第九話
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「総ちゃん!遅い!おっそーーーーーい!はい残念でした。俺だよ、お前だよ。何やってんだよ。お前、ふざけんな。待たせすぎだろ。このやろう!いっそのこと、お前なんか、ずうっと向こうに行ってればいいんだ!」
「なんだよ。ずいぶん、荒れてるじゃないか?」
「当たり前だよ。こっちとら、どんだけ待ったと思ってんだ!」
「知らねえよ。そんなの。しかたないだろ渋滞だったんだから」
「そんなこと言って、あんな美味そうなうなぎ一人で食いやがって」
「なんだよ。そんなことに怒ってたのかよ」
「そんなことって、お前。馬鹿!浜松の天然うなぎだぞ!う・な・ぎ!あー俺も食いたかったなーあ」
「意外と器ちいさいな。お前」
「うるさい、うるさいっ。お前もな!っていうかお前、うなぎの件に何頁使ってんだよ。お前は昔から話が長いんだよ。しつこいんだよ。読む人の事も考えろよなぁ。きっとそろそろ、みんな飽きてきてるぞ。そうだ、お前がみんなにうざがられる原因はこれだぞ。きっと」
「はぁ?何言ってるんだ?急に訳のわからないこと言って。しかも、うざがられてねえし」
「なんでもねえよ!!てか何言ってるんだよ。十分うざいから。そんなことはどうでもいいんだよ、で?どうだったんだよ?」
「どうでもいいって、ひどいなお前…ああ!そのことは、なんとかなりそうだ。あとは、最後の準備を整えてから、あの日に戻ってもう一度、勝負だ」
「そっか、じゃあ、俺の出番はまたその時だな?」
「ああ、頼むよ」
「じゃぁな。あーあ…俺もうなぎ食いてえなあ」
「まだ言うか、お前は次の休みにでも木綿子と一緒に食いにいけばいいじゃねえか?お前はいつだって一緒にいれるんだから」
「おっ。それは、俺に対する嫌味か?お前も言うねぇ」
「嫌味に決まってんだろ」
「ふはははっ」不気味な笑みを浮かべながら、そしてやけに楽しそうにガラスの中へ戻っていった。
俺は、奴が鏡の中に戻ったことを確認して、前に向き直る。そして、完全に現実へと帰還する。
「馬鹿なんかじゃないよ。総ちゃんは。確かにさ、木綿の想像よりも、更に上のことをしてくるけど、いつもまっすぐで、優しくて、そんな優しさに木綿が甘えてしまっていつもいつも、総ちゃんに辛い思いをさせてたんだと思うよ」木綿子はすこし悲しそうな表情で言った。
俺自身は少々浮かれモードだったせいもあり、いきなりのシリアスな再開に戸惑いつつも俺は木綿子をかばうように、「辛いことかぁ…基本的にその時は辛いとは思わないないんだよね…特に木綿に関してはね」
「ドMさんだから?」木綿子も俺のそんな気持ちを受け取ったのか、あえてふざけるよう言った。
「だから!違うってば。後になって…そういえば、あの時は悔しくて惨めだったなぁって思ったことはあるかな?」
「えー?何、何?」
「そうだな…例えば…覚えてるかなぁ…あの静岡に行く少し前にさ…夜、みんなで集まって、いつもの公園で遊んだの覚えてる?」
「え?あーっ、あの大きな池がある公園?」
「そうそう」
「あっ、もしかして、みんなで久しぶりにオールするぞーって意気込んでいた日のこと?」
「さすが、木綿。そう、あの日」
「え?でも、あの日は私だけ、先に帰ったんじゃなかったけ?」
「実は、あの日、俺も先に帰ったんだよね」
「あーーーーーーーーーっ。思い出した!私、あの日、帰る時に駅の反対側のホームに総ちゃんらしい人。見かけたんだよ。やっぱり、あれ、総ちゃんだったんだ」
「うん。俺も、反対側の電車の窓際に木綿が立っていたの見えたよ」
「なんだぁ~それなら、声かけてくれれば良かったのに。あれ?もしかして総ちゃん?って思ったら、もう電車動き出しちゃって、あぁ~さようなら~って感じだった気がする」
「木綿も俺のこと気づいてたんだ。俺、気づかれてないと思ってた」
「うん。なんとなくね。さすがに確証はなかったけど。でもどうして?帰っちゃったの?」
「なんか、つまんなくなっちゃって…俺も帰るわって言って帰ったんだよ」
「そういえば、駅のホームにいる総ちゃん。すっごく元気なさそうだったから、すぐに総ちゃんてわからなかったんだよ。あの時、何かあったの?」
「何かあったって言うよりも、何も無かったんだよ」
「ん?」木綿子は首をかしげる。
「あの日、木綿、帰る前に、これから彼を呼び出そうかなぁって、言ってたの覚えてる?」
「あーなんとなく、そんな話したかも…でもそれがどうしたの?」
「俺、その時の木綿の顔を見てたら改めて、本当に木綿が遠くに行っちゃうんだなぁって思ったんだよ」
「あの日の夜に?」
「うん。確かにさ、あの日の前にも、そのあとにも色々あったはあったんだけどさ…なぜだろ?あの日は強烈にそう思ったんだよ。木綿が絶対に手の届かないところに行ってしまうような予感っていうのかな?俺、嫌な予感だけは抜群に当たるからさ」
「だから、落ち込んでたの?」
「うーん。そうかも?でも、自分じゃ自分の顔を見れないから、どんな顔してたかは、わかんないけど、結構、凹んでたかもしれない」
「確かに凹んでたのかもだけど、でも、でも。それが悔しくて惨めなことなの?」
「いや、そうじゃないよ」
「じゃ、何?」
「実は、あの日俺、あのまま電車で家に帰ったわけじゃないんだ…」
「え?」
「俺、木綿の乗った電車が行った後、次の電車で木綿のことをあの駅まで追いかけたんだ。そう、さっき待ち合わせをしたあの駅まで…どうしても、今、木綿子を引き止めなくちゃって思って…」
「嘘っ?」
「ほんと」
「えーーーーーーーーっ?総ちゃん私を引き止める為に駅まで追いかけてきてくれたってこと?」
「う、うん…そうなんだけど…ごめん…でも俺、結局、声かけられなかった」
「なんで?わざわざ、あんな所まで追いかけてきてくれたのに?」
「うん…駅について階段を下りきるところで木綿の楽しそうな声が聞こえたんだよ。多分、相手は今の旦那さんだとは思うんだけどね…それで…あぁー間に合わなかったんだって思ったら、それっ切り脚が動かなくなっちゃった…」
「それで、総ちゃんはどうしたの?」
「ん?あ、俺は結局、木綿たちが帰った後も、ちっとも体が動かなくて終電が過ぎて駅員さんに声をかけられるまで、階段のところで固まってた…もうこれで、本当に木綿子が遠くに行っちゃったんだって、それだけが頭の中でグルグルと回ってて…まぁ、その後も大変だったんだけどね…あの頃の俺も、この辺詳しくなかったからさ…駅を追い出された後、土地勘が全く無いでしょ?だから、全然わからなくて、このあたりを徘徊してたんだけど…最後にはなんか工業団地みたいなところに迷い込んじゃって…しかも、途中から雨降ってくるし…ほんと涙目になりながら、二時間くらい彷徨ってなんとか大きな通りに出れて、やっとタクシーを拾って帰ったっていう感じかな?タクシーの運転手さんも不思議そうな顔してたのを覚えてる、多分ね…その時の俺、雨でぐしょぐしょで、野良犬みたいな姿だったから…
「総ちゃんのバカっ。なんでいっつもそういう無茶ばっかりするの?」今回ばかりは木綿子の視線は真剣そのものだった。というよりも涙を懸命にこらえているようなすら感じる表情だった。
「ごめん…」素直に謝ることしかできなかった。確かに馬鹿を通り越して滑稽だよな…しかも、そんな惨めな思いまでして、何の成果も得ることができていないっていうんだから…
「あーーーーーっ。思い出した!私が話をしてたの、きっと旦那さんじゃない…あぁーーーーーーーーっ」木綿子が急に動揺しきりの声を上げて、両手を口元に当て黙り込む。
「どうした?急に」
「だ、だって…」木綿子は言葉を詰まらせながら、瞳いっぱいに涙を貯めている。
「大丈夫?」
「ごめん…大丈夫じゃないかも…」と言った瞬間に木綿子の瞳からはとめどなく涙が溢れる。堰を切ったかのように流れる木綿子の涙は指を伝い、手の甲を伝い、そして手首に着けられた腕時計も伝って最後には、はたはたとテーブルに滴る。
俺には木綿子の涙の理由に心当たりがない…あの時、泣きたかったのは俺の方のはずだから、木綿子はあの後、旦那さんと楽しい時間を過ごしたはずなんじゃ…え?でも…今、あの時、俺が聞いた木綿子の声の相手が旦那さんじゃないって言ったよな…それって、どういうことだ?
木綿子は嗚咽混じりの涙を流しつつ、声を絞り出すように聞いてくる。
「総ちゃん…あの日、本当に総ちゃんは私を引き止めに来てくれたってこと?」
「うん…そうだよ。でも、結局ヘタレちゃったけどね…」笑える状態ではないのは分かっていたがあえて、おどける様に言ってみた。
「どうしよう…私…私が子供過ぎたせいで…いろんな人を傷つけているんだ…最低だ…私」
やっぱり、木綿子の言っている意味が俺にはわからなかった。だって、そうだろ?あの日は俺が勝手に木綿子を追いかけて駅にやってきて、ただ単に俺が自爆しただけなんだから…
「木綿?あの日に何かあったの?」
「う、うん…」そういう木綿子の表情はなんとも話しづらそうな感じがした。
「ごめん…言いづらかったらいいんだよ。無理しなくても」
「ごめん。総ちゃん、ちょっとだけ待って…」そう言う木綿子はカバンから出したハンドタオルで目の周りをこする。
あーあ、またお化粧が取れちゃうぞ…
本当に少しだけ、うつむいて時間をとった木綿子は一度、深く呼吸をしたあとに話をはじめた。
「あのね…実は、あの日あの駅にいたの私と旦那さん、そして総ちゃんの三人だけじゃないの…厳密に言うと、それもちょっと違う。総ちゃんが私の声を聞いた時、そこにはまだ、旦那さんはいなかったの」
「え?そうなの?」
「はーい!そこまで!」いきなりの大声に、のけぞりそうになりながら、ガラスに視線を向ける。
「なんだよ。いきなり出てくるな。そして邪魔するな。今、大事なところなんだよ!」
「馬ー鹿。お前、ほんと馬鹿な…大事な所だから出てきたに決まってんだろ。いいのか聞いちまって?俺は、聞かない方がいいと思うけどな」
「なんのことだよ?」
「決まってんだろ。あの日の真相を聞いちまっていいのかって聞いてんの」
「良いも悪いも聞くしかないだろ?」
「俺は、このまま過去に戻って自分の目で確認するほうがいいと思うけどな…お前にとってはそっちのほうがショックが少ないと思うぜ?」
「なんだよ?どういうことだ?俺の知らないことでそんなに衝撃的な出来事があったのか?」
「まぁな…衝撃的だな…多分…お前がその事実を知ったら今の木綿子の涙の比じゃねえだろうな…俺が同じ境遇だったら、自分を殺してやりたくなるレベル生涯一の痛恨の一撃だな。きっと…だから、悪いことは言わない…俺がこのまま過去へ飛ばしてやるから、聞かずに行けよ」
「お前はその真実を知っているんだな?」
「当たり前だろ。俺はいいんだ。俺は、あの日の夜…」
「もういいよ。お前の言いたいことはわかった。でも悪いけど、俺は今このまま、過去に戻るわけには行かないんだ。まだほんの少し準備がたりない。だから今、このまま、過去には行くことはできない…」俺はあいつの言葉を遮った。
「お前は、ホントにきっつい道を選ぶのが好きみたいだな…あの話を木綿子から直接聞くのはきついぜ、きっと…でも、なんだ準備って?」
「ああ、過去の俺の人生を変える為の準備だよ。その準備ができなければ、今回ばっかりは行く意味がないんだよ」
「はああ。呆れたわ…本当に大馬鹿じゃね?もういいんじゃね?今更、向こうの奴のことはどうでもいいじゃねえかよ。もう十分だろ?おまえはよくやったよ。もう終わりでいいだろ。いいから、自分のことだけ考えろって」
「何とでも言ってくれ。それに今の俺は、どんな真実でも受け止める覚悟は出来てるから、大丈夫」
「仕方ねえな…お前はこうなったら、何を言っても聞かないもんな…勝手にしろ。だが、後で文句は言うなよな?俺はちゃんと忠告したからな?」
「ああ、悪いな…でも、少しだけ待ってくれ。頼む」
「わーったよ。じゃ、本当に準備ができたら呼んでくれ」
「ああ、わかった」またも俺は木綿子の方に向き直る。そして、すぐに時間が再び動きだす。
「うん。あの日、改札で待っていたのは旦那さんじゃなくて…旦那さんと同級の女の先輩。私、近くに住んでることは前から知っていたんだけど、あの日の私はその先輩が駅にいたのはただの偶然だと思っていたから、奇遇ですねぇ~みたいな感じで笑って挨拶したの…でもね…本当はそうじゃなかったの…私も後で知ったんだけどね…その先輩も旦那さんを呼び出していたみたいなの…」
「は?」俺は、木綿子が何を言っているのか、いまいち理解できなかった。
「私ね…実は…あの時はまだ、ちゃんと旦那さんとお付き合い出来てる感じじゃなかったの…だから…勇気を出してちゃんと、本当の気持ちを聞こうと思って、あの日、旦那さんを呼び出したの…それで駄目だったらもう、諦めるつもりで…」
「え?は?俺は、木綿子と旦那さんは既にすごく仲良くなってて順調なんだと思ってた」
「実はそんな事ないんだ…それまで、旦那さん…私のこと相手にしてくれてなかったの…でも、なんか…まわりの人には言いづらくて…順調な振りをしてただけなの…」
「それで、なんであの日が境なの?」
「うん…あの日、旦那さんは、私が女の先輩と笑いながら話してる時に登場したんだけど…私、女の先輩の気持ちなんて知る由もないから、旦那さんがこっちに向かって必死に走ってきたから、旦那さんが来てくれたことに舞い上がっちゃって…せんぱーいって、駆け寄ったんだ…そうしたら、女の先輩の方は…わーーーーーーっ。って言って泣きながら走り去っちゃったの…私はその時初めて…なんとなく、もしかして女の先輩も旦那さんに会いに来たんじゃないかって気づいたの…でもね…旦那さん的にはそんな私を見て、その時初めて、私に興味を持ったんだって…ちょっとだけ、真剣に付き合ってみようかなって思ったってあとから言ってた…」
「で、その女の先輩は?」
「その後は、わからない…旦那さんも何も言わないし…でも…その後、違う人と結婚して、たしか今は別れちゃって、地元にいるって言ってたような…だから、だからね…もしね…あの日、総ちゃんがあの駅に来たときに私をね…呼び止めてたら…きっとね…今とは全然違う未来があったかも知れないの…」木綿子は時に迷いつつ、そして時より涙を落としながら話を続けていた。
「え?なんで?」今、俺は少しだけ恐怖に駆られていた。これから、木綿子の口から語られる言葉は恐らく、俺をまた後悔の海に投げ落とすような話をされることになるだろうから。そう、これが、奴の言った生涯一と言って言い過ぎではない衝撃。でも、思ったよりも俺は意外にも冷静でいられた。
「もしね…あの日、旦那さんよりも前に総ちゃんに呼び止められていたら、私はきっと、総ちゃんとの人生を選んでいたと思うから…それほど…あの頃の私は揺らいでいたの…旦那さんはそれまで、あんまり相手にしてくれて無かったし、だって、あの時なんかまだ、手すら握ってもらったこと無かったから…もし、そんな状態の時に総ちゃんが私の前に現れたら…私は総ちゃんの優しさに引き込まれていたと思うの…あの日の夜のほんの数分…ほんの数秒のすれ違いで、少なくとも四人の人生の糸の結び目が変わってしまったんだと思うの…」
確かに俺にとっては衝撃の事実ではあった…でも、不思議とあいつが言う程のショックではなかった。もしかして、俺、耐性ができてしまったのかも…不思議なことや、ショックなことに対しての…あと、考えられるのは、俺がもう、既に昔の俺ではなくなってしまっているのかも知れないな…もし、この事実を今日、木綿子と再開する前、鏡の中の俺と出会う前、いちると出会う前に知っていたとしたら…あいつの言う通り、自分の事を恨んだかも知れない…でも今の俺には、そんな事をうじうじと考える気持ちはもうすでにすっかりとなくなっているみたいだった。
「そっか…そうだったんだね…まぁ、俺なんてそんなもんだよ。かっこつけのくせにヘタレで、根性なしだから、好きな人の手も引っ張ることができなかったんだよ…木綿子は全然悪くないよ。結局は、俺も、その女の先輩も、そして、木綿子も旦那さんも自分で決めた道なんだよ。それをさ、今さら言ってもさ仕方ないことだよ。確かに馬鹿だと思うよ。でも、過去は変えられない…変えられるのは、今と未来しかないんだから。ほらっ、だから、木綿も涙を拭いてさ。笑ってよ。俺は、やっぱり笑顔の木綿が一番好きだから。あーもう、時計もそんなに濡らしてさ。いくら防水だからってあんまり水気はよくないんだぞ。ほらっ、拭いてあげるからちょっと貸してご覧」
「え?時計?うん?」木綿子は、はっとした感じで時計を確認する。「あっ、涙でびしょびしょだ。大丈夫だよ。自分で拭けるから」と言い右手で腕時計を外して手にしたハンドタオルで包んで拭こうとするが、「あっ、タオルもびしょびしょだ…」
「だから言ったろ?俺が拭いてあげるから」と言って俺は手を出す。そしてズボンのポケットに逆の手を突っ込んで、自分のハンドタオルを取り出す。俺も、昔からハンカチは好かなくて、いや、タオル地が好きだからか…ハンドタオル派なんだけど…あ、あれっ…俺はそのハンドタオルを見て、驚く…あれっ?これは…
木綿子も俺が手にしたハンドタオルを見て、不思議そうな顔をする。「あーそれっ、そのハンドタオル…昔、私同じ柄のやつ持ってた。なんか懐かしいっ」真っ赤な目をした木綿子が笑う。
うん。多分これは、木綿子の記憶にある同じ柄の物というわけではなくて、木綿子の記憶のハンドタオルそのものだ。このハンドタオルは、木綿子が俺が浅草で時計をなくした時に俺に時計と一緒に渡したハンドタオルだ。俺の予想ではあるけど、これはきっと、いちるの仕業だと思う。あいつなりの木綿子へのメッセージなのかもしれない…俺は、そっと腕時計をハンドタオルの中に受け取って優しく丁寧に木綿子の少し小ぶりな腕時計を拭き始めた。
「おい。いいぞ」俺はまたすぐ横のガラスに目をやって合図を送る。
「あーあ、面白くねーなー。お前、ずいぶんとあっさりしてんじゃねえか?」
「なんだよ。なんか文句あんのかよ?」
「いや、文句はねえけども、もっと凹むと思ってたからよ」
「まぁな…多分、今までに凹み過ぎたから耐性ができたんじゃないかな?」
「そうなのか?それとも、お前が変わったかどっちかだろ。それにしてもさっき、お前が言ってた準備ってのは、もしかして、その時計を預かることか?」
「そうだよ。この時計がどうしても、今回、過去に戻るのに必要だったんだよ。だから、何かのタイミングで、木綿子から預かりたかったんだ」
「いったい何に使うんだよ?」
「それは、向こうに行ってからのお楽しみ。俺は絶対に過去の俺の人生を変えてやる」
「あはははっ、わかったよ。それだそれ。お前が木綿子から話をされて凹まなかった理由。ったく、やっぱり本来のお前は、相変わらずの自信家なんだなよ。お前は、これから過去に戻って過去の自分の未来を変える自信がある。だから、どんな過去の真実の話をされてもその希望がお前に残っているから、平気でいられんだよ」
「それも、そうかも知れないな…でも、これだけは聞いてくれ。今、過去を変えようとしてる時に矛盾したことを言うようけどさ…俺、今まで過去にこだわり過ぎてたんだ。だから、卑屈になって、自分を責めて、運命を責めて生きてた…お前や過去の自分ではなくて、自分自身、今、俺の意識が支配している俺自身の未来はさ、俺にしか変えられないんだよ。だから、俺は俺でちゃんと結論を出さなくちゃいけないんだ。そして、俺の結論はさ。とうの昔に出ているんだからさ。あとは勇気をもって木綿子に話すだけなんだ」
「ほんと、矛盾してるわ」
「まったくだ。でもそれが人間なんだろ?」
「かもしれねえな…でもよ?もし、万が一にお前が過去の奴の人生の歯車を変えちまったら、奴はズルしたことになるんじゃねえか?」
「ズルっていうのか?そういうの」
「だってそうだろ。まぁな、自分とは言えさ、違う次元の自分が自分を導いたことになるっていうのは、やっぱり、ズルなんじゃないか?」
「それを言ったらお前もおんなじじゃねえか?ガラス越し、鏡越しだとは言え、俺に接触して来たのはお前のほうが先だろ?」
「あははっ、それもそうだ!まっ、当然、俺は悪役だからな。別にいいんだけどな!」と言って奴は笑った。
「じゃ、俺たちみんな同罪ってことでいんじゃないか?あとは、いるかいないかわからない神様ってやつに任せようぜ。罪なら罪でも、後でどんな罰でも喜んで受けてやるよ。なっ?そんときは一緒に地獄に落ちようぜ」俺は思っていたことをガラスの向こうの俺に向かってい言った。
「えーお前とは嫌だぁ…ていうか、冗談はこんなもんにしてそろそろ行くか?」
「ああ、頼むわ。そんでもって行ってくるわ」
「ここまで来たら、好きにやってこい!」
俺は目の前の俺に笑いかけて、手を伸ばす、奴も優しく俺の手をとってガラスの中へ招きいれてくれた。