」
期末の主要教科最後のテストは国語だった。今その問題用紙が由東先生の手から配られようとしている。
2日目も監督として彼女を見ることはなかった。
…私のクラス、嫌われた?それとも…
嫌な予感が頭を掠めて行ったが、気を取られないように少し頭を振った。
「テスト終わりましたね!」
元気そうにはしゃぐ愛の傍らで、1人ため息をつく。
「…あれ?柚子ちゃん、あんまり嬉しそうじゃないね」
隣を歩くあかりさんが私の顔を覗き込む。
普段は大雑把なのに、目敏い。
「まあ、ちょっと」
「あ、もしかして今回そんなに自信なかった?」
「…まあ……」
ニヤニヤと半笑いのあかりさんと愛を見て、私は少し肩の力を抜いた。
「そんなところです」
やめよう。悪い想像をするのは、私の厄介な癖だ。
-7月-
「あ、もうそろそろ帰らないと、下校時刻になっちゃいますね」
「え?あ、そうね」
「ほんとだ〜じゃあ姫、そろそろ帰ろっか」
「ええ」
放課後の委員会の後、由東先生と莉保ちゃんの3人で話をするのは、もうもはや恒例行事となりつつあった。
先生に帰りの挨拶をして、教室を出る。そこでふと、課題で出された英語のワークを教室に忘れていることに気が付いた。
「ごめん莉保ちゃん、先行ってて。忘れ物したみたい」
「んー?OK。ボクもついて行こうか?」
「ううん、1人で大丈夫よ」
階段の所で莉保ちゃんと別れ、猛ダッシュで教室へ向かった。
昇降口は1階、私の教室は3階だ。
階段を駆け上がって、足音を立てずに廊下を歩く。別段悪いことをしているわけでもないのにそうしたのは、単純に、この誰もいない静かな雰囲気に溶け込んでしまいたかったからだ。
「…………」
廊下の奥から人の話し声が聞こえてきて、私はさっと柱の陰に隠れた。
小さい頃好きだったスパイごっこを思い出す。
声の主は私から少し離れたところで話しているようだった。
トーンからして男女1人ずつ…だろうか。
「…じゃあ、通院ですか?」
「うん…まあね」
周りの音に慣れてきた耳が、2人の声を捉える。
坂本先生と、彼女だ。
「とりあえず休日に検診入れてもらうことにしたから。まぁ、もしかしたら急に早退するとかになるかもしれないけど」
通院?検診?何のことだろう。
脳裏を掠めた嫌な予感に、思わず身震いする。
「へぇ〜…分かりました。知ってるのは僕と?」
「何人かよ。蒼司君と歩ちゃんには言ったし、由東君とえりちゃんも知ってるから」
高野先生、重野先生、由東先生、戸間先生。皆が知ってる、彼女の秘密。
「でも生徒達には言わないでね」
そして生徒は知ってはいけない秘密。
ワークは諦めていなかったことにしよう。そう思って、物陰からそっと姿を消そうとした時だ。
カバンにつけていたキーホルダーが、見事に音を立てて壁にぶつかった。
完全に、私の不注意である。
「誰?」
彼女の怪訝を含んだ声が聞こえる。
恐る恐る、私は物陰から姿を現した。
「は、羽山?」
「柚子ちゃん」
「いやあ…なんか、すみません」
気まずくなって頭を搔く。
「今の話、聞いてた?」
彼女が珍しく弱気な声で問うてきた。
「…ええ、まあ」
しらを切って通そうか、そんな考えが頭をよぎったが、なにぶん、好きな人に嘘はつけない質である。
彼女は少し不安そうな顔をしたが、私にバレるまいとムキになった笑顔を向けた。
「大したことじゃないんだけどね?」
その声と雰囲気が合っていないのは、普段人の感情に疎い私でも分かった。
「あんまり皆に心配とかかけちゃアレだから、内緒、ね?」
「は、はい」
さっさと下に降りていく彼女。
私は残されたままぼうっと突っ立っている坂本先生に詰め寄った。
「先生、どういうことですか?」
「え、えーと…」
先生はしばらく、言いにくそうに口ごもっていたが、私の圧に押されたのか、観念したように口を開いた。
「この間、テストの日にな、福原先生を全然見なかったやろ?」
「ええ、まあ」
うちの監督には1回も来なかった、例のあれだ。
「その時、入院してたんだよ、福原先生」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
にゅういん、という単語が、ゆっくりと私の中で漢字に変換される。
にゅう、いん…入院?
って、病院に入るあの、入院?
「ほんまにオフレコなんだけど、先生はどうやらストレスのかかりすぎで体調崩したみたいで…っておい、羽山?」
遠くで最終下校のチャイムが響いた。
私には何も、理解できなかった。




