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第八話


 しばらくするとお化粧をきれいに直した木綿子が戻ってきた。表情にも笑顔が戻っている。

「ごめんね。総ちゃん。お待たせ」

「うんうん。大丈夫だよ」


 それを見越したかのようにウエイターが次の料理を運んでくる。メインのふた皿目、よかった俺の分もある。そりゃ、俺、頑張って木綿子に話したもんな。これまた俺の好みに合わせてのチョイスだろう。きっと…鴨肉のソテーを赤ワインソースで纏わせた実に真っ赤な情熱的なひと皿だった。


「そういえば、総ちゃん。お父さんとお母さんは元気?」早速、鴨肉にナイフを入れながら木綿子が急にそんなことを聞いてきた。

「え?うちの?」

「うん。そう、総ちゃんの」

「うん。多分元気なんじゃない?」

「なにそれぇ?もしかして全然帰ってないの?」

「あ、うん…」

「だめだよ。たまには帰らなきゃ?きっとお母さんなんか心配してるよ。ただでさえ総ちゃんドジで昔から、よく怪我ばっかりしてたんだから」

「うん。そうなんだけどな…これといって用もないしな…」

「もう。用がなくてもいくの!そうだ。お正月とか、奥さんと行ったりしないの?」

「うーん。うちはなぁ…なんていうか…ちょっと違うんだよな…別に仲が悪いってわけじゃないんだけどさ。お互い遠慮してるっていうか…どうも合わなくてな…結局俺が、ほんとにたまに地元に用事があるときにちょっと顔出すくらいなんだ」

「そっか…奥さんとご両親の問題ね…難しいね…私は総ちゃんのお父さんもお母さんも好きだけどな。面白いし、優しいし…」

「そうか?変わってるだけじゃないか?」

「そんなことないよ。お父さんもお母さんも総ちゃんのこと大好きなんだなぁってすっごく感じるもん」


 今まで一度も考えたことはなかったが…ふとある思いに突き当たった…

 もし、俺が木綿子と結婚していたら、うちの両親はどう思ったのだろうか…恐らく、大喜びしたに違いない。うちの両親は、俺と木綿子が付き合っていた時から、木綿子のことは大のお気に入りだった。あの明るい性格とさすがのお嬢様気質も相まって、礼儀正しい木綿子のことをとても気に入っていたんだ。親父は木綿子をベタ褒めし、母親も、「木綿子ちゃんみたいな子がうちにお嫁に来てくれれば、家がとっても明るくなるわよね」なんて言ってたくらいだから。


 真相はわからないけど…もしかしたら、うちの両親は、俺が木綿子と結婚することを望んでいたのかもしれないな…だとすると、妻は両親の希望にはかなっていなかったんだろうな…そう、妻は木綿子とは正反対の性格をしているから…引っ込み思案で、自分の思ったこともなかなか口にすることができない。会話に俺の通訳を必要するときすらある…まぁ性格だから仕方ないとは思うが…そんなことが、俺たち夫婦と俺の両親の疎遠を生み出しているのかもしれない…それに俺の両親、それも特に親父は、昔から孫を楽しみにしていたから、子供をもうけることをしなかったことについては俺も申し訳ないことをしたなって思っているのも確かだしな…。


「それは、木綿のお父さんとお母さん達だって一緒でしょ?優しいし、心は広いし?あれ?」

「うんうん。それは言えてるね。普通、娘の彼氏が夜中に押しかけてきたら怒るし、追い返すよね…きっと」

「だろ?俺、絶対怒られると思ってたもん。ほんとにいいご両親だよ。しかも、俺はとっても感謝してる」

「そうだ!うちのお母さんが前に言ってたんだよ。総ちゃんのこと」

「夜中に押しかけてく男なんてやめて正解だったって?」

「違う、違う。私と総ちゃんのこと話してる時に、総ちゃんには子供がいないって話になって、「木綿と結婚してたら、子沢山だったのにねぇ~私、総太郎くんと木綿の子供ちゃんも見てみたかったなぁ」って話ししてたの。うちのお母さんはとても総ちゃんのこと気に入ってたからさぁ」

「そうなの?」

「うん。そうだよ!今でもたまに言われるよ。あんなに木綿のこと愛してくれた子。他にいないでしょ?って」

「いやぁ、俺はてっきり嫌われてると思ってたから、まっ、嫌われて当然のことしてたからね?」

「そんな事ないよ。私達のあれもこれも全部、お母さん達には全部わかっててさ。ほら、大人でしょ?だから、純粋でいいねってすごく好印象なんだよ。お母さん達の中では…」

「そうなんだ…知らなかったよ」


 本当にこの話を聞くまで、想像すらしてなかった…木綿子のお母さんがそんな風に思ってくれてたなんて…だって俺こそ、自分勝手に娘さんを振り回してたんじゃないかって、それできっと嫌われてしまってるんじゃないかって思っていたくらいだったから。それともう一つ…木綿子のお母さんの言葉に妙に心の奥のほうが暖かくなった…そう、この前、過去に戻った時とおんなじ感覚…いちると電車に揺られていた時と同じ感覚だった…俺は、今まで子供を欲しいと思ったことはなかった…でも、今はそれは少し違うような気がしてきている…これも、いちるの存在があってこそ、思い出したことではあるが、俺も昔は自分の子供が欲しいと願っていたんだ。だから、いちるを抱きしめていると心が暖かくなるし、そのことを考えると今でも、とても切なくなる…そして、落胆もする…妻を愛していなかったんじゃないかって…だってそうだろ?愛情があればこそ、その人の分身でもある子供がどうしたって欲しいと思うじゃないか…俺には今までそれがなかったんだ…自分の嫌な部分も同時に思い知らされてしまった…


 あれ?なんか変な感じだ…でも、俺自身はそんな事とうに分かっていたんじゃないかって?もしかして、いちるは、俺の願望が生み出した幻想なんじゃないかとも思えてきた。俺自身、実際は子供が嫌いなわけじゃない。木綿子と付き合っていた当時だって、俺と木綿子の子供はきっと可愛いだろうななんて思っていたくらいだ。そしてそれはきっと女の子じゃないかってまで考えてたりしてた。ふっ、それにしても当時の俺、気が早すぎるわ…


 そんな事を考えている間にも木綿子の話は続く。


「ほら、あの時だって、すっごく遅くなったけど、ちゃんと木綿を送り届けてくれたじゃない?」

「もしかして静岡の帰りのこと?」

「そうそう、あの時だって、総ちゃんはなんにも悪くないのに、木綿の両親に何度も何度も頭下げて、遅くなってしまってすみませんでした。って謝っててさ…」

「そうだっけ?」

「そうだよ。祭日で東名高速が大渋滞でどうしようもなかったのに…平謝りしてさ」

「そういえば、あの日は本当にすごく混んでたよね…」

「私こそ、総ちゃんに謝りたかったよ。総ちゃんは一番遠くから来て行きも帰りもずっと運転しっぱなしなのに、私なんか帰り道、ぐうすか寝てたくらいなんだから」

「そうだっけ?でも、俺の記憶だと、結構、気遣って起きててくれた覚えがあるんだけどな…」

「うん。頑張ってたんだけどね…途中で総ちゃんがかけてくれた虎さん毛布にやられて眠ってしまったのです。あの時はさすがにずーっと渋滞で辛かったでしょ?」

「まぁね…でもあの頃から、車の運転は好きだったから、そうでもなかったと思うよ…」

「うそだー。あの時、目がすっごく疲れてそうだったもん」


 ついさっきの一件があったから、木綿子には、言えなかったが、俺はあの日、渋滞については全く辛くなんてなかった。だって隣に木綿子が座ってくれてるだけで、俺は楽しかったから、ただ、こうして木綿子と一緒にいられるのが最後なんだと思うとそれだけは少し辛かったかもしれない…でも、せっかくの二人きりの機会を楽しく過ごそうと少しだけ、無理して笑っていたかもしれないな…そう、木綿子はこの時、既に、旦那さんと順調に交際をすすめていたからだった。そうは言ってもそんな事を言ってる俺だって、当時付き合っている女性もいたから、偉そうなことはなにもいえない状況ではあったんだけど…


「そうそう、あの時、俺、遠くに住んでたじゃん。しかも、朝早い仕事だったでしょ?」

「そうだったね。まぁ今も遠くの辺境の地に住んでるけどね…」

「まあね…そう、今でこそ笑い話なんだけど、木綿を送り届けたあと、そのまま仕事に行くつもりだったんだよ…つもりね…いつも四時出勤してたからさ…でもシャワーだけでも浴びたいなって思って部屋に戻ってシャワーを浴びたまでは覚えてるんだけど…そのあと記憶を失って…ドアを壊す勢いで叩く音で目が覚めてさ。ヤバイって思って飛び起きたら、先輩と親方が怖い顔して部屋の前で仁王立ちしてた…もう…そのときばっかりは血の気が引いたよね…そのあとこってりと絞られたんだよ…でもさ、普段はそんな事ないんだからって先輩がかばってくれて、なんとか許してもらえたんだけどね…」

「そんな事があったんだ。やっぱり疲れてたんじゃん。木綿はそんなこと知らずに気持ちよくおうちで、おねんねしてたと思うよ。また木綿せいで怒られちゃったんだね」

「別に木綿のせいじゃないよ。もう、みんな起きてる時間だったんだから、一本連絡すれば良かったんだよ…」

「総ちゃんほとんど、休みなしで木綿を送り届けてくれたんだからそりゃ疲れるよね…。ありがとね」

「あぁ~あ、今だったら、道も知ってるしさ。あんな渋滞に巻き込まれずに帰って来れるのになぁ~まだ、免許とってすぐだったし、今みたいにナビだって発達してなかったからな…」

「そうだよね。今は私みたいな、全然道を知らない人でも、ナビ一つでどこでも連れてってくれるもんね」

「でもさ、そう考えると、そういう不便さもまた、いい思い出になるよな?」

「そうかもしれないね…今なら、声を聞きたければ…すぐに携帯で連絡できるし、会いたければ、遠くにいてもテレビ電話とかさ便利なものいっぱいあるから。でもそれじゃ、こうやっていい思い出にならないかもしれないね…」

「うん。でも、不便だからこそ、想いとかが増幅されるってのもあると思わない?」

「うん、うん。わかる。それに総ちゃんはー、何か少し障害があるほうが燃えるタイプだしね…だって電車がなければ、平気で自転車できちゃうってくらいの人だからさ。余計そう思うんだよ」

「また、そういうこと言うの?」

「言うよ。だって総ちゃんみたいな人、他にいないもん…」

「そんなの俺が馬鹿なだけでしょ?」

「馬鹿なんかじゃないよ。総ちゃんは。確かにさ、木綿の想像よりも、更に上のことをしてくれるけど、いつもまっすぐで、優しくて、そんな優しさに木綿が甘えてしまっていつもいつも、総ちゃんに辛い思いをさせてたんだと思うよ」


 本当のことを言うと、木綿子と一緒にいて辛いと思ったことは一度もない。唯一、辛かったのは、一緒に生きていけない現実を受け入れた時だけだった。そう、それはこの静岡遠征のちょっと前に起きた出来事。でも、その出来事を木綿子は知らない。俺が話をしない限り、その出来事の話が木綿子の口から語られることはないだろう…。


「おーい。いつまで待たせんだ。この野郎!」

「ちっ。なんだお前か?」

「お前、今、舌打ちしただろ?」

「したよ。なんか問題あるか?」

「おいおい、随分な物言いじゃねえか?もう連れてってやんねえぞ」

「いやぁ、それは困るけどさ。今、大事なこと思い出してから邪魔はされたくねえなって思ってな」

「だから、さっきいったろ、邪魔するって」

「邪魔するってこのことだったのかよ」

「まあな」と言って頭をかく中年。

「おいおいっ、俺の描写まで、適当になってないか?」

「そうか?そんなのどうでもいいだろ?じゃ、そろそろ行くか?でも今回は、最後の作戦タイムだ。きっとその次に行くであろうあの日の為の準備をしてくる」

「俺の扱いに慣れてきやがったなぁ?でもまぁ、やる気が出てるのはいいことだ」

「まあな。結局のとこお前は俺ってわかったし、それに自分の気持ちもはっきりとわかったから、あとはやるだけだ」

「よーし。じゃ行ってこいや」

「おう、任せろ」


 俺は、ガラスの中に飛び込んだ。




 懐かしいなぁ。これは俺が二十歳のときにめいいっぱい背伸びして初めて中古で買った高級車じゃないか?。パールホワイトの塗装がとっても綺麗で大好きだった車だ…とはいえ…数年で維持できなくなり手放してしまった車だけどな…今回は俺がこいつを運転して、若かりし頃の俺は、当時の実際と同じように、親父の車を借りてるってわけね。そして、俺の隣には…足をぶらつかせながら、スイカアイスを美味そうにかじっているいちるが座ってるってことで?問題無いな。全て俺の予想通りで口から笑みがこぼれてしまう。今日のいちるのファッションは、右のサイドにキャラクターの髪留めをひとつ、鮮やかな黄色のプリントTシャツに、デニムのオーバーオールの肩紐を左だけ付けたスタイル。あれっ?どっかにこんなキャラクターいなかったっけか?


「おいっ、いちる。お前本当はチャイルドシートに座んなきゃいけないんだぞ?」

「なぁにそれ?」

「あっそうか、あの時代は確かまだ、そんな規則できてなかったか…ごめんごめん。なんでもないや」


 海に反射する日の光に照らされるいちるの顔。

 楽しそうに笑う笑顔は木綿子そっくりで可愛らしい…今まで夜ばっかりで気づかなかったが、木綿子のとはちょうど逆側に同じようにちょこんと八重歯が顔を出している。八重歯って遺伝するのかな?


「ねえ、そうたろう。きょうはどこにいくの?」

「うん。静岡の焼津ってところで試合の応援にいくんだよ」

「ちあい?」

「うん。手漕ぎボートのレースって感じかな?」

「そうなんだぁ。いちるもたのちみぃ」

「いちる。お前、その名前気に入ったのか?」

「うん。いちる、このおなまえダイスキ」


 少しだけの想定外は、俺はてっきり帰り道にやってくると思っていた。しかし、今はまだ焼津に向かって東名高速の下り線を走っている。ま…時間があるに越したことはないか…


 確か行きはそんなにも渋滞をしていなかった気がする。俺はさらに遠方からだったからかなり早い時間に出発をしていた気がするから、それもあるかもしれない。そう、当時の俺は行きはひとりだったんだ。木綿子は近くに住む何人かで一緒の車に乗って現地で落ち合ったんだった。確か…

 俺は、いちるが海の景色を楽しめるようにと、左車線をあまりスピードを出さずに運転している。

「なぁ、いちる。今回もお前に頼みたいことがあるんだけど」

「なあに?」

「今回、いちるが昔の俺と接触できるか試したい。この時計を使って…俺は病院の時にやってみたが、無理だった…でも、浅草での出来事がある。もしかしたら時計を持ったいちるだったら接触できるかもしれない。もしも、それが成功したらその先の望みがつながるんだ」

「うん。いちるはなんでもするよ。そうたろうがいってくれれば」

「ありがとうな。俺もしっかりサポートするからな」

「うん。いちるがんばる」

「よしっ。じゃあ景気づけになんかうまいものでも食っていくか?静岡はうまいものいっぱいあるぞ!何がいい?マグロに、シラスに、うなぎに色々あるぞ!」

「わたち、うなぎさんがいい。うなぎさんたべたい!」

「なんだ?お前もうなぎ好きなのかぁ」

「そうたろうも、うなぎさんすきなの?」

「うん。俺も子供の頃から大好きだよ。それに、うなぎは木綿子の大好物でもあるんだよ」

「へえーそんなんだぁ。ゆうこさんもすきなんだぁ?」

「うんじゃ、ちっと、浜松まで足を伸ばすか~大会は確か夕方までだから戻ってこれるだろ」

「うん!いこういこう!でも、ちあいみなくていいの?」

「ああ、できれば見たかったけど、今回の目的は帰り道での合流だからな。平気だよ」

「そっか」

「あのさ、いちる。やっぱり、まだママの記憶は全くないのか?」

「うん…でもね…やっぱりこれはママのにおいする」とポケットから取り出すのは、あの時、木綿子からもらったハンドタオル。

「お前、まだ持ってたのか?」

「うん。これはいちるのたからものだもん」

「そっか…でも大丈夫だぞ。俺が絶対にママに逢わせてやるからな」


 いちるの心の奥底にはちゃんと木綿子の記憶が存在している。それは間違いない…そして、いちるは木綿子を求めている。そう、俺と同じように…木綿子の愛情を求めているんだ。俺は、少しだけ、アクセルを踏み込んで浜松を目指した。


 今、既に大会が始まったであろう時間。俺といちるは浜松にいた。三ヶ日出口で下りて、浜名湖の畔で時間調整をしていた。


「ねえ、そうたろう?これ、うみ?」

「一応、海とはつながっているけど、湖だよ」

「おおきくて、きれい…ふじさんもきれいだよ?」

「うん、富士山もよく見えて良かったな。そうだ、いちる。この湖に今から食べるうなぎさんがいっぱい泳いでいるんだぞ」

「え?ほんと?」

「ほんとだよ」

「じゃあ、そうたろう。いっしょにつかまえようよ。そうちたら、ただでたべられるよ?」

 湖に向かって走り出しそうになるいちるの腕を捕まえて、「ははっ、さすがに捕まえられないよ。うなぎさんは、ちょっと深いところにかくれてるから」

「そうなんだぁ」と言いながら、こちらを向き直り、そのまま俺に抱きつくいちる。

「やっぱり、暑くなってきたな?」

「うん。でも、いちるあついほうがスキ」

「うん。俺もだよ。寒いのは好きじゃない」

「でも、ふゆのくうきはすき」

「なんか冬の空気はいいよな?澄んでる気がして」

「うん。とってもおちつく」


 木綿子のことは別にしても、この子はどこまでも、俺の子供なんだな…いろんなところで俺がしっかりと、コピーされている。そんな事がとても嬉しい。やっぱり、この感覚は、自分の子供を持ってみて初めてわかることなんだと思う。ふと、両親の顔が頭に浮かぶ…親父達も俺のことをこんなふうに思ってくれてたのかな?俺に対して、いろんな思いとか、希望とか期待があったのかな?…でも俺、なんにも応えてあげられてないのかもしれないな…子供を持ったわけでもないのに、いちるのおかげで、今までわからなかった感情がいくつもわかってきた。本当にこの子には感謝している。本当に最初は微かな望みであった、いちるが今では、俺にとっての希望そのものであり、俺の力になっている。


「いちる。ありがとな…俺の前に現れてくれて…本当にありがとうな」ぎゅっといちるを抱きしめる。

「わたち、そうたろうのことダイスキ」

「うん。俺もいちるのこと大好きだよ」


 そして、俺は、現実世界でもいちるに逢いたいと本当にそう思った…生まれてきたその瞬間から見守り、そして一緒にいろんなものを見て生きて行きたいとそう願った…

 それから、しばらく、湖畔で追いかけっこをしたり、砂遊びをしたりして、二人で過ごした俺たちは、時間の頃合をみて、近くで有名な鰻の名店まで車を走らせた。


 車を降りるとすぐに、うなぎの焼ける香ばしい香りが、鼻をくすぐる。


「いいにおいぃ~いちる、おなかへったよ~」

「俺もすごくお腹減ったよ」いちるの頭に手を添えて、店の暖簾をくぐる。


 それにしても、ここの所、こっちに来ると何かしら食ってるな…俺たち…まあ、どこにいても、食いしん坊は直んねえってことかな…


 開店して間もない時間にもかかわらず、店内は混雑している。そうだ。今日は、確か祭日だったな…


「お客様、申し訳ありません。ご予約を承ります。本日は大変混雑をしておりまして、ご案内できるのは十四時の焼きからになります。どうなさいますか?」


「そうですか…どうする?他探すか?いちる」

「わたちは、そうたろうにまかせるよ。でも、うなぎさん…たべたいな…」潤んだ瞳で見上げられるともう、他に行こうとは言えなかった。

「二時まで我慢できそうか?」

「わたちはへいき。そうたろうのほうが、がまんできる?」


 あらあら、逆に心配されてしまった…正直、今から二時間以上も待たされるのは多少の辛さはあったが、ここは大人としての対応を考えると…


「では、お願いします。平野で二名お願いします」となった。

「かしこまりました。平野様。先にご注文をお伺いします」


「俺はせっかくだから、特上にするかな?」

「いちるもいっしょのがいい!」

「大丈夫か?結構、量多いぞ。きっと…」

「だいじょうぶぅ」と顔の前でVサインをするいちる。

「よしっ。じゃおんなじ特上な」

「うん。そうたろうといっしょがいい」

「よし、奮発しちゃうか?」

「おう」もうノリノリのいちる。

「うな重の特上を二つで」

「当店のうな重の特上はうなぎ一尾半入っておりますが大丈夫でございますか?」店員さんが心配そうな顔で聞いてくる。

「ええ、もしもの時は私が食べますから」

「そうたろうには、あげないもーん」

「本人もこういってますので、お願いします」

「かしこまりました。特上お二つ。お用意してお待ちしております。十四時までにお越しください」

「はい。よろしくお願いします」


 俺としてみたら、実のところ、あんまり心配していなかった。本人の言うとおり、平気な顔で、平らげてしまうような気がしていた。というのもな…俺が子供の頃も同じ感じだったんだ。もう、いちると同じくらいの歳の時には、大人と全く同じ量の食事をしていたほどの食いしん坊だった。ほら、この前の蕎麦屋だって、しっかり、一人前を平らげた上に、俺の海老まで食ってしまったくらいだから、あながち、いちるの宣言は勢いで言っているわけでもないなって感じがしていた。


それにしてもまた時間が空いてしまった。かと言ってこれから焼津に戻ったところでとんぼがえりになってしまうからあまり意味がなさそうである。どうしたものかと思ったが、結局、さっきの湖畔に戻って時間を潰すことにした。


 俺たちはさっき遊んでいたところの先に貸しボート屋を見つけて、二人でスワンボートに乗ることにしたのだが…俺にとっては、これまた、空腹に追い討ちをかけるような無謀な挑戦になってしまった…いちるの応援のおかげで、なんとか桟橋に戻ってこれたが、疲労と空腹は限界に達していた。


「手漕ぎボートだったら得意なんだぜ」

「はいはい。でもよくがんばりまちた」

「今度は腹減りじゃないときにゆっくりと乗りたいな」

「うん。そうちよ」


 やっとの思いでありつけるうなぎが、炭火の上でじっくりと焼き上げられているであろう時間に再び、店の暖簾をくぐった。うなぎの美味そうな香りにお腹がよじれそうになりながら、店内の待合椅子に座る。

 本当にいちるは、大した子だ。ぐずるどころか、逆に俺が励まされてるよ。


 すぐに、店員さんが俺たちのことを呼びに来てくれて奥の座敷に案内された。


 俺は、店員さんが淹れてくれた熱いお茶をすすりながら、嬉しそうな顔をしてうなぎの到着を待っているいちるの顔を眺めている。


「いちる。お前、ほんとにお利口だよな?絶対に騒いだりしないしさ、行儀もいいしさ。ほんと、誰に似たんだろうな?」

「そお?いちるは、いつでもそのままだよ。わたちは、そうたろうといっしょにいれるだけでたのちいから、そうたろうをこまらせたくないもん」

「そっか…えらいな…いちるは」

「そうたろうにほめてもらった!うれちい」


「お待たせしました。お客様。うな重特上になります」

 先程の店員さんが、お膳をもってやってきた。

「あ、すみません。ではそっちからお願いします」といちるの方へ促す。

「わーい。うなぎさんだー」目の前に置かれたうな重を見て大喜びするいちる。

「先に食ってていいよ」

「いやだー。そうたろうといっしょにたべる」

「すぐくるから、大丈夫だよ」

「まつのー」

「わかった、わかった。ありがとな。さすがにペコペコだろうと思ってさ」この強情さは、きっと木綿子譲りだな…

「そうたろうもいっしょでしょ?」

 ほんとに優しい子なんだな。この子は…

「大変、お待たせしました。うな重特上になります」

「どうも」店員さんから受け取る。やっとご飯にありつける…

「さあ、いちる食うか?」

「うん。たべるー」

「頂きます!」

「いただきまーす」

 いちるは早速、うなぎに箸を振り下ろして格闘を始めた。

「うわーっ、このうなぎさん。おいちいー」

「そっか。おいしいか。よかったな、いちる」

「うん」

 俺は、テーブルの端に置かれた山椒に手を伸ばす。

「なあにそれ?」いちるが不思議そうな目をしながら聞いてくる。

「これは、山椒って言って、うなぎの臭みをとる薬味なんだよ。まぁ、ここのは臭みがほとんどないから別につけなくてもいい気もするけどね。まっ好みだね。俺は結構好きかな?山椒」

「じゃ、わたちもつける」

「別に無理してつけることないぞ。ちょっと辛いし…」

「つけてみるー」

「じゃ、とりあえず、味見してみるか?」

「うん」

「手、出して」

「うん」いちるは、俺のほうに手のひらを上にむけて左手を出す。

 俺は、いちるの手をとって、いちるの手の甲にほんの少しだけ、細かく挽かれた山椒を出してやる。

「ちょっとだけ、舐めてみな?で美味しかったら、うなぎにつけて食べるといいよ」

「うん。ありがと」と、いちるは言って自分の手の甲をぺろっと舐める。

「……うにゃぁ……」なんとなく予想はしていたが…案の定いちるは、眉間にしわを寄せて、うるうると瞳を潤ませている。

「ほら、うなぎにつけなくて正解だったろ?」

「おとなのあじーっ」

「はははっ、ちょっと辛かったな」

「うん。つんつんいがいがにーってかんじ」

「そっか、もうちょっとお姉さんになると美味しく感じるようになるかもな」

「うん。がんばって、おねえさんになる」

「ほら、お水」自分の手元にあったコップをいちるのほうに押してやる。

「ありがと」小さな両手でコップを手に取り、うごうごと飲むいちる。

「さぁ気を取り直して食べるぞ」

「おう!」すぐにいちるも気を取り直して箸を構える。


 やはり、うなぎは天然ものが良い。確かに肉付きは養殖物の方がよかったりするから、ボリューム的にはそちらも良いかもしれないがやっぱり味が違うよな…程よい硬さと旨い脂、香りも段違いだ。本当に旨いうなぎを食すると、日本人で生まれてきたことの喜びを再認識する。いちるにも、この味を伝えることができてとても嬉しい。


 いちるはと言うと…本当に美味そうに、嬉しそうに、うなぎを次々に口に運んでいる。ほんと、よく食うわ。この子…


 俺たちは、二人で合計三匹のうなぎを、いとも簡単に平らげた。いちるは、最後に肝吸いの肝を、ちゅるっと吸い込んであっさり完食。あらかたの予想通り、米粒ひとつ残さずに食べきった。


「うー腹いっぱいだ」

「おいちかったー」

「よかったな?なっこれが、本物のうなぎの味だぞ。忘れないように覚えておくんだぞ」

「うん。わすれないよー」いちるの顔も満足そうだった。

「じゃ、そろそろ行くか?」

「うん。いこー」

「じゃ、ごちそうさま」

「ごちそうさまでちた」


 二人で席をたって、会計を済ませて店を出る。時計に目をやるとすでに十五時前だった。

「こっから、焼津まで一時間ちょっとって所だから、ちょうどよく合流できるな」

「うん、うん」いちるは頷いて、俺の手を握る。俺がいちるの手を握り返すといちるは可愛く笑顔を返してくれた。


 車に戻って、エンジンをかけ、エアコンを最大にして、また外にでる。

「いちる、ちょっと待ってな、車の中暑くて乗れないや」

「うん。じゃあ、おくるまのれるようになるまで、このまえのちて?」

「ん?なんだこの前のって?」

「たかくて、とおくまでみえるやつ」

「おう、肩車な。いいぞ」

「そうたろうに、かたぐるま、ちてもらえばふじさんここからでもみえるかな?」と言って、肩車をせがむいちる。

「どうだろう?とりあえずやってみるか」

「おう」といって俺の前に立ついちる。

 俺もしゃがんでからいちるを肩車してやる。

「わーい。たかーい。このまえよりもたかいかんじするー」

「今日は昼間だから、余計に遠くまで見えるからだよ。きっと」

「うん。でもふじさんみえないみたい…」

「方角的にも、位置的にも厳しかったか…まっ、富士山はまたあとでのお楽しみにしような?いちる」

「うん。そうする…」ちょっと寂しそうに、俺の髪の毛をいじるいちる。


 そのまま、いちるを肩車したまま、駐車場を少し歩くと、なんとなく食後の運動をした気持ちになった。眠気を気にせずに、走れそうな気分だった。


「さあ、そろそろ大丈夫だろ。いこうか?いちる」

「しゅっぱーつ」肩の上で右手をあげるいちるを見上げる。元気な子だ。ほんと。


 今度は、二人で、車に乗り込む。室内の温度もちょうどよく、落ち着いたようだ。

 すぐに車を出してインターに向かう。俺の計算通りならちょうど大会が終わる直前には、会場に着けるはず…だった…


 しかし、俺は、今回もやらかしてしまうことになる…油断をしていたのは確かだった…そして、今回こちらにきた本当の目的を果たせないという危機的状況は、もう目の前に迫っていた…まぁ…俺が現地のラジオも付けずに運転していたのも問題ありだったけどな…


 そう、その答えは、インター入り口の電光掲示板にあった。

『事故渋滞有 焼津まで二時間以上』の表示…なんてこった…この時間から始まっていたのかよ…いきなりのピンチ到来である。もう少し考えておくべきだった。こういった可能性を…俺の記憶では、焼津インターからのって、しばらく走ってから、渋滞に巻き込まれた記憶が残っていた為に、正直油断していた…まぁな…俺がこっちに来ていてまともにことが進んだことなんかないからな…仕方ないといえば、仕方ないか…さてと…どうしたものか…とりあえずは、渋滞はまだ先のようなので、そのまま入り口で発券して、高速にのる。


「いちる。やばいかも…もう渋滞始まってるみたいだ。間に合わないかもしれない…」

「わたちのせいだ…わたちが、うなぎさんたべたいなんていうからだ…ごめんね…そうたろう」

「何言ってるんだよ。いちるは悪くないよ。俺の読みが甘かっただけだよ。でも…なんとか間に合わせてやる」

「そうたろう。むりちないでね」

「うん。わかってるよ。昔の俺じゃないからな。なんとかしてやるよ」


 昔の俺は、全くと言っていいほど道を知らなかった…だから大渋滞していようと高速の上を走るしかなかった…だけど、今はだいぶ道も知っている。そして奴は、高速しか乗らない。もし、焼津に間に合わなくても、必ずどこかで追いつけるはずだ…そして、奴が休憩するパーキングも覚えている。だから、きっとなんとかなる。


 しばらく、走ると状況がなんとなくわかってくる。菊川インターの手前で事故があり、掛川から相良牧之原までが大渋滞になっているようだ…その区間をなんとかくぐり抜けられれば、なんとかなりそうである。


「いちる。こういう感じで渋滞している時は、渋滞が始まるより一個前のインターで降りたほうがいいんだ」

「どうちて?」

「気持ち的にはギリギリまで行きたい所なんだけどな…そうするとだいたい降りた瞬間に、下道も渋滞していることが多いから、降りても結局、あんまり意味がなかったりするんだよ。だから、そこよりも前に降りて、下道の渋滞も回避する作戦を考えるんだよ」

「へえ~そうなんだーすごいねー」

「とは言ってもな…焼津には多分間に合わないと思うけど…なんとか県内で二人を捉えたいところだな。でもなんとかなるよ」


 今の所の計画はこうだ。袋井で降りてしばらくはバイパスを使い、掛川に入ってからは確か、東海道本線沿いに道があったはずだから、そちらから牧之原に抜けてもいいし、厳しいようなら山側を抜けてもいい。とにかく、掛川周辺での高速の渋滞情報によってといったところだろう。最悪は、静岡インターまで下で行ってしまったほうが良いかもしれないな…


「そうたろうはどうちて、そんなにみちにくわちいの?」

「俺の会社、車での出張が多いんだよ。しかもケチな会社だからさ…あんまり高速使わせてくれないんだよ」

「そうなんだ。だからくわちいのね」

「そうなんだよ…まっそれのおかげで、助けられそうだけどな…」


 経験による渋滞回避スキルのおかげで、下道でも順調に走る中、いちるに今回の詳しい作戦を伝えることにした。


「いちる。俺が、なんとかあいつらに追いつけたら、朝話した作戦を実行したい」

「うん。まかちて」

「あいつらは、渋滞の中、何回かパーキングで休憩をする。そしてその時、いちるは若い頃の俺が一人になった時を見計らって、この時計を手に持ってあいつに声をかけてほしいんだ。お兄さん。今、この時計落としませんでしたか?って。それで、いちると若い頃の俺が接触できれば、大成功。失敗したら、また作戦の練り直しって感じだ」

「わたちは、あっちのそうたろうにはなちかければいいのね?」

「うん。そうだよ。簡単だろ?」

「うん。それならできるよ」

「でも、今回は木綿子には見つからないように頼むな。浅草での記憶が残っている可能性があるからな」

「うん。わかった。わたちにまかせて!」

「よしっ、たのんだぞ」


 三十分程走り、袋井インターで降りて、その後も順調に掛川市内に入る。市内に入るとやはり、少し車が増えてきた。どうするかと、悩みつつ、ラジオに耳を傾けると…高速の事故渋滞は解消されておらず…更に渋滞は伸びている様子。今後の予想をしてみる。このままいくと、恐らく焼津に到着前に本格的に渋滞が始まってしまう。ということは…どうせ渋滞に突っ込むならばと…昔の記憶を探りながら、静岡インターまで山側経由で行ってしまったほうが良さそうだな…そこでちょうど、追いつけるかどうかって感じかもしれない…


「まだまだ、かかるからいちるは眠くなったら、寝てていいぞ」

「………」

 返事がないので、ちらりと助手席を確認して俺も安心する。いちるは既に静かにお腹を動かしながら眠りについてしまったようだった。俺としても好都合である。集中して運転することができるから。もしかしたら、そんな気まで使ってくれたのかもな?いちることだから…


 それにしても、俺も慣れてしまったものだ…本来は、現実での時間にすると駅の改札を抜けてから、ほんの何時間の出来事のはずなんだけど…何日と言うか何年と言うかとんでもない時間が過ぎているように感じる。本当に不思議なことの連続でパニックに陥りそうになったこともあった。でも…今日、あの駅に降り立って、良かったと思っている。あの駅を降り立って木綿子と再会して本当に良かったと思っている。もし、再会していなかったら、きっとまた後悔が増えていたんじゃないかと思う。ひょんなことから、こうして木綿子との大切な思い出を巡ることによって、いろいろな気持ちを思い出したし、今まで考えたこともなかったようなことにだって気づくことが出来た。嫌なやつだけどな…あいつにも感謝している。俺はあいつが現れなかったとしたら、きっと、木綿子と再会したとしても、あのままだった。自分の気持ちを噛み殺し、隠しただろう…俺は、木綿子を傷つけることはしたくなかったから、でも今は、少し違う…俺はあいつと初めて会った時のあいつの言葉の意味をやっと知った。時間や状況ではない。自分自身の問題であるってことにやっと気付くことが出来たんだ。俺は、やっぱり木綿子のことが好きだ。たとえ、何年経とうとも、何十年経とうとも全く変わることはなかった。そして、今でも、俺は木綿子を求めている。これからの残りの人生だけでもいいから俺は木綿子と共に生きていきたいと思っている。


 俺は、あんまり神様なんて信じていないんだけどな…少しだけ言わせて欲しい。なぁ、神様さ。全部、俺が悪者でもいい。それがどんなに辛いことだとしても全て俺が背負うから…木綿子と一緒にいさせてくれないだろうか?もし、それが罪だって言うんなら、死んだあと地獄にでもなんでも落としてくれて構わないから。この現世で木綿子と一緒にいれるんなら、俺は死ぬ時に地獄に行くって分かっていても笑って死んでやる。それほど、俺の心にはずっと、木綿子がいて離れないんだ…やっぱりこのままじゃ、笑って死ねないや…


 まっ…さすがに本人にはこんなこと恥ずかしくて言えないけどなぁ…なんてことを考えながら車を走らせている。

 結局、山側を選択した俺は、1国を使いつつ脇道も活用して、静岡市内までなんとか予想通りに走破出来ている。あともうしばらく走れば、静岡インターに到達できるところまできた。時間を確認すると、そろそろ奴らが、焼津インターにのったかのらないかっていう時間だ。上りの本格的な渋滞は静岡インターの先からだから恐らく、いいタイミングで追いつけるって感じだな…そろそろ、いちるも起こしたほうが良さそうかな?


「おいっ、いちる。もうすぐ高速のるぞ」

「んーーー?」体をすこし揺すってやると両腕をまっすぐ上にあげて豪快に伸びをするいちる。

「起きたか?」

「うーん。おきたぁ」

「もうすぐ高速だぞ」

「もうついたの?」

「おう、なんとか間に合いそうだよ」

「ふーん。うーん。そうたろう。ちっこ」

「おう、そうか!そうだよな。トイレ、高速のる前に行っといたほうがいいよな」

「うん。もうもれるー」

「うわー。ちょっと待ってな。すぐどっか入るから」


 さすがにここまでは計算に入れていなかった…でも、とにかく急いで入れる所を探す。そうだ!スタンドでもいいな。すぐに見渡すと幸い静岡インター前の通りのおかげてすぐにガソリンスタンドを見つけることができた。とりあえず、一番近くのスタンドに滑り込み、待合所の前に車をつけて、飛び降りるとすぐにいちるを助手席から担ぎ出して、店員さんに「トイレ借りますねー」と言い放ちトイレに駆け込む俺。個室に入っていちるを座らせるとほっと肩を撫で下ろす。


「はあ、間に合った…」

「もうーそうたろう。でていってよ。わたちできないよー」と言って俺の脚をがつがつと蹴るいちる。

「あっ悪い…ごめんごめん。ゆっくりしていいぞ」と言って個室を出る。やっぱりあんなに小さくても女の子なんだな…悪いことをした…あとでなんかお詫びしなくちゃいけないな…


「はあ…それにしても、親っていうのも大変だな…」俺は妻の息子に初めて会った時はもう少し大きくなってあとで、こういう苦労はしていないんだよな…なんて事を思い出してしまった。


 いちるは、すこし恥ずかしそうにトイレから出てくる。でも俺はあえて何もなかったように接する。

「じゃ、行くか?」

「うん…いこっ」いちるもこちらの気遣いに気づいたのか…すぐにいつもどおりの明るい表情に戻って俺の腕を掴む。


 すぐに車に乗って車を出すのは気が引けたので、半分程度しか減っていなかったガソリンを満タンまで給油してから店を出ることにした。どうせどこかで入れるつもりだったから別段問題もなかった。少し気になったのは時間だけだった。給油を待つ間に、いちるには、甘いジュースを買ってやってから車に戻る。大したタイムロスもしていなそうだから大丈夫だろ…きっと…。


 店を出て少し走るとすぐに静岡インターの入り口が見えてくる。電光掲示板には、日本平パーキング辺から渋滞が続くようだ…。記憶どおりで助かった。俺たちは入り口でまた券を受けとって高速にのる。恐らく奴らは、俺たちの前を走っているはずだ。とりあえず、渋滞前にまでに追いつかなくちゃいけねえな…幸いなことに木綿子を乗せて走っている若き俺は、超安全運転だから追いつけるはずだ。


「いちる。濃い緑の乗用車。この車と同じような形の車を見つけたら教えてくれ」

「こいみどりいろね。まかちて」


 少しだけ強めにアクセルを踏んで先を急ぐ、奴らが順調に走っていたら、恐らく何キロか先を走っているはずである。無理はしない程度に少しずつ先行車を抜きつつ、確認するって感じで追いかけている。それにしても懐かしい車ばかり走っているな…そりゃ時代が違うからな…なんて余計なことを考えていたらすぐに、いちるが声をあげる。


「あれ、ちがう?」指を差すのは緑色のステーションワゴン。

「うん。ちょっと違うかな?」

「そっかぁ…うん。いちる。がんばる」


 車の数がどんどんと増えてきている。俺は運転に気を使いつつ、いちるが見つけやすいように、時々車線変更をしながら、前に進んで行く。


「あっ!そうたろう!きっとあれだよ!すこちまえのひだりがわのくるま、そうじゃない?」

「ちょっと待ってな。もうちょっと近づくから…車種はそうっぽいけどな…そうだ!確かあの頃後部座席の後ろに白い虎のぬいぐるみを置いてた気がするぞ。なんか見えないか?」

「うーん。ここからだと、まだみえないかも…」

「おしっ。もうすこしだからな」

「あーっ。とらさん。いたーっ」

「よっしゃっ!ナイスいちる!」俺が助手席のほうに左手をかざすと、いちるがそれに応じる様に両手で、パチンとハイタッチをしてきた。

「これでもうあんちんだね!」

「いちる、よくやった!ありがとな」

「うん。がんばったよ。わたち」


 こうして、俺たちはなんとか、若き二人が乗った親父の車を捉えることができた。あっ、もちろん。あの虎のぬいぐるみは俺が置いたものだけどな…なぜか、あの頃は虎がマイブームだったんだよ。仕方ないだろ…だから車の中も、虎柄の小物がたくさん、置いてあったんだ。虎柄毛布とかな…


 さてと…あとはパーキングで作戦を決行するだけってことになるんだけど…確かあの日の帰り道の寄ったパーキングは三ヶ所、富士川SA、足柄SA、海老名SAだったはずだ。そのどこかであの頃の俺といちるの接触を図りたいと思っている。それも、木綿子がいない隙にということだ。俺は、この腕時計がいちるに反応しているんじゃないかって踏んでいる。だから、あの時、浅草では俺たちは木綿子と接触できたんじゃないかって思うんだ。俺は若い頃の自分には、接触干渉することはできなかった。この時計をしていても…そして、病院や蕎麦屋ではその四人が揃っていたにもかかわらず、あの二人は俺たちに気づくこともなかった…病室でも、三人でいたときに奴は俺を認識することができなかったわけだから、多分、俺自身が過去の俺本人に接触するのは無理なんじゃないだろうか…と考えている。よって今回の作戦の結果如何で次の展望も見えてくるはずだ。もし、いちる単独で、若い頃の俺に接触することができれば、俺が考える木綿子と俺の最大のターニングポイントで役に立つはずなんだ。だから、今回は作戦というよりも、実験って感じだけど…それをいちるに託してみようと思っている。


 しばらくは見失わないように、二台ほど別の車をはさんで、奴らを追いかけていたが、そろそろ渋滞の兆しが見えてきたために前を走る車を追い越して真後ろに付ける。

「あーとらさんだー」いちるは、後部座席の後ろの虎のぬいぐるみに手を振っている。

「でも、そうたろう?だいじょうぶなの?こんなにちかづいて?」

「うん。大丈夫。そもそも、前を走る俺はまだこの車のこと知らないから。この車はあいつからしたら、もっと未来に買った車ってことになるからさ」

「ふーん。そうなんだー。じゃ、だいじょぶそうだね」


 そのあとは、少し走ったところで、完全に車の流れが止まった。そう…ここからが本当の長旅だ。この渋滞はこのあと、東京インターを過ぎるまで続くことになる。今、こっちの時間で午後五時過ぎなわけだけど…あの日、木綿子を実家に送り届けたのが午前零時過ぎになってしまったんだ。ざっと七時間近くも渋滞にはまることになる。確かに何度かパーキングには寄ったが…そもそもそのパーキングに入るのも一苦労した記憶があるくらいだから、今考えても、とんでもない渋滞だったな。うんざりするほどの渋滞ではあるけど、木綿子といちるという違いがあるものの、今回もとなりに相棒が座ってくれているのは、この渋滞に立ち向かうには本当に心強い。誰だってそうかもしれないけど、俺、とにかく渋滞が嫌いなんだよ。なんか、道路上に監禁されてるような圧迫感があると言うか…なんとも息苦しいんだよ。


「つまらなくなったら、いちるがおうた、うたってあげるからね」

「おっ。そうか?何歌ってくれるの?」

「うーん?ぞうさんとか?」

「いいね!じゃ、あとで頼むな!」

「まかちて!」


 そんな他愛のない会話をしながら、ハンドルを握る俺。そういえば、あの時、俺は木綿子とどんな会話をしていたんだっけな?実は、あまり覚えていないんだ…やっぱり何か上の空というか、俺の心はずっと動揺していた気がする。だから、確か木綿子が昔から好きな音楽や俺の好きな音楽を流して紛らわせていたような気がする。俺の中では、木綿子を諦めなくてはならないんだという気持ちに無理やり持っていこうとしていた頃ったから…そう、この遠征の少し前、俺は最後の大きなチャンスを自分から逸してしまった。そう、あの日、あの駅で…木綿子を呼び止めることができなかった俺は、完全に負け犬モードに入っていたんだ。


 あーあ…また、嫌なことを思い出しちゃったよ…。でも、あの日の出来事のことだけは、絶対に忘れることはできないんだろうな…今時点で二十年以上も経ってるんだぜ?だけど、ありきたりな表現だけど、何もかも鮮明に覚えてる。あの日、木綿子と交わした会話、階段でうずくまって震えていた自分…終電の後、駅を追い出されてから歩いた夜の道…みんな鮮明に覚えている。俺の人生での最大の後悔と言っても過言ではないあの日の出来事。俺はわかっていた。鏡の向こうの俺がいかにして木綿子と結ばれたか…そんなの教えられなくてもわかる。あいつは、あの日の出来事を自分の力で乗り切ったんだ。それほど明確な出来事だった。あの日、木綿子を呼び止められなかった俺とあの日、木綿子を呼び止めて自分の気持ちをはっきりと伝えて自分の腕に引き戻すことに成功したあいつ。たったそれだけの違いなんだ。


「あー。そうたろう。あっちにいくみたいだよ」前を走る親父の車は富士川パーキングに入る車の列に並ぶようにウインカーを出して左側に寄せていく、俺もそのあとについて行く。

「よしっ。いちる。準備はいいか?」

「うん。オッケーだよ。でも、まだじかんかかりそうだね…」

「そうだな。結構並んでるな…」


 それから、パーキングに入って駐車するまで三十分近くかかってしまったがなんとか、二人の車と少し離れた場所に停めることができた。


「んじゃ、行くかいちる。俺はなるべく離れているが、絶対にいちるから見える場所にいるから、なにかあったら合図しろよ?俺も何かあったら合図するから。はい。この時計、落とすなよ」左腕から時計を外していちるに渡す。

「うん。だいじょうぶ。まかちて」と言って時計を俺から受け取り、歩き出すいちる。 


 そんな姿のいちるを見るとなんか、たくましく思えてくる。俺は少し離れた位置からいちるを観察する。努めて自然に…そして、若き俺はというと、今は外にある売店の長く伸びた行列に木綿子と並んで何か買い出しをするようだ…でも俺たちにとってのチャンスがすぐに到来する。列に並んだふたりは何やら会話すると、その列には木綿子だけが残り、若き俺は列を離れて建物の方へ向かっていく。二人で手分けして、買い出しをすることになったみたいだ。多分若き俺は、建物の中にあるコーヒーショップで飲み物を買うつもりなんじゃないだろうか?俺はすぐにいちるに合図を送る。


 少し離れたベンチに座るいちるは、俺の方を眺めている。俺は大きなジェスチャーで両手を使いそこで待つように指示を送る。いちるもすぐに理解したのか、頭の上で両手で丸を作り返事をしてきた。よしよし。いい感じだ。それで、若き俺が外に出てきた所にいちるを向かわせて作戦決行だ。木綿子もまだ列の中だ。なんとなくうまく行きそうな予感がする。でも俺の良い方向の予感は、まったく当たらないんだな、これが…悪い予感の的中率はすこぶる良いんだけどな…


 しばらくすると、大小の紙カップを二つ持った若き俺が、建物から出てくる。おっ、今だ。行けっいちる。またも合図を送る。


 俺の合図を受けていちるが動き出す。タイミングばっちりだ。奴のちょうど真横からいちるが声をかける感じ、そう!ナイスって……ああああああ、もう!素通りかよ!なんでだよ?なんで木綿子とは接触できたのに!あいつとは接触できなんだよ!


 大変なのはいちるのほうだった。がっくりと肩を落としてこちらに返ってくる。戻ってきたいちるをすかさず抱きしめる。

「いちるはよく頑張ったよ」

「わたち、うまくできなかった。ごめんなさい」

「ううん。いちるは悪くない。謝るのは俺の方だよ。なぁ、いちる。全く声が聞こえたないみたいな感じだった?」

「うん。ねえ、おにいさん!おおきなおこえでいったけど…きこえてなかったみたい」

「そっか…やっぱり、何かが足りないんだな。きっと……」

 なんだ?木綿子の時との違いって……でも何かあるはずだ。思い出せ俺…………

 振り返ると若き俺と木綿子は、既に合流して車の方に向かってゆっくりと歩いている。


「よしっ、いちる。また少し長い時間走るから、トイレに行ってから俺たちも車の戻ろうぜ」

「うん。わかった…」

「なぁ、いちるは気にするなよ。次は、俺がちゃんと対策考えるから」

「うん。ありがと。そうたろう」


 俺たちもすぐに車に戻って、軽い食事をとっている二人の出発を待った。やっぱり、俺はちょっと浅はかな所があるんだよな…正直簡単に考えすぎていた。俺の直接的な接触は無理でも、いちるならって思ってた。それにしても、いちるにかわいそうなことを何度もしているような気がする。なんとか考えないとだな…よし、確か次は足柄PAだったな…なんとかそこで決めないとな…木綿子もそうだが…いちるも海老名に着く前に眠ってしまうかもしれないから…それにしてもなんだよ。違いって……。


 パーキング内は相当の混雑で、本線に戻るのにも苦労した。それでもなんとかしっかりと二人の車の後ろにぴったりとつけている。それにしても、今日の木綿子の表情はいつもどおり、楽しそうな表情をしていたな…。それに引き換え、若き俺ときたら、木綿子と一緒にいるときにだけ無理に笑っている感じがしたな…でも、俺はなんとしてもあいつ。若き俺にあの日の同じ苦しみを味わって欲しくないんだ。だから次こそは、しっかりと布石を打てるように………布石?ん?ん?前段で準備をする?ん?もしかして……木綿子と俺たちが接触出来る準備が整っていたってことか?…………木綿子が先に時計に触れていた?ん?だから、俺たちを認識できた?接触できた?あーーーーーーーっ。きっとそれだ。それ。なんだそういうことか!なぜ、そんなことに気づかねえんだよ。俺っ。でも閃ってすげえな!これは絶対に間違いない!


「いちる!わかったぞ!わ・か・った・ぞ!」

「どおちたの?こうふんちて?」

「なんで、さっき、いちるの声があいつに届かなかったかがわかったんだよ」

「ほんと?」

「今度は間違いない」

「おちえて、おちえて」

「あのさ、浅草の時は、木綿子が先に時計を拾ってくれて、まぁ拾ったわけではないけど、木綿子が時計を触ったあとで、俺達が話かけたじゃないか」

「うんうん」

「っていうことは、まっ、俺本人同士の接触は無理としてもだな、先にあいつが時計を触った上で、いちるが声をかけると接触できるってことなんじゃないかな?」

「そうかもちれない…」

「だろ?」

「うん、きっとそうだよ」

「よしっ、じゃあ、この線を軸に次の作戦を決めなくちゃだな」

「そうちよ。そうちよ。わたち、がんばるよ!」いちるも俺の推測に同意してくれた。

「そうだな、てことは、あいつに先に時計を触らせてから、いちるに突撃してもらうとして……あっそうか、あいつ、そもそも俺のことを認識できないんだから、俺が通りがかりにぶつかる時にさりげなく時計を触らせるってことで解決できるんじゃないかな?」

「え?それはむりかも…」

「え?なんで?」

「だって、ゆうこさん…」

「あっそうか…木綿子はすでに時計に触っているから気づかれる可能性が高いってことか?」

「そうそう」

「てことは、木綿子に気づかれず、奴に時計を触らせるかぁ……あっ、トイレ!いや、ダメだ。それだといちるにゴーサインを出せなくなる…なんだよ。もう!なんだよ。せめて、もうひとり俺がいれば、なんとかなるんだけどなぁ」

「くすくすっ。そうたろう。すでにそうたろうのほかに、ふたりもそうたろうがいるのに、まだたりないの?」

「あはははっ、馬鹿だぁ俺。くくくっ。確かにそれは贅沢っていうもんだ。よしっ、決めた!走るぞ!はぁ、安直だな俺…」結局、最後は力ずくしかねえよ。

「くすくすっ。けっきょくそうなるんだね…」

「いちるが頑張ってるんだから俺が頑張るのは当たり前だよな」

「で、ころんじゃったりね?」

「いちるも、言うなぁ。脚がもつれないように頑張るよ」

「うん。いっしょにがんばろ」

「おう」と言って助手席に右拳を出すと、ちいさな拳でコツンと応えてくれた。


 作戦が決まった後も、牛にでも乗って移動したほうが速いんじゃないかと思う程ののろのろ運転が続く…いちるはと言うと、渋滞で全く車が動かなくなった時なんかは、小さい体をいかして後部座席に乗り移り、俺のレイバンのサングラスを見つけ出してかけると、ジュースの空き缶をマイク代わりに、ラジオから流れる曲に合せて腰をふりふり踊りながら歌い、俺を大いに楽しませてくれた。(この子はロック歌手にでもなるつもりなのか??)その後も退屈をものともせずに楽しく、そして騒がしく、次の作戦地である足柄PAまでたどり着くことができた。


「よし、いちるもうすぐ、到着だぞ。準備はいいか?」

「うん。つぎこそ、うまくやるからね」

「ああ、頼んだぞ。なぁ、いちる。あいつと話せたらさ、元気だせよって言ってやってくれないか?」

「うん。わかった!」

「よろしくな。俺はトイレで奴に時計をさわらせたらすぐに飛んで戻ってくるから、それまでいい子にして待っててくれな?」

「だいじょうぶぅ」と言っていちるは口元でVサインを出してみせた。


 今回は、俺は奴とほぼ同時にトイレに入り、無理やりにでも時計を触らせて、すぐにいちるのところに戻り、奴が木綿子よりも先にトイレから出てくるところに、いちるを向かわせる作戦だ。


 俺は車をなんとか、二人の車の近くに駐車させて行動に移る。いちるの手をしっかりを握り、まずは、トイレの脇に建つ、お土産などを販売する建物から様子を見ている。二人はまだこちらには来ていないので、いちると一緒に外を気にしつつ、土産物を物色する振りをしている。すると…隣にいるいちるの動きが止まっていることに気づく。さっと、視線を下ろすと、いちるの右手には、くたっとした質感のいかにも、目つきの悪い灰色ぶち柄の猫の縫いぐるみが握られていて、それをじっと見つめるいちる姿があった。


「なんだ。いちるもそういうの好きなのか?」

「か、かわいい」と言い、瞳をうるうるとさせてうったえるいちる。

「そっか、そっか。じゃ、作戦が成功したら、ご褒美に買ってやるからな」と俺はにやにやと笑いながら言う。


 また、いちるとの共通点を見つけたような気がしてなんとも嬉しい気分だった。作戦が成功しようと、しまいと買ってやるからな。いちる。


「ほんとう?」

「もちろん」

「そうたろう。ありがと。わたちがんばる」

「おっ、来たぞ。もうちょっとだからな。待っててな」二人がPAの街灯に照らされながらこちらの方に向かって歩いてくるのが見えた。

「うん」


 いちるの視線はまだ、縫いぐるみに釘付けになっているようだ。

「いちる、その子と一緒に待ってるんだぞ」

「うん。まかちて。そうたろう。がんばってね!」

「おう!!」

ふたりは別れてトイレに入っていく。今だ。俺はすぐさま、自動扉から飛び出して、男子トイレに走る。横切る女子トイレは、例により混雑しているようで、ある程度の時間は取れそうだ。でもとにかく走れ!俺。


 男子トイレに入るとそれでも結構な混み様だった、向かって右側ですぐに奴を見つける。よかった。まだ並んでる。しかも最後尾。おっ、ついてるぞ。俺、俺は奴が並んでいる二つ先まで行ってすぐさま、Uターン。そのまま、また出口の方に向かって早歩きをし、そしてすれ違いざまに、ぼけぇっとつっ立っている奴の左腕に、俺の左腕をぶつけるように当てる。ばちっっっ…「痛て!」あれちょっと強すぎたかな?奴は驚きの表情を浮かべてこっちを睨む。「すいません」と謝ったが、あいつに俺のことが見えていたかどうかは判断できない反応だった。俺はそのまま向き直り、そっからはダッシュ!!おいおいなんか俺、悪戯をしたあとの小学生みたいじゃないか…まぁ、精神レベルは小学生以下だから、仕方ねえか…いちるにたしなめられるくらいの俺だからな…



「はぁはぁ、はぁはぁ…そ、そろそろだぞ。いちる。いいか?」いちるのもとに戻った俺は膝に手を置き息を切らしながら言う。

「うん。だいじょうぶ。じゃあね。またあとでね」と言ってぬいぐるみを平台に戻して小さく手を振ってから、こちらに向き直り俺を見るいちる。俺はそこから立ち膝になって時計を外し、いちるの両手に時計をしっかりと持たせてから包むように握らせる。


「よしっ出てきた。今だ!」俺はいちるの両肩を両手でしっかりと掴んだあと、ぽんとやさしく叩いて送り出した。疲労困憊ながら、完璧なタイミングだった。いちるの足で小走りで向かうとちょうど、いちるが奴の後ろから、声をかける構図が出来上がる絶妙な送り出しだった。俺は、彼らからは隔離された建物の中から見守っている。いちるは、しっかりとした足取りで真っ直ぐに奴の方向へ駆け寄っていく。


 おっ!話しかけたぞ…


 振り向く若き俺。やった!やってくれたぞ!いちるの奴。成功したぞ!若き俺は、すこし屈んで、いちると会話しているようだ。もちろん、ここからでは、話の内容は把握まではできないが、今は内容よりも、いちると過去の俺が接触できたと言う事実だけで、十分過ぎる収穫なのである。よしっ。これではっきりとした希望が見えてきた。不可能かと思っていた過去のやり直しができるかもしれないと言う希望に俺の心は踊っていた。そんな俺とは対象的に、いちるには、音もなく危機が迫っていた。そう、俺が、油断している隙に木綿子がトイレから出てきて、二人の後方に迫っていた。慌てていちるに合図しようとするが…あっ、もう間に合わない!とその時、若き俺は、さっきの俺のように膝立ちになり、いちるを一度抱き寄せて、そのまま頭を撫でながら、何か一言二言かけているように見えた。その後は優しく手を振り、バイバイをするような素振りをして、いちるを開放した。本当にギリギリのタイミングだった。そして、いちるはと言うと、こちらの方に向き直って歩き出す。ちょうど木綿子の前を横切るような形でこちらのほうに、得意げな表情で足早に戻ってくる。任務をやりきった彼女の顔は満面の笑みにあふれていた。


 木綿子はというと、自分の前を通り過ぎた少女のことをわざわざ振り返って見つめると、少し首をかしげるような仕草をしてから、もう一度、若き俺の方へ歩いていった。もしかしたら、気づかれたかもしれないな…。いちるは一度、浅草であの頃の木綿子にあっているからな…まぁでも、なんとかセーフってことでいいだろ。


「ただいま!」

「おかえり」建物の中に戻ってきたいちるを抱きしめて迎えた。

「うん」

「よくやった。いちる大成功だよ」いちるの頭を撫でてやる。

「ほんと?」

「本当によくできました。あいつ何か言ってた?」

「このとけい。おれのじゃないけど、キレイだねって、いってた」

「そうか。優しくしてくれたか?」

「うん。そうたろうとおんなじだった。あと、においもおんなじだった」

「そりゃ、同じ人だからな…」

「それもそおだね?」

「言ってくれたか?」

「うん。げんきだちてねっていったら。わらってあたまをなでてくれた。あとね、おなまえもきかれたよ」

「名前なんて聞いてどうするつもりだったんだろ」

「いいなまえだね。パパにかんしゃするんだよっていってくれたよ。それと、ありがとな、いちるちゃんって」

「そっか。俺からもお礼を言うよ。ありがとな。いちる」

「どういたちまして」一段と可愛らしく笑ういちる。

「あれ?いちる。あの髪飾りどうした?」

「え?あれ?」髪を両手で探し、「どこかでおとしちゃったのかな」と悲しげないちる。

「そっか…じゃ後で代わりの探してあげるから、そんなに落ち込むなよ」

「うん、ありがと。そうたろう」嬉しそうに笑いかえすいちる。



 こうして、俺たちの長い長い作戦は、小学生レベルの俺といちるの頑張りで成功をおさめることができた。もちろん、ご褒美のあの目つきの悪い灰色ぶちのいちるの新しいお友達も連れて車に戻る俺たち。いちるはと言うと、作戦を終えた安心感と、新しいお友達ができた嬉しさでいっぱいのようで、車に戻ってからも終始ご機嫌だった。本当に元気な子である。そもそもの資質なのか、うなぎのパワーなのか…いつも以上に元気ないちるだった。と言いつつも、この俺も、今日は延々と運転し続けているはずだけど、大きな収穫もあり、うなぎさんの力も借りつつではあるが、まだまだ元気だった。あー、やっぱり、うなぎ食っといて正解だったな~。


 その後も、しばらくは、二人の車の近くを走っていたが、今回の目的は完璧に達成されたこともあり、次の海老名PAでは接触しないように、少し離れて東京に向かうことにした。足柄を出てとろとろと走り、一時間を過ぎた頃には、さすがにいちるも、例の猫の縫いぐるみとも遊び疲れたと見えて、胸の上に置いた縫いぐるみに抱きしめられるような格好で眠りについてしまったようだった。それはそうだよな…いちるにとっては、めまぐるしい一日だったに違いない。そんな姿を見ると、少し悪いことをしてしまったような、罪悪感にも苛まれるが、いちるは、本当に楽しそうにやってくれた。それは俺にとっても救いだった。


「ありがとな、いちる」後部座席に置いてある毛布を取り出して(今回は虎柄じゃないぞ)いちるにかけてやる。もちろん友達も一緒に毛布に入れてやる。すると、いちるが微かに笑ったような表情を見せた。俺は、この時、あることを思い出す。そうあの日の帰り道、木綿子にもこうして、毛布をかけてあげたんだ。そして、同じように木綿子に言葉をかけたんだ。


『木綿。今まで、ありがとな』届くことのない言葉。木綿子との完全な決別を誓った瞬間の出来事…。


 でも、あの夜の誓いは単なる、敗北宣言に過ぎなくて…結局、俺はなんにもできなかっただけなんだ…どんなに好きだって、愛していたって、運命の糸は、自分で手繰り寄せなくちゃダメだったんだ。


 俺は、静かになった車の中で、いろいろなことを思い出していた。今まで、いちると共に巡った過去の思い出…木綿子と共に一喜一憂した青春時代の思い出、楽しかった思い出、寂しかった思い出、確かに辛い思い出も多少あるけど、俺はその全てをやっぱり愛しく想う。この気持ちって過去の思い出を美化しているだけなのかな?俺は、違うような気がしている。だって、俺の心の中の気持ちは、あの頃と全く変わっていないんだから…


 二時間以上、ほとんどアクセルを踏むこともなく、海老名PAに到着した。いちるはもうぐっすりと眠っていた。可愛い寝顔がパーキングの街頭に照らされている。さすがに俺も疲れたよ…あ、そうだ…足柄で作戦が成功したんだから、別にずっとこの渋滞に付き合って、はまる必要なんかなかったことに今頃気がついた…ああ馬鹿だ…てかそもそも、そのまま足柄で寝ちまってもよかったんじゃねえか…そうすれば、すぐにでもあっちの世界に戻れたのにな…相変わらず抜けてんな俺…背もたれを倒して横になり、頭をいちるの方に向ける。いちるは穏やかな顔をしている。俺にはまだ、やらなくちゃいけないことが残っている。過去の自分の人生の歯車を変えることとともに、いちるに母親、いや、木綿子のことを思い出させると言う大事な役目が残っている。

「もう少しだからな…待っててくれな」と微かな声で言う。

 その時だった。俺の左手に柔らかな、いちるの手の感触を感じる。とても小さく暖かい手のぬくもりだった。俺はその手をしっかりと握り返す。そしてそのとても心地のいい気分のまま、眠りにつくのだった…


 それにしても今回の過去へ旅は長かった…さすがに疲れたぞ…zzz

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