第六話
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「でも、あの時は、入院中をいいことに、総ちゃん。我侭放題で、いつもは、木綿が我侭ばかりなのに、完全に逆転してたよね。私達」
「今、思い出しても恥ずかしくなるくらいだよ」
「うん。『木綿、帰らないでぇ』って、総ちゃん。珍しく可愛かったよね」
「うわぁ、そんなことい言ったけ?恥ずかし過ぎる」
「そんなことないよ。可愛かった。可愛かった」と笑う木綿子
「あのさ…どうしても聞きたかったことがあるんだよ」過去に戻っていなかったら、多分、聞くことはなかったであろう質問…
「なぁに?」
「俺、あの時、木綿にすごく嫌な思いをさせちゃったかなってずっと思ってて、とっくに別れた元彼にあんなに甘えられて、すっごく辛かったじゃないかってさ」
「う~ん…ちょっと違うかな…辛かったのは確かだけど…嫌な思いは全くしてないよ。極度の鈍感な私でも、総ちゃんの気持ちはわかってたよ。でも…答えられない自分が辛かっただけ…あの時は私には、そんな資格がないと思ってたから、だから、総ちゃんは気にすることないんだよ」
「そっかぁ…よかった。俺、ずっと木綿を傷つけてしまったんじゃないかって思ってたから。そっかぁ、なんか胸に刺さってた棘が一本抜けた気がするよ」
「えー、なにそれぇ?総ちゃんの胸には何本も刺が刺さっているの?」
「いやぁ、何本もってこともないけどさ…」
「私のせい?」
「そう、全部、君のせい……嘘。全部自分のせい。悪いのはみんな、俺」
「そんな事言って、全部、私のせいだもん…あっそうだ!この機会に総ちゃんの棘をみんな抜いちゃおうよ。私も手伝うから」
「気持ちはありがたいけど…多分ね…かえしが付いてる棘もあるから抜いたら、抜いたで大変だよ?きっと」
「じゃ、返しのついたやつは、抜かないで、貫いちゃえばいんだよ。多分ね…そっちのほうが痛み少ないよ」
「相変わらず、怖いことを平気で言うんだね。木綿は」
「はっはっはっ。総ちゃんを困らせることに対しては達人級ですから、木綿は」とごまかすかのように笑う木綿子。
「大丈夫。ちゃんと自分で抜けるから、それこそ、木綿を困らせたくなからな」
「そう?でも、無理そうだったら言ってね。木綿が、ぐりぐり引っ張って抜いてあげるから」
「ああ、ほんとに木綿にはかなわないな」と笑う。
とはいえ、病院の時の棘なんてものは、本当に可愛いものだ。正直いうと、まだこの頃は余裕があった。二人共まだ、特定の相手が決まっているわけでもなかったし、こんなの何かの機会があれば、元に戻れるような気もしていたんだ。まっ、それも俺の思い違いだったわけだけど…このあとの棘はなかなか抜けねえぞ…そう、他人を傷つけずに元に戻れたかもしれないチャンスはあと一回しか残っていなかった…
いよいよ、テーブルにはメイン料理が並ぶ。まずパスタである。これはボロネーゼフェットチーネ。俺の大好物だった。
「総ちゃん。これ好きだったでしょ?だから、わざわざお願いして作ってもらったんだよ」
「ほんとに?」
「うん」
「ありがとう。でも、よくそんなこと覚えてたね。さすが、木綿」
「へへっ、すごいでしょ?」
「うん。すごい記憶力。そいうえばさ、木綿。覚えてる?高校卒業の年の正月に一緒に二人で初詣にいったの」今度は俺から、昔話を持ち出した。
「うん。覚えてるよ。でも初詣というよりか…大晦日デートって感じだったよね。大晦日の午後、あの駅で、待ち合わせて、一緒に浅草行ったんだよね?」
「そうそう」
「で、朝まで一緒にいて、帰りにお参りしたって感じじゃなかったっけ?」
「ほんとによく、覚えてるよ木綿は」
「すごいでしょ。本当に懐かしい思い出だね。あの日は、本当に久しぶりに総ちゃんと会って、楽しすぎちゃってね…初詣の前に疲れちゃって…ホテルに連れ込まれちゃったんだよね…」
「おいおい、連れ込まれちゃったって、無理やり連れ込んだりしてないぞ」
「ふふっ、ごめん、ごめん…うん。なんかさ、あの日はあまりにも楽しくて、急に恋人の戻ったんじゃないかって、気持ちになっちゃって、すっごく総ちゃんに、甘えたいなぁって思っちゃったの…」
そう、この日が俺たちに与えられた猶予の期限だった。この日を境に、俺たちの復縁には、他人を巻き込むと言う報いが加わることとなる。そしてそれが、更に二人の距離を広げていく理由にもなっていくんだ。
「よっ、帰って来たか?久しぶりだな。俺だよ。お前だよ」
「勝手に決まり文句にするんじゃねえよ。でも、それ、もう完全に悪役の口癖だな?」
「いいんだよ。お前がムカついてる顔を見るのが楽しくてやってんだから、悪役だろ?俺は悪役でいいよ。昔から憧れてたんだよ。悪い奴」
「露骨に言うのな、お前」
「初詣かぁ、俺も毎年行ってるぜ。木綿子たちと浅草」
「ちょいちょい、自慢を挟まなくていい」
「わりーわりー。あと、水族館だろ?銀座だろ?」
「全く悪いと思ってねえだろ」
「ああ」
「俺ってこんなにも凶悪な性格してんのかな」
「はーははっ。お前が他の人にこんな事するわけねえだろ。見せかけだけはいい人ぶってんだから。お前は。だからと言って俺は、お前が他の人を傷つけていないとは全く思っていない。今のお前は自分も傷つけ、そして今のお前の嫁さんも傷つけ続けてる。裏切り続けてる。そんな事お前が一番分かってんだろ?自分が最悪な人間ってこと。はーーーーっ。言っとくぞ!浮気のほうがよっぽど可愛いわ。お前の嫁さんは、心が自分にない人とずっと、一緒に生きていかなきゃいけないんだぞ。夜の夫婦生活。お前、何年ないよ?」
「それは…」
「それはじゃねえよ。だから、木綿子を愛し続けるなら、覚悟しろよ!もうこれ以上、人を巻き込むなよ!ケリをつけろよ!」
「やっぱり、俺が、想ってるだけじゃダメなのかよ?」
「ダメだね。それじゃ、お前は幸せになんかなれっこないし、嫁さんを幸せにすることなんてできない。いいか?自分が幸せになる努力をしなければ、他の人を幸せになんかできないんだよ。じゃ?今から、嫁さんを愛せるか?そもそも、お前の中にある嫁さんへの情は、愛情なんかじゃなくて、同情だろ?俺はわかってる。かわいそうな境遇の人を見つけるといてもたってもいられなるお前の性分は、本当に最低だよ!お前は。ふざけんなって言うんだ。お前みたいなやつに同情されたくねえよ。何様のつもりだよ」今回ばかりは奴の攻撃の手は一切緩まなかった。言っていることもほとんど合っている。
「何様って、俺はそんなつもりは…」
「ああ、全部じゃねえのはわかってるよ。でもお前が今の嫁と一緒にいたのは、嫁のためじゃないよな?」
それも合っている。俺たちに子供はいない。しかし、俺たちには嫁の連れ子がひとりいた…多分、こいつは彼のことを言っているんだ。
今回はどうしたんだ?やけにしつこく絡んでくる。それに、こいつは、俺と妻の関係も全て知っての上で言っているだろうか?あんなこと言って未だに、何も行動に移さない俺に対して、業を煮やしてって所だとは思うけど…
構わず、奴は続ける。
「まぁな…その子は立派に成長しているみたいだし、お前を信頼してるみたいだからよ、お前の偽善も、全てが悪いとは言わないが、力もねえくせに自分でハードルを上げるんじゃねえよ。頼むから、もっと自分のことを考えてくれよ。俺は、お前のそういうところが、ムカつくんだ。お前の人生だぞ!他人の人生じゃねえんだ」
「わかってるよ!そんな事!ちゃんと、結論も出すし、木綿子にも伝える。だから、もう少しだけ、時間をくれよ」
「ったく、お前、いまいち信用できねえんだよな…今だって、過去の自分とか、子供のことばっか気にしてるくらいだからよ。それでもって言うならもう言わねえよ。とっとと行ってこいよ。今回も行きたいんだろ?」
「ごめん…お前が怒るのもわかる…でも、今まで長い間、木綿子への気持ちを無理やり、押し殺して閉じ込めて隠してきちゃったから、自分の気持ち、自分の選んだ道、それをちゃんと思い出さなきゃいけないような気がしてて、そうじゃないと、木綿子ともう一度ちゃんと向き合っちゃいけないような気がしてるんだ」
「わかったよ。もう、急かさねえよ。ちゃんと向き合ってこい」
「うん。わかった。ありがとう」
「ふん。ありがとうなんて思ってもいないくせに」
「そんなことねえよ。お前が現れなかったら、俺は、きっと昔と変わらないヘタレのままだったと思うから」
「あーうるせえ、早く行ってこい。あ、そうだ。大事なこと伝えるの忘れてたわ。お前、その左手にしている木綿子からもらった時計は絶対に失くすなよ。こっちに帰ってこれなくなるからな!」
「こんな大切なもの失くすわけないだろ?」
「いいか、こっちに帰ってこれなくなるって、簡単に考えるなよな!帰ってこれない、すなわち、ここの世界のお前がいなくなるってことだからな!存在が消えるってことで、生まれてもいなければ、木綿子とも出会っていない世界ができるってことだからな?」
「でも、その時は、お前が釣り上げてくれるんだろ?」
「ばーか。あれは、時計があるから、お前のいる場所が分かるだけで、時計がなくなれば、お前は、糸の切れた凧状態になって俺でも探せなくなる」
「そうなのか…この時計、そんなに重要なものなんだな…」
「こんな無茶なことしてるんだ。当然、リスクはあるよ」
「わかった。それに、そんな理由がなくてもこの時計は失くせない。これは木綿子にもらった大切な時計だからな」
左腕にした時計を右手でぐっと包む。
「おう、ほんじゃ、行くか?」
「おう、頼むよ!」
今度は、俺からやつに向かって腕を出した。そして奴は俺を引っこ抜くかのようにガラスの中に招き入れた。
東京特有の醤油の効いた返しの香りで、場所はすぐにわかった。俺が、好きだった浅草の老舗の蕎麦屋だ。ゆっくりと目をあける。
「…………」あまりの驚きで言葉が出ない。ほんと、あいつ、やってくれるわ…
そう、俺が降り立ったのは、浅草の蕎麦屋のテーブル…それはいい。でも、なんでテーブルの対面に若き俺と、木綿子が座ってんるんだよ。大晦日で、店は大混雑しているのはわかる。確かにあの時も、相席だったはずだ…今の俺と同じくらいの中年の男と…娘と思しき少女。ん?咄嗟に左側を確認する。
やはりそうだよな……そこには……
そばを美味そうに頬ばるいちるの姿があった。
動揺しつつも、「いちる美味いか?」といちるの頭に手を添えて顔をのぞき込む。
「うん。おいちい」
「天ぷらもうまいぞ。ほら、俺の海老もやるよ」と言っていちるの天ぷらの皿にのせてやる。
「ほんとに?ありがと」嬉しそうに笑ういちる。
それにしても、恐らく、向こうには、見えていないか、もしくは、違う人に見えてるかって所だとは思うが、これはさすがに衝撃的な絵面だな…これじゃ、まるで鏡写のようだ。俺の正面には、若き俺、いちるの正面に木綿子。
対面の二人も美味そうに、そばをすすっている。やはり、こうやって傍で見ると、木綿子といちるは、よく似ている。でも、あの時のいちるの言葉が引っかかる。ママのことは、わからないと言ったあの言葉の意味は果たして何なんだろう……よく考えてみる。これまでの言動から、いちるは、俺と同様にどこか違う時空からこの時代に来ていることは確かだろう…ということは、どこか違う時空の木綿子が母親である可能性が高いが、果たしてどこ時空の木綿子がいちるの母親なのだろうか?ということになる。ん?なんか今、微かに閃のようなものが、俺の中に生まれたような気がした。そうか!いちるは、今、俺たちの目の前にいる二人がうまく行った場合に生まれてくる子供なんじゃないだろうか?そうしたら、今、ここにいちるが存在している意味も説明がつく。このままいけば、この世界の俺と、木綿子は結ばれることはなく、現実世界と同じように徐々に身も心も離れて行ってしまう。だから、現時点では、名前もなければ、母親の記憶すらないのではないだろうか?この二人の行く末によって、いちるの運命がかかってくるということなんじゃないか?
これが、今の段階で俺が出せる一番の仮説だった。よしっ、そうなったら、それこそ、一石二鳥な話だ。目の前の二人をくっつけることによって、いちるのママも見つけることができるってことになる。これは、なんとしても、成し遂げなくてはならない命題となったわけだな。真実はどうあれ、やってみないとわからねえからな。とりあえずその線で行ってみるか…。
そんなことをひとりで、考えていたら、いちるは、とうに蕎麦も天ぷらも食べ終えて、興味を他のことに移していた。
「こら、いちる。それはいじっちゃダメだぞ」いちるは、テーブルの上に置いた俺の左手の腕時計をいじり始めていた。
「キレイ…キラキラちてる」
「綺麗だろ?」
「うん。とてもキレイ…どうちたの?」
「これは、俺の大切な人からもらったんだ」ちらりと前に座る若い頃の木綿子の顔に視線を移す。
「ゆうこさん?」
「うん。そうだよ。なぁ、いちる」
「そうたろう。どうちたの?」
にこやかに笑いながら席を立ち、赤色のコートを着込む木綿子を姿を見つめながら、「なぁ、いちる。俺、やっぱり、馬鹿だったよ…」
「どうちて?」
「こんなに大切に思える人と出会える事自体が、奇跡みたいなことなのにさ…そんな大切な人の手を自分の手から放してしまったんだ…」
「ねえ?そうたろう…いまからじゃダメなの?」
「え?」
「もういちど、はなちちゃったてをつかむの…」
「俺だってそうしたいよ。ほんとに…でもそれによって、不幸になるかもしれない人もいるじゃないか?」
「でも、それは、いまのそうたろうだって、いままでのそうたろうだっておんなじじゃないの?なんで、そのひとたちのためにそうたろうが、ふこうにならなくちゃいけないの?ひとのせいでふこうになるんじゃない…だれだって、じぶんできめるんでしょ?」
いちるにまで、言われてしまった…多分…俺の考え方が間違っているのかもしれない。でも…そうだろ?自分の我侭で人の人生を狂わしちゃいけないって思うじゃないか…でも、あいつの言うとおり、俺は、決して木綿子をあきらめることなんてできないだろう…俺、ほんとに自分のことになると駄目だな…
「ありがとうな、いちる。わかったよ俺、やっぱり、俺は木綿子と一緒にいたい。どうしても彼女の傍にいたい。今からでも遅くないよな?」
「うん。だって、すぎちゃったかこは、かえられないかもちれないけど、これからは、かえられるんだよ。じぶんちだいで…」
まったくそのとおりだ。何を色々と考えていたんだろう…俺は、ずっと、こんなことに気づきもせずに生きてきたんだな…昔の事をうじうじと後悔して、現実を変える努力もしないで、誰かの為とか言い訳して、自分の気持ちをどこかに押し込んで忘れたふりして…ほんとに残念な男だな…はぁ~。悔しいけど、全部、あいつの言うとおりだよ。そうなんだ。自分次第なんだよ。玉砕でもなんでもいいんだ。自分の気持ちもちゃんと伝てないのに、諦めるってなんだよ。あぁムカついてしかたないよ。自分自身に…
「ねーね。そうたろう。あのふたり、もういないよ?だいじょうぶなの?ちかも、そうたろう、ぜんぜん、おそばたべてないち…」
「あっ、いけねえ。見失っちゃうよ」と慌てて目の前の蕎麦をすすりあっという間に平らげる。
「もう」と笑いながら俺が蕎麦をすするのを見つめるいちる。
また自分のせいで、慌てるはめになってしまった…俺は、いつもこんなことをしている気がする。そんでもって今回もこんなことが原因でまた大失態を犯すこととなる。この時、俺は自分の左腕のことを考えてる余裕を完全に失っていた。
会計をすませて、いちるの手を引いて店を出る。すでに街は夜の帳が下りていた。大晦日の浅草は、とんでもない人で賑わっていた。こんな状態で二人を見つけるのは困難を極めるのは明白だった。
「やっちゃったよ。どこにいった?あいつら?」
「そうたろう。なにかおぼえてないの?」
「そっか、俺の記憶をたどれば、見つけられるかもしれないな…って急に思い出せねえ」
「よく、おもいだちて」
そうだ…蕎麦屋のあとは、少し歩いてから、ゲーセンに行ったり、お茶したり、お店を見て回り、それから時間をあわせて並んで初詣に行くつもりだったんだ…でも、そのあとは、久しぶりにあった高揚感からか、はしゃぎ過ぎてしまい……そのまま初詣に行くことはなかったんだ。
あっ、と急に思い出して赤面すると同時に、今回、こちらの世界に送られてきた時に、そこに転送されなくてよかったと胸をなでおろした。そう、あの日、遊び疲れた俺たちは、二人でホテルに泊まったのだった。さすがにそんなところ、いちるには見せられない。さすがにこれには、ほっとした。ということは、やはり、はやいうちに追いつかなくてはならなそうだ…
「よしっ、いちる、頼みがある」
「なーに?」
「今から、俺がいちるを肩車して、街を歩くから、いちるはあいつらをさがしてくれるか?」
「わー。かたぐるま、ちてくれるの?うん。やるやる!」
「よしっ、いちる頼むぞ!」
「まかちて!」
一度しゃがんで、いちるを俺の首にまたがせてから、ひょいと立ち上がる。
「わーい!たかい!たかい!」
「じゃ、少し歩くぞ、ちゃんと頭に掴まってろよ。あと、前気をつけろよ。なにか出てるかもしれないから」
「うん。だいじょうぶ!でも、そうたろうのあたま、なんかもじゃもじゃちてる。でもやわらくて、なんかきもちいい」俺の髪の毛を弄びながらはしゃぐいちる。
なんだろう…こんなところで、俺がこんなことをする日が来るとは思っていなかった…でも俺にとっては、浅草といえば、肩車なんだよ。子供の頃、俺はよく親父に連れられて、浅草に来ていたんだ。そう、まだ俺が、いちると同じくらいの歳の時の話だけどな…そして、親父は、俺を人ごみから避けるために、よく、肩車をしてくれたんだ。すっごく、見晴らしが良くてな、急に大人になったような気持ちになったものだ。
「いちる。わかるか?さっき、蕎麦屋で前に座ってた二人だぞ」
「うん。わかってる」
それから、俺たちは、二人を探して、浅草の街を歩き回った。自分が行きそうな場所を思い出しながら、伝法院通り、新仲見世通り、六区と心あたりを人ごみを分けながら探すが、見つからず、また雷門のほうに戻ってくる。
「あっ」といちるが声をあげる。
「見つけたか?」
「うん。たぶん…」
「どっちだ?」
「あっち!」と指を差す、いちる。
「わかった。あっちだな」と言って、俺も左手でいちるが差した方向を指し示す。
「うん…………あれ?そうたろう?」
「なんだよ。もしかして、人違いとか言うんじゃないだろうな?」
「ちがう…そうたろう。ひだりてみて」いちるに言われるがまま、左腕を確認する。
「あっ…あああああーーーーーーーーーー時計が、時計が…どこで落としたんだ!」そう、左腕にしていたあの今の俺にとって何よりも大切な時計が俺の腕から消えていた…その瞬間、脳内では、完全に蛍の光の音がが流れ始めていた。終了!今回ばかりは、やっちまった…もうどうにもならんだろ。この人ごみの中から探し出すのは、不可能に近い…でも、そんなことも言っていられない。
「そうたろう。さがそ」いちるがやさしくうながしてくれる。
「うん。そうだな」
「ゴメンね…たぶん。わたちがさっき、さわったからだ」
「そんなことないよ。さっき、ふたりを探してた時に誰かとぶつかって落としたんだよ。きっと…」
「そうかな…」
それにしては、音も感触も何もなかった。もしかしてスられたか?しかし、それは考えにくい、混雑しているとは言え、わざわざ、人の腕から盗る奴はなかなかいないだろう…とにかく、今まで歩いた所を遡ってあたってみよう。
「そうたろう。おろちて。わたちもさがす」
「いちるは、いいよ。あぶないし」
「でも、わたちをかたぐるまちてると、そうたろうもさがせないよ?」
「そっか…でも、いちるは探さなくていいからな。俺の後ろに隠れてろよ。人がいっぱいで危ないから」
「わかった」いちるを地面に下ろすと、またさっき歩いた道を引き返す…今度は下を見ながら、いちるもなぜか、今の優先順位というものを理解しているようで、あの二人ことは言わなかった。
さすがにこの人ごみでのモノ探しは困難を極めた。体をかがめて低い体制になると、高確率で頭を蹴られる…さっきは親父の真似してみたが、自分が経験すると改めて、親父の愛情を改めて感じてしまう。親父はこれを知っていたんだ。だから、人ごみを歩くときはいつも、ああやって肩車をしてくれてたんだな…
「こら!あぶねえじゃねえか?このやろう!お前がそんなかっこしてるのが悪いんだぞ!」ほら、また、蹴られた。 それでもしばらく探したが、やっぱり、いちるのことがかわいそうでならなくなって一度、人ごみから離れたところまで非難して、いちるの様子をみることにした。
案の定。いちるは、頭にたんこぶを作っていた。
「ごめんな…いちる」と言って、いちるを抱き寄せる。
「わたちは、だいじょうぶ…そうたろうとおそろいだね」と言って、俺の頭をそっと撫でるいちる。
「ははは、お揃いか…」
「もう、いいよ…諦めるよ…」
「いいの?」
「よくないけど、このまま探したところで…みつかりっこないだろ。もう誰かに拾われちゃったかもしれないし…」
「ねえ、そうたろう。こうばんは?もちかちて、だれかがとどけて、くれてるかもちれないよ」
「おう、そうか。まだその手があったか?うん。とにかく、行ってみるだけ行ってみよう」
「うん。そうちよ」
極端に望みは薄かったが、頭にたんこぶを付けた俺たちは、また肩車スタイルになって、雷門前の交番に向かう。
「だれか、とどけてくれてるといいね」
「今回ばっかりは本当に、それに賭けるしかないよな…」
そういえば、あの二人も見つけられていないけど…まぁ、仕方ないな。これは緊急事態なわけだから…そうこうしているうちにやっとこさ、交番にたどり着いたところでいちるを下ろした。
「すみません」と交番の中に二人で入る。
「どうかされましたか?」警官が聞いてくる。
「あの、おとしもの届いていないですか?男物のシルバーの腕時計なんですが?」
「あれ?もしかしてこれかい?」
おおおっ。もしかして見つかった?警官はおもむろに箱の中に手を突っ込んで何かを取り出して俺にみせる。
違う。そんな時計じゃない。首を振る。…そもそも、シルバーじゃねえし。それ。
「じゃ、これか?」またも警官は箱の中から何かを取り出す。
今度は、ハンドタオルに包まれた小さな塊を取り出して、手のひらの上で開いてみせてくれた。
「あーーーーっこれです!」あったよ!いるかどうか分かんねえけど、とりあえず神様、ほんとにありがとう!!
「そうたろう。よかったね」いちるの顔にも笑顔が溢れる。
「ああ、これね。これはほんのついさっき、届けられたんだよ。なんか、自分が気づかいないうちに、カバンの中に入っていたんだって。とても綺麗な時計だったので、傷つけちゃいけないと思って、こうして包んで持ってきてくれたそうだよ」
「つい、さっきっていいましたよね。その人のお名前は?」
「いや、お店で、人を待たせてるとかで、調書とかとれなかったんだよ。悪いけどわからないや。でも、まだそう、遠くにいってないんじゃないかな?」
「すいません…どうしても御礼が言いたので、特徴を教えてもらえますか。あと、手続きはあとで必ずしにきますので…」
「いいよ、いいよ。あんた、嘘つきじゃあなさそうだ。この時計はここに届かなかったことにしてあげるよ。そうそう、その人の特徴ね…。若い女性で髪の毛は少し短め、赤っぽいコートを来ていたかな?」
こんなことが、本当に起こるのだろうか?おそらく、俺の時計を拾ってくれた。いや、俺の時計が落ちたのは、木綿子のカバンの中だ。俺たちが二人を探すために遠くばかり見ていた時にたまたま、すれ違ったのだろうか…俺は、何度も警官にお辞儀をして、時計とハンドタオルを右手に握り、左手にしっかりといちるの手を握りしめて、警官が教えてくれた方向に走る。
いちるには、散々な思いをさせてしまっているな…でもいちるは、嬉しそうについてきてくれている。
あっ、目の前、数メートルの所に赤いコートを着た女性の後ろ姿を見つける。ふーーーーーっ、と一度息を吐きだしてから声をかける。
「あのう…すみません…」
「はい?なんでしょう?」とその女性はふりかえった。
やはり、その女性は若き日の木綿子だった。でも、おかしくないか?なんで、木綿子に俺の声が届いている?
「え?」不思議な表情をする木綿子。
「すみません。この時計を交番に届けてくださったのは、あなたですか?」俺は、木綿子に時計を見せる。
「ええ、そうですが…」と言う木綿子の表情はおかしいままだ。
「失礼ですが、ご気分でも悪くなされましたか?」と聞いてみた。
「いえ、すみません…あなたが、あまりにも、私の知り合いに似ているもので、少々驚いてしまいまして…でも、歳があまりも違いますものね…これは、失礼致しました」と頭をさげる木綿子。
歳をとっていても、わかるものなのだろうか……確かに、俺が若い頃にもし、四十歳になる今の木綿子と出会ったとしても、多分、木綿子と同じ反応をしていたと思う。
「そうですか…世の中には似ている方が何人かいると言いますから…」と俺もあわせて答えて置いた。
「そうですね…」
「申し訳ありませんでした。とても大切な時計でしたので、本当に助かりました。本当にありがとうござます」
「はいっ、なぜか、それは私にも分かりました。だから、すこしでも、早く、警察にとどけようと思いまして…良かったです。こんなにも早く持ち主さんの所に戻って」と笑う木綿子。
「こんなことまでしていただいて、本当に傷一つつかずに、私の手元に戻ってきました。ありがとうござます」と言って、木綿子のハンドタオルをたたみなおして返した。
「それは、わざわざ、ありがとうござます。でも、これは、この子に使ってあげてください」と言って木綿子は、いちるの額に吹き出した汗をやさしく、とんとんと拭いてくれた。「そして、あなたもですね…こんなに寒いのに汗だくになって。風邪を引いてしまいますよ?ふふふっ。よっぽど大切な時計なんですね?もしかして、奥様からの贈り物だったりして。ふふっ。では、私はこの辺で、この先のお店に人をまたせておりますので…」
「もしかして、彼氏さんかなにかですか?」わかりつつも聞いてみた。
「いえ、今は違いますが、私にとっては、とても大切な方です」
「そうですか…厚かましいこと言ってしまい、申し訳ありません。では、その方にも、お引き止めしてしまって申し訳なかったとお伝えください」
「いえいえ。お心遣いありがとうござます。では、失礼します」木綿子は深くお辞儀して元の方向へ向き直る。
その彼と寄りを戻す気はないのですか?と聞きたかったが、それでは、あまりにも怪しい人になってしまうので、結局聞けずに、見送ってしまった。でも、木綿子はこの時でも、俺のことは大切に思ってくれていたということを聞けただけでも嬉しかった。ふーーっ。今回は完全に、木綿子といちるに助けられてしまったな…
「なぁ、いちる。疲れたろ?帰るか?」
「もういいの?」
「うん。いいよ。帰ろ」この後は、そのまま楽しい時間を過ごし、浅草に泊まることになる。そう、二人共が付き合っている人はいなかった時の最後のひと時。甘く切ない時間がやってくる。今から、俺ができることはない。そもそも、ここで、俺ができることは、あまりにも少ないけどな…そっとしておいてやりたかった。でも、この木綿子との奇跡の接触がひとつの仮説を生み出してくれた。そう、この時計のもうひとつの可能性だ。俺はそれに少し浮かれていた。
「そうたろう。それ」いちるは、俺の手に握られたハンドタオルをせがむ。
「うん。はい」いちるに渡してやる。
「ありがと」と笑って受け取るいちる。
俺はありがたくも、自分の手元に戻ってきた時計を定位置に付け直す。
いちるは木綿子のハンドタオルを広げて鼻を近づけて、くんくんと、鼻を動かして「う~ん。そうたろうと、わたちのにおい。するー」
「いっぱい。汗かかせちゃったからな」
「うん。でもたのちかった。あと……………うんうん。なんでもない…」
「なんだよ?」
「ほんとになんでもない」
「そっか」いちるが言いたげだったことはなんとなくわかったがそのまま、そっとしておいた。
とりあえず、俺の地元への切符を大人と小人一枚ずつ、購入して、エスカレーターに乗りこみホームに向かう。それにしても、すごい人が、上のホームから降りてくる。そりゃ、これからが大晦日の本番だから当然か…
ホームには既に区間準急の始発電車が俺たちを待っていた。まだ、出発の時間まであったので、車内を歩いて先頭車両まで二人で手を繋いで歩いた。さすがに大晦日の下り線の始発だ。電車には誰ひとり乗っていない。俺といちる二人の貸切状態。
先頭車両の東側の椅子に座る。ふーー。と息を吐く。そう言えば、よくこの電車には乗ったな…木綿子に会いにいくために…2時間近くの道のりを毎回、心をときめかせて揺られていたのをよく覚えている。木綿子に会うためなら、嫌いな満員電車だって好きになる。本当にそんな感じだった。
やっと電車が動き出す。いちるは、まだハンドタオルを大事そうに握ったまま、座面に膝をついて、車窓から、外を眺めている。そんなにおでこ、窓にひっつけてても、まだ、スカイツリーは見えねえぞ。この時代は…
とても不思議な気分だ。こうして二人で電車に揺られていると、本当に自分に子供が出来たような気になってくる。こんなに素直で、可愛い娘がいたら、それはさぞかし楽しいだろうなと……まっ、もちろん。大変だろうとも思うが、それがもし、その子のママが木綿子だったら、この上なく幸せだろうな…なんて考えてしまう。ん?なんだろう。この妙に心の奥が暖かくなるような気持ちは……
そう、俺は、今まで子供なんて欲しいと思ったことがなかった…。妻にその気がなかったのもあるとは思うが、自分自身が親になるという実感が持てなかったのもあるかもしれない。それに昔の俺は連れ子の男の子と向き合うことで精一杯だったのかもしれない…。
「ねえ。そうたろう…」
「どうした?」
「だっこちて」甘えた表情で言う、いちる。
「ああ、いいよ。こっちおいで」
もそもそと、俺の脚をまたいで、抱きつくような形で俺の首に腕を回し、頭を寄せるいちる。いや、もうもうこれは、抱きつくというよりも、しがみつく感じに近い。そして、いちるの手には、木綿子のハンドタオルがしっかりと握られていた。
やさしく、背中をさすってやる。
「ぇっ…うえっ…そうたろう?…」更に、いちるは両腕の力を強め、涙をこらえているようだった、
「どうした?」
「ねえ、ママはどこ?ママにあいたいよう…そうたろう?…」
「ごめんな…」
「ママはわたちがきらいだから、いないのかな?」
「それは、違うよ。それは多分、俺のせいだ…」
「わたち、ママにあいたいよぉ。うぇ…ん」
いちるの瞳から、溢れ出した大量の涙は、俺の首を伝い俺の背中を濡らす、じんわりと暖かい涙は、俺の心の底にまで、浸透してくるような気がして、胸がキリキリを疼くように痛んだ。
「ごめんな…ごめんな…俺が必ず、いちるのママを探してやるからな。もうちょっとだけ、俺で我慢してしくれな」
いちるの小さな背中をギュッと抱きしめてやると、うんうんと頷いてくれるいちるから、伝わって来る鼓動はいつも以上に早く、俺を責め立てているような気がした…
それにしても、いちるのこの甘ったれっぷりは、誰に似たのだろう?まあ俺だろな…とはいえ、木綿子も少々、甘えたがりなほうだから、まっ両方ってことかもしれないな…でも、俺はここ何年も人に甘えるなんてことした記憶、全くと言っていいほどにないかもな…
しばらく泣き濡らし、今度は、穏やかな寝息を立て始める。さすがに、いちるも、今日は疲れたのだろう…鼓動も次第に緩やかになって、線路の継ぎ目に響く音の間隔に近づいていく。俺も、電車の揺れと、いちるの心地よい重みと暖かさに眠気が差してきた。若き二人にはさしたる進展はのぞめなそうではあるが…収穫がなかったわけでもないので、まぁよし、とするか…などど考えを巡らせているうちに、俺もだんだんと眠りの世界に浸っていった…