第2話 茶柱が立つ日
1
タクラカツ村から、北へ一〇〇キロのところにその町がある。
ウジ。古来からの、緑茶系の茶葉の名産地だ。土地の名が冠された代表品種は、広く世界に親しまれている。
標高二六〇〇メートル。独立峰シガラ山の中腹の緩斜面に開かれたその町は、排水溝が充実し、天候の激変による水の害に完璧に対応している。
茶木の栽培にも、自動折り畳み式ビニルハウスをいち早く導入するなど、最新のテクノロジーの摂取に積極的だ。
こうしたハイテクばかりではない。
町民は誇り高く、仕事熱心で、それがウジの名声を支えているのだ。
※
チャコ・唐草特級(特一級)魔女がこの町に足を踏み入れたのは、四月の中旬。今年十三回目の真夏の一日の、夕方のことだ。
南東に沈む夕日を浴びながら、黒色のミニスカワンピ・ニーソ姿のチャコは、リュックにまで届く黒髪を揺らし、一軒の宿屋の門をくぐった。
福富屋旅館、と看板にある。
奥に声をかけると、ブロンドを後ろで束ねた、緑色の瞳の、大柄な女将が笑顔であらわれる。チャコはその着物姿の女性に、二階の奥の六畳間へと案内された。
出された宿帳に、
「畑山里子・二級魔女」
と記入する。
偽名を使ったのは、故郷からの捜索者の目をごまかすためだ。
階級を偽ったのは、そのほうが自然だったからだ。
さっそく、
「へえ! もしかして、独立したてかい?」
と女将が訊いてくる。
「はい……」
とチャコ。ここは神妙な態度だ。
「その歳で……優秀なんだねェ」
「いいええ……」
「就職先を探しているのかい?」
「そのようなものです。あちこちと、社会勉強をかねながら……」
「いいわねぇ。若いうちよう、そんなことできるのは」
「この町には、どなた様がいらっしゃいますか?」
「お陰様でウジは裕福だからね。パパンドレウー様とアストラス様、お二人の一級魔女様がいらっしゃるよ」
「そう……」
「そんなに気を落とさないで! 若いんだから。これからいくらでもチャンスあるわ」
「ありがとう」
「お嬢ちゃんいい時期にきたわ。明後日にね、今年初の茶摘み祭があるの。ぜひ、見ていってね。おいしいお茶、ふるまってあげる。……こんなもんじゃ、ないわよ」
と言いながら、急須のお茶を茶碗に注ぐ。
「ありがとう……」
「なにか、預かっておくものある?」
チャコは全財産――の一部――を荷物から出す。強盗団から巻き上げたお金だ。
全額預ければ、かえって勘ぐられるだろう、そんな大金だ。
「わお! お嬢ちゃん、金持ちなんだねえ」
「いいえ……行く先々で、薬草とか、鉱石とか、探して歩いてますから。それに、あんまり使わないんです」
「なるほどね。……じゃ、ごゆっくり!」
女将は部屋を出て行った。ドスドス、という足音が遠ざかる。
「……ふぅ」
チャコ……自然と、くすぐったい笑みがこぼれた。
まずは第一関門クリア! なんだかそんな気分なのだ。なんたって、正体を隠すなんて、生まれて初めてのことなんだから! 名前まで偽って、ちょっとドキドキ。わたしは今、とっても自由だ! そんな思いが胸を突き上げる。
涼しい風に誘われて、開け放たれた窓の外を見ると、はや満天の星空だった。
チャコは座卓の菓子を手に取った。和紙の包みを開けると、白い、砂糖菓子。一口かじると、上品な甘みが広がる。その余韻を楽しみながら、茶碗を手にとる。
ほどよい熱加減だということが、器を通してわかる。
香りもいい。
一口含むと、はたしてお菓子に見事に調和した味わいだ。
(お見事……)
チャコはため息をつく。なんておいしいんだろう、と思う。
急須の蓋をあけると、ああ、なんと贅沢なことに、鮮やかな緑色だ。これで普通なんだったら、その明後日のお茶のレベルは、はたしてどれほどのものなんだろうとワクワクする。
さすが名産地。口元がほころぶ。すうっと、緊張がほぐれるのを感じるチャコだ。
2
翌朝、うわあ上天気! チャコはさっそく見学にでかけた。
「気をつけてね」
と、女将――イレーネ・ストラベラキス――が声をかける。
「はあい!」
表に出て、ちょっと庭を覗くと、宿のご主人、エドワードがいる。盆栽をいじっている。盆栽いじりが好きで、めったに帳簿を見ない、と昨夜女将がこぼしていたことを思い出した。
チャコはクスリと笑うと、町中に走って行く。
お茶はもとより――せんべい、羊羹、おまんじゅう。――絵葉書、杖、木刀、ピンバッチ。ブリキのおもちゃ、ぬいぐるみ。……色とりどりの土産物が並べられている通りを抜けて、農道に入り、突っ走ると、いきなり眼前に茶畑が広がった。
青空に、白い雲がちぎれ飛び――ウジ自慢の最新設備の早緑の茶畑。広い広い、シガラ山の、お茶の畑だ。風が冷たく、心地よかった。
自慢の排水溝が、整然と並び、どこまでも伸びている。
茶木の列のわきに、ハイテクビニルハウスが、今は折り畳まれて置かれている。
なるほどなるほど――自然と科学が美しく調和した光景だ。
上昇気流にのって、葉の匂いが流れてくる。チャコはもう、たまらなくなってしまった。
大声を上げたい! 辺りかまわず走り回り、転げ回り、吠えまくり、跳ね上がりたい! もう体中がむずむずして、しょうがなかった。もし人の目がなかったら、本当にやっていたことだろう。
畑では、何人かが作業をしていた。
何をしてるのかな、雑草でも抜いてんのかしら、機械のようすを調べてんのかしら――? キラキラと目を輝かせて見つめていると、その視線に気付いたのか、
「ほうーい……」
その中の一人が、声をかけてきた。腕を振っている。
「いらあっしゃあいい……」
チャコはうれしくなって手を振ると、まるで犬っころのように駆け出した。
行ってみると、満面の笑顔の赤毛のおばさん、お茶畑の農婦だ。休憩中だったのだろう、荷物が散らばっているござの上に座っている。荷物の中に、バッテリー式のコンロがあって、その上にはヤカンがおかれていた。
「お祭を見ん来たんかい」
「そうでーす! きれいな茶畑! 感激です!」
農婦は顔面に笑い皺を作り、
「がははあ。こそばい、こそばい。茶あ、好きか?」
「大好き……もう大好き! 一度見に来たかったの! もう死んでもいい!」
チャコは今にも泣き出しそうだ。
「おおげさだごと。見るたって、ほれ、こんな畑、あんまし、おもしろくねべ。おもしぇ客人だごと」
農婦は、おいでおいでをした。
「まんず、お座んなさい。お茶にすべす……」
すでにヤカンが蒸気を吹いている。実はここに来てから、ソレが気になってしょうがなかったのだ。
「農家の自家用……とっておきだよう」
チャコの目の色が変わった。思わず身を乗り出し、またしても笑われてしまう。
ちょっと、茶筒の中を見せてもらう。煎茶だ。それも――うわあ、針のような茶葉だ――!
ヤカンのお湯が、湯冷ましへ、そして急須へ。じっと待つ。二つの湯飲みに、少しずつ、少しずつ――
そしてやっとこさ口にご到着。
「……うめえ!」
それ以上言葉がない。魂が天に舞い上がり、ピーチクパーチク小鳥と戯れている。幸せで幸せで、とうとう涙がこぼれた。村に帰らないで、本当によかった、とこのときまじめに思ったものだ!
農婦は、チャコに、ほとほと感じ入ってしまったようだ。
「お母ちゃん」
チャコが現実に帰ると、そこに、赤い髪の毛の少女が立っている。エンジ色のトレーニングウエアの、くりくりっとした目の、かわいらしい娘だ。
「お客様?」
小首をかしげて訊いてくる。
「あ、お邪魔してます! わたし――」
あわわわわ。チャコ、と、あやうく言ってしまうところだった。
「――畑山里子です。畑の見学をさせてもらってたとこなんです。お茶、ごちそうになってます」
「あ、ども。その、ども、ごゆっくり、してください」
「がはは。これ、明日の茶娘だあ。十三歳なんだもの」
チャコはびっくり。まじまじと二歳年下の相手を見る。
「! すごいんだ。主役じゃないですか!」
「そんなあ。たいしたことないっスよ。それに、わたしのほか、おおぜいいますし」
「伝統のコスチューム着てやるんでしょ? 紺の着物に赤い帯、手甲脚絆に白手ぬぐいを姉さん被りにして。ああっ。……目に浮かぶわ!」
「やだなあ、もう。田舎くさくて恥ずイです」
「絶対似合う! りりしいわよ。絶対! いいわあ、いいわあ!」
「母ちゃん、この人なんとかして! かなわないよう」
「母ちゃんもかなわんようっ」
三人は大笑いだ。
3
娘は、ジャクリーヌ・カザンザーキスと名のった。
ジャクリーヌは、チャコのために町の名所のガイドを買って出てくれた。おしゃべりをし、チャコが二級魔女で、就職かつ社会見聞のため旅をしているというふれこみを聞いて、彼女の目が、急に輝いた。
「あたしから見たら、里子のほうが、ずっといいわ!」
魔女は、女の子の憧れだった。
「空を飛べるんでしょう?」
「うん。まだ下手だけど……」
「ねえ、もって生まれた才能がないと、なれないの?」
「そんなことないわよ。幼いころから、ちょっときびしい訓練をしなきゃならないけど。……三級の壁を突破できたら、二級まではなんとかいける」
事実、修行は苦しかった。師母の慈愛がなかったら、天才・チャコとて、とうの昔に逃げ出していたかもしれない……。
「けど、やっぱり血、てのがあるんでしょ?」
「そうね……。一級クラスの大部分の人たちは、親子何代も続いた家系の人たちだし。特級以上の人は、もう九十パーセント、血、なのよね……」
「里子も血筋がよかったのね!」
ジャクリーヌはチャコの若さを見て言う。
「かもね……」
相手に若さを指摘されて、ちょっとだけ、ブルーになった。ふだん、意識して考えないようにしていた事だった。
わたしの生みの親は、だれなんだろう?
やっぱり、魔女だったのだろうか?
どうしてわたしを――!
「――!」
頭を振った。いけない、いけない。落ち込むとこだった。いまは楽しまなくちゃ! チャコは強いて笑顔を作った。
「さあジャクリーヌ、お次はどこ案内してくれんの!」
「えっへへー! おたのしみ!」
ジャクリーヌはからりとした笑顔でこたえた。
※
ジャクリーヌが案内した場所は、シガラ山の斜面を利用した、草スキー広場だった。
「最近になって作られたの。町おこし、の一環だって。どこがどう町おこしになるんか、イマイチよくわからないんだけど……」
と彼女は説明する。
なんでも、町を出て、オサカやキョーツなどといった大都市に移る若者が、目立ってきているんだという。そんな時代なのかもしれない。げんに、チャコ自身がこんなザマである。少しでも町に若者を引き留めたい――この施設は、そうした思いの町の役人たちの、苦肉の策だと言えるのかもしれない。
見上げると、意外とたくさんの人達が、滑っている。祭があるから、観光客、そして帰省客が多いのだろう。見てるとみんな、じょうずに滑っていた。なんだかとても楽しそうだ。
「本物のスキーはやったことある?」
「あるけど、あんまり得意じゃなかった……」
だって、魔女だし、予報官だし。
「……草スキーなんてはじめて」
「すぐできるよっ」
ジャクリーヌはチャコの手を取り、引っ張って走りだした。
ロッジに入り、そこで装備をレンタルする。まずロングパンツ。さすがにミニスカワンピのままじゃ、ちょっと差し障りがある。初心者、ということで、セーフジャケット、グローブ、ひじ、ひざ、くるぶしのサポーター、全部装着した。念のためヘルメットも被る。いやに物々しい。ここまでしたら、まるで太古の兵士だ。
本物のスキー板よりもずっと短いローラースキーを、スケートの要領で交互に動かし、歩く。ストックを肩にかけ、フリーになった両手でリフト・ロープのハンドルを掴み、草の斜面を上まで引っ張り上げてもらう。ここまでは、それはそれはもう、楽しかった。ジャクリーヌと二人、きゃあきゃあ騒ぎっぱなしだった。
いざゲレンデに出て、沈黙。ヘルメットの中の顔が真っ白になる。
(……なにこれ。この角度はなあに?)
風がビュウビュウ――
もじもじしているチャコの背を、ジャクリーヌが急に衝いた。
「きゃああああああぁぁぁぁぁぁ……!」
意識が真っ透明!? になった!
スキー板のローラーが、雪よりもはるかに硬い地面を転がっている。ちょー高速で回転している。ベアリングが唸っている。衝撃がガンガン膝を突き上げる――
「きゃあ、わ、ああ、きゃあああ……!」
どこからかジャクリーヌの声がする――
「重心前! もっと! 前! 脚ふんばる! ぐっと! グーよ! グー! キャッホー――!」
――ブレーキはどうすんの!?
どうやったら曲がるの!?
こぶに乗り上げ――た――あぁ?――!
チャコは腰をしたたかに打ち、そのまま十数メートル滑って転がってようやく止まった。草っ葉にまみれ、土埃にまみれ――
「あああ……! 心臓が、心臓が」
「あっはっはっは――」
そばに来て「シュッ」、と止まったジャクリーヌが腹を抱えた。
「もう!」
草っ葉を投げ付ける。二人で大笑いだ。
さわやかな風だった。そのあと、何回転んだろうか……。
転んで荒い息をつき、うつ伏せになったときだ。
「……!」
チャコはヘルメットごと耳を山に押しつけた。
跳ね起きた。チャコの顔は、真っ青だ。
「どうしたの?」
「――ごめん。大変な用事ができた」
「……?」
チャコはその場で装備を脱ぎ始める。
ジャクリーヌは、何がなんだかわからない、という顔をした。が、相手は二級魔女だということを思い出し、無理やり納得することにしたようだ。今はありがたかった。
「この山から──」
装備をジャクリーヌに押しつけた。
「――逃げて!」
そう一言残し、チャコは町へ向かって駆け出した。
「里子ーっ……」
後ろからジャクリーヌの叫びが聞こえる。
「……明日のお祭り、かならず見に来てねえ!」
4
町には、二人の高名な魔女がいた。そのうちの一人。
「はじめてお目にかかります。ご尊顔を拝し、恐悦でございます。ソフィア・パパンドレウー一級魔女、正回転予報官様!」
褐色の肌の老女はこたえた。
「畑山とか……。若くて将来が楽しみじゃの。楽にしてよろし」
「ありがとうございます」
チャコは腰をかがめて挨拶する。
「して?」
「師母様。――山が噴火します。明日!」
「……」
チャコは有無を言わさず外に追い出されてしまった。
チャコは目の色変えて走った。
もう一人の老魔女が、銀髪のクリスティーナ・アストラスだった。副回転予報官である。
彼女は頭痛をこらえるかのように、額に手をやった。
「そんな兆候はない。そなたの錯覚じゃ」
「おそれながら申し上げます。どうかお願いです。山のその内側にお耳を向けて下さいまし!」
クリスティーナは覇気あふれる若い者に対し、少しは寛容なところがあったのだろう。彼女は言われた通り、じっと耳をすましはじめた。チャコは祈るように、彼女の一級魔女としてのその能力に期待した。
が、しかし――
「なにも聞こえぬ」
「そんな! そんな! こんなに響いているのに!」
「……そなたは、二級位であったな」
「聞いて下さい!」
クリスティーナはとうとう怒りを覚えたようだった。額に皺が寄った。
「小娘! そなた仮にも魔女の道を歩む者ならば、われら一級位の怒りがどれほどのものか、存じておろう!」
「……」
よっぽど、自分は実はチャコで、特一級魔女だということを明かしたかった。
実際、口に出かかっていた。
だがそうすると、タクラカツ村の回転予報官の仕事を放棄し、勝手に逃げ出したことがばれてしまう……!
迷っているその瞬間のチャコは、特級魔女でもなんでもなかった。
クリスティーナの指さすところにより、チャコは、表に放り投げられてしまった。
チャコは人々が注視するなか、痛みをこらえながら立ち上がった。
ふり返り、群衆に向かって叫ぶ。
「みなさん! 明日、山が噴火します。山が、ふっとんでなくなります! 即刻、今すぐ、逃げ出してください!」
一瞬の静寂後、笑い声が起こった。口笛を吹く者もいた。
再度訴えかけようとしたとき――
チャコはいきなり降ってきた水をしたたかに浴びた。見上げると、空のバケツが空中に浮かんでいる。クリスティーナの仕業だった。
恥辱で顔が真っ赤になった。
「――!」
チャコは髪の毛を絞り、唇を噛みしめると、歩き始める。行く手の群衆が割れた。そこには、嘲笑と哀れみの顔ばかりが並んでいる――
「かわいい魔女さん、あなたもこの町に住みたいのかね」
ドジョウ髭をしごきながら、べん髪の町長はとんちんかんなことを言った。
「残念だが、一級魔女様がお二人もいらっしゃる。……噴火と言ったね。まずは、お二人に相談してみたらどうだね」
「すでに行ってきました」
「ふむ。で?」
「錯覚だと。なにも起こらないと、おっしゃいました」
「なら、無用の心配だ」
「……」
「それに、噴火っていうのは、いきなり起こるものなのかね? なにかそれなりの前触れ……例えば頻繁に発生する地震とかが、あってしかるべきじゃないかね?」
チャコはつまってしまった。
「シガラ山は、死火山だ」
「……」
「さあ、宿にお帰り。そしてよい時を。ストラベラキスさんに、私がよろしく言っていたと伝えてください」
そして町長は、その魅力的な笑顔を見せたのだった。
「魔女様に話してみましたか」
と、イレーネ・ストラベラキスは言った。
「しました――けど、相手にしてもらえませんでした」
そこまで言うと、チャコは背を向け、うなだれて歩き出した。ふと、ふり返り、
「……女将さんによろしくって、町長様からの伝言です」
と言う。
「ありがとう……」
夕方。困惑顔のイレーネに見送られ、チャコは福富屋を後にしたのだった。
チャコは切り株を見つけると、腰をおろした。
「……」
やがて、あきらめたように首を振る。どうしようもなかった。
疲れ切った頭で、イメージする。次いで、星空を指さす。
切り株が根ごとひっこ抜かれ、チャコを乗せたまま空中に浮かんだ。
飛行術はめったにやらなかった。移動をするときは、たいていは、自分の両の脚を使う。
今回は特別だった。一刻も早く、一キロでも遠くへ離れなければならない。
少しでも遠くへ――それだけを思った。
東へむかう――
時速約五〇キロ――
一時間――
もう気力が続かなかった。チャコの集中が切れる。
切り株ごとはでに地面に転がった。だのに呻き声すら出ない。そのかわり体中から痛みという悲鳴が上がる。あちこち怪我だらけだった。最後の気力でリュックからシュラフを取り出すと、もぐり込み、死ぬように眠りに落ちた。
5
目が覚めたのは、まだ夜明け前だった。
あわてて起き上がったが、西の地平のシガラ山は、まだ噴火していない。
「……」
一晩寝て、いくぶん落ち着きを取り戻したチャコだ。
(……確かに、町長様のおっしゃる通り、噴火の兆候がまったくないのは変だ)
チャコは期待を込めてもう一度耳を澄まし――顔が暗くなった。
「……」
シガラ山は噴火する――!
昨日よりも数倍、その気配が高まっている。
今なら、二人の一級魔女たちにも、感覚できるかもしれない――?
――無理?
それを察知できたのは特級のなせる業で、一級レベルでは無理なのかもしれない。自分自身も、突発性の地震は、かつて予知できたことがなかった。思い出す限り、特級の師匠にも、ない。
シガラ山から離れること五〇キロ。噴火がどれほどの規模のものかわからないけど、まだ十分とは言えないかもしれない?
チャコは昨夜転がしっぱなしの切り株を立てると、腰かけた。
イメージする。指差す。空に浮かぶ。そしてさらに東へ――
時速約六〇キロ。もっと速くできるが、それ以上の速度で飛んだら、実際まともに目を開けていられない。顔に、羽虫だってぶつかってくる。飛ぶには、ちゃんとした装備が必要なのだ。
朝日が昇る――
――空は、すばらしい宇宙だった。二〇〇億光年の果てまで澄み渡り、雲も、今朝は美しい紫の筋となって浮遊している。
あまりにも世界は、美しかった。
――空を飛べるんでしょう!
――うん。まだへただけど!
「おおおう……!」
切り株の飛行が乱れた。
ジャクリーヌが叫んだ。
――明日のお祭り、かならず見に来てねえ!
「……ジャクリーヌ!」
初めてできた友だち――!
大粒の涙があふれた。
切り株が停止した。
鷹が警戒しながら輪を描いて近づいて来る。――ふいに羽ばたいて逃げ出す。
切り株が動いた。――西へ!
「ジャクリーヌ!」
助ける――!
チャコはうずくまった。しっかりと切り株を抱く。顔面を伏せ、風圧に備える。
チャコはその全力を発揮した。
切り株は飛ぶ――
流星のように――!
6
チャコが町まであと一〇キロの距離に到達したときだった。
緑の茶畑に、赤い柱が立つのが見えた。
息が止まった。
――
――次の瞬間、山が爆発した。
静かに、山全体が、浮き上がり、まるで羽毛のように、まるで泡のようにばらけ……。
――
チャコのすぐ横を、馬車ほどもある火山弾が音もなくぶっとんで行った。
――
約三十秒後、衝撃波――雷神の音がぶつかってきた。
「ぎゃあああああ!!」
大音響が悲鳴をかき消した。チャコはとっさに切り株の根を山に向け、盾にした。それが精一杯のことだった。叩き潰すように土石煙がぶつかってきた。そこに茶葉の匂いをかいだのは錯覚であろう。女将さん、おばさん――ジャクリーヌ! チャコは巻き込まれ、目が開けられず、翻弄され、切り株がついにもぎ取られ――
「――助けてえええええ!」
チャコは気を失った。
7
気がついたとき、チャコは誰かに抱きかかえられて、空を飛んでいた。
その者は悠々と地に降り立つと、静かに、チャコを地面に降ろした。
チャコは腰が抜け、尻もちをつく。
その大兵の男――を、見上げる。
重い甲冑に身をくるみ、左腰に剣を佩き、右腰には輝く宝珠が飾られている。さらに見上げる。
「……」
チャコはショックが抜けていない。なにを見ても思考が働かない。
その者の武骨な顔。目には異様な生気があふれ、口には――牙が生えていた。
その者がこちらを見つめ、声を発した。ずっとずっとむこうから響いてくるような音――
「クララ様。持国鬼、命により参上つかまつりました」
(……じこくき……クララ様……?)
「では、これにて」
重々しく一礼すると、その者は、呆然とするチャコを残し、空気中にかき消えていく。
(……夢……?)
風が、流れた。
チャコは見た。
はるか西のかなたに立ちのぼる噴煙――
ここは、静かだった。
短い夏を逃さず、一瞬に咲きこぼれる花々。蝶や羽虫が飛び、あちらこちらで小鳥が歓喜の歌をさえずっている。
太陽が暖かい――
その景色が潤み、歪んだ。
「ジャ……」
クリーヌ――!
いのちが痛かった。はらわたを突き破るような衝動に体が震え――
嗚咽が漏れた。
チャコは、いつまでも、いつまでも、地球に爪を立て続けている――