ワタシにとっての奇跡
ショー会場に向かうための準備を始めた時だった。
部屋にある、古い形の電話が鳴った。
「遥、どう調子は?いよいよだね!」
相手は、ヘアメイクアーティスト『中村百合』からの国際電話だった。
「うん、いよいよだよ。」
「また、緊張してるんでしょ。いつもみたい、両手と両足が一緒に動く感じじゃない?」
「それが・・・。今回はそう言うことがないんだよ。」
『中村百合』との付き合いも5年位になる。同い年で、お互いの下積み時代も同じ時期だった。人を介して知り合ったが、正反対な性格が逆にお互いの魅力となり、厳しい業界の中、気が付いたときには、本音を言える数少ない友人になっていた。日本では、彼女が専属でワタシのメイクを担当している。
「へえ、珍しいね。あれかな、きっと、”飯島のお姉さん”が守ってくれているのかな?」
「かも知れないね。ハハ。でも、昨日のゲネプロは散々。ワタシがライン通りに歩けなくて、全員やり直しになったりして、周りから白い目で見られたよ。」
因みにゲネプロとは、ショービジネスではリハーサルのことを言う。
「ハハ、結局、日本でやっていることと変わらないね。でも、それでも堂々として、オーディション受かるんだもんね。それがやっぱり遥の凄さ、センスなんだよ」
センス・・・。センス、なのかぁ~。
ワタシはこの『センス』と言う言葉があまり好きではない。
中学で始めたバレーボールもセンスだけでレギュラーになれた。しかし、ワタシのセンスは人間関係までは作ってくれなかった。でも、若しかすると・・・ワタシには『運』と言うものはあるのかもしれない。
それを強く感じたのは、中学2年が終わる少し前に起こった奇跡だ。
その日、ワタシは午前中に学年末試験を終え、午後から智代と2人で千葉市内へ買い物に行く約束をしていた。
ところが智代は前日から高熱をだし、フラフラになりながら学校で試験を受けていた。
「ハルちゃんゴメン。今日はもうダメ。」
「トモちゃん、いいよ気にしなくて。それより帰ろう。」と、小さな智代に肩を貸し、ワタシは彼女の自宅まで送っていた。
その後、ワタシは何故か久しぶりに家の手伝いをしようと思い、自宅の横にある両親が経営する『食堂』へ向かった。丁度お昼の時間帯で、店も混んでおり母親から「来たんだったら、其の儘すぐ手伝って!」と大声で言われ、中学の制服を着たまま注文、配膳等を流れるようにやった。
午後1時過ぎ、いつの間にかお客さんは疎らになり、ワタシも店の隅で、賄で父親が作ったカレーライスを食べていたその時だった。
硝子越しから1台の『小型のジープ』が、食堂の駐車場へ入ってきた。
”お昼最後のお客さんだ。”とワタシは呟いていた。
特に気にすることもなく、ただボーっとその車を見ていた。
車が止まり、中から、若い男女のカップルが降りてくる。
男性は普通の大学生に見えた。女性の方はサングラスをしている。ただその女性が着ているものは、ワタシが最近良く買って読んでいるハイティーン雑誌に載っているお洒落な服装と同じだ。
”スタイルも良いし、きっと綺麗な人だろうな”と思いながら、ワタシは、食べ終えたカレーライスの食器を厨房へ持って行き自分で洗い始めてた。
若いカップルは、厨房から遠い奥の席に着いたようだ。ワタシの母親が、注文を取りに向かった。
「この街はやっぱりお魚ですか?」と、心地よい女性の声がした。
「勿論!漁港もあるし、全て新鮮よ!」と、母親。
「じゃあ、お刺身定食!ね、いいでしょ」と、女性が男性に尋ねる。
「あ、うん、じゃあ、オレも」と、男性も返す。
食器を洗い終わったワタシは、厨房から出て、そのカップルが座っている奥の席を見た。女性の方はこちら側を向き、母親と朗らかに話していた。既にサングラスは外しており、その姿は、透き通るような肌、小さな顔、そして目鼻立ちが整った美しい人であった・・・と最初、ワタシは思った。
振り返り、次の瞬間、ワタシは叫びそうになった。
”飯島久仁子さん!・・・。なんで?なんで?ここにいるの?”
と、心の中だけで騒いでいた。ワタシらしい騒ぎ方だった。
その後、ワタシは少し離れた場所から、『久仁子さん』を見ていた。
母親に、料理を運ぶよう言われた気がした。気がしただけだったので、何もなかったことにした。
兎に角、信じられない光景をワタシは暫く眺めていた。
一緒にいた男性と何か話している。彼女は笑っている。笑顔も素敵だった。
”美しいってこういう人の事を言うんだ。そして、なんて自然な振る舞いなんだ。彼女は女神様なんだきっと、素敵だ!”と、間もなく中学3年なるワタシは感じていた。
『久仁子さん』は食事が済むと、店の中を歩きだした。
そして、反対側の壁に貼ってある、色あせた古い『房総半島』の地図と『房総フラワーライン』のポスターの前に行き、今から、館山方面に行くようなことを男性と話していた。
”もうこんなチャンスは絶対ない!例え上手く喋れなくても、今、話さなければ!”と、意を決し、『久仁子さん』へ声を掛けた。
「あの、すみません」
「はい」
「あの・・・。お姉さんはこの雑誌の人ですよね?」
その時どう『久仁子さん』を呼んで良いか判らず、思わず『お姉さん』と呼んでしまった。
「うん、そうだよ!見てくれてありがとう!」
「飯島久仁子さん・・・ですよね。この雑誌に久仁子さんが初めて載った時からのファンです。だって、他の人と久仁子さんはセンスが全然違うんです。もの凄くカッコいいお姉さんって感じなんで」
何か可笑しい。判っていたのに、『飯島久仁子さんですよね』って何言ってんだろ。で、また、『カッコいい”お姉さん”』だって、もっと気の利いた言い方だってあったはず。
「へへ。そう。照れちゃうな。」
「あのあの、ここにサインしてください!」
「いいよ。でも、写真は勘弁してね。今日はこの”運転手”さんに付き合って貰っているプライベートだから」
「はい、分かりました。」
恐らく短い時間だったんだろう思う。でも、ワタシにとっては夢のようなゆっくりとした時間だった。
『中村百合』との電話が終わった後、もう一度、『ボロボロになった雑誌の切り抜き』を見る。そこには、もうかなり薄くなっているが、飯島久仁子の写真の横にローマ字で『KUNIKO.I』とボールペンで書かれたサインが入っている。
「この小さな雑誌の切り抜きがワタシの原点。お姉さん、頑張って来ます!」と、もう一度、その切り抜きに向かっていった。
「さあ、行くぞ!」、ワタシはアパートを出て、コレクション会場へ向かった。