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第五話


「総ちゃんを裏切ったのは、木綿なのに…あんなに大変な思いしてさ」

「別に大変なんかじゃなかったよ。俺は、あの時、木綿に会いたいだけだったんだから、しかも、前から言ってるだろ?あれは事故だったんだって、木綿は気にすることないって」

「そんなこと言って、すごく傷ついてたくせに?」

「そんなことないぞ」

「そう?でもあの後、随分と荒れてたみたいだけど?総ちゃんは、黙ってればちょっと、クールなイケメンに見えるから、女の子はほっとかないもんねぇ~」

「誰がイケメンだよ?全然イケメンなんかじゃねえよ」

「そうかなぁ?私とお別れした後、いろんな女の子とお付き合いしてたみたいだけど?特に年下の女の子とかぁ?」

「そんなの、木綿だって同じじゃないか」

「総ちゃんほど、いっぱいじゃないもん…」

「すみませんでした…確かに荒れてました…」

「ゴメンね。でも、それ木綿のせいだよね…最低だね私…」

「いや、そんなんじゃないよ。悪いのは俺なんだよ」でもその続きの言葉はさすがに言えなかった。


 あの後、何人かの女性とお付き合いをした。だけど…その度に木綿子と比べてしまう自分がいて、そして落胆する。それの繰り返し、女性を抱くときだって、木綿子に見えてしまう自分がいる。最低なのは俺だ。そして、その度に相手を傷つけてしまう。だから、俺の木綿子に対する愛情が純愛だなんて思っていない。往生際が悪すぎて、女々しくて情けない男なだけだと…

「とっと諦めない俺が悪いんだよ」とだけ木綿子には言った。 

「なんでなんなだろ…木綿、ほんとにあの頃は、まだ子供過ぎて、総ちゃんの気持ちなんてわからなかった…あんなにも愛されてたのに…全然わからなくて、そんな事に気づくのに、何年もかかっちゃたの…ゴメンね…総ちゃん…」木綿子は少し涙目になりながら言う。

「俺だって、子供だったから、無鉄砲だったんだよ。きっと…」

「あの後だって、何度も、総ちゃんの気持ちに応える機会あったのに…できなかった」

 そう、俺と木綿子の間には、何度も修復するチャンスがあった…でも、その度にほんの少しのズレが原因で結局、再び二人が結ばれることはなかった。


 そうこうしているうちに、テーブルの上には、前菜が用意された。


「では、いただきましょう」と木綿子が言って彩よく美しく盛り付けされた前菜にナイフを入れる。

「頂きます」俺も慌ててナイフとフォークを持ち、前菜に手をつける。


「そういえば…総ちゃん、あの次の年、足、怪我したよね?」

「そうそう、そんなこともあったな…」

「あの時は、私が三時間かけて、入院先までお見舞いに行ったんだよ」

「電車でね」

「もう!総ちゃんじゃないんだから当たり前でしょ!」と笑う木綿子

「ごめん、ごめん」

「でも、あの時は、入院中をいいことに、総ちゃん。我侭放題で、いつもは、木綿が我侭ばかりなのに、完全に逆転してたよね。私達」


 そうだ。俺は、十七歳の夏、右脚に大怪我をして入院したのだ。既に別れたとはいえ、この機会をいいことに、木綿子の見舞いに来てもらったってわけ。おいっ、そこの中年。そこでニヤニヤしてんじゃねえぞ!


「おう、そろそろ俺の出番じゃないかなぁって思ってさ!」ガラス越しに当たり前のようにしゃべり出す俺にそっくりな中年。

「この時はどうにもならなかった気がするぞ?この時は珍しく、粘ったけどダメだったから…」

「じゃ一回パスするか?」

「いや、行くよ。なんか事実と違う事が起きるかもしれないし、俺が忘れていることもあるかもしれないからな」

「行くのは構わんが、一つ確認しておくぞ。おまえ、今日の本来の使命を果たす気あんのか?ちゃんと伝える気あんのか?昔話ばっかりしてても、今は変わらないんだぞ」

「わかってるよ!今日中に伝えればいいんだろ?そんな大事なこと簡単に言えるかよ!俺だってちゃんと考えてるよ。うるさいんだよ。お前は」

「はぁーそうですか!いつものヘタレにならなければいいけどな!」

「うるせえ」

「俺は、別にいいけどよ…うん、じゃー、いってらー。時計くん頑張ってくれたまえ!」と言い、いつもの如く、あいつは手荒く、俺をガラスの向こうに放り投げた。




「痛てて…あぁもう、またかよ…なんで俺まで怪我してんだよ。さっきから痛い思いばっかしてる気がするんだけど…」いちいち、妙な演出いらねえから!


 俺は、病院のベッドの上で目を覚ました。ここは当時、俺が入院していた病院の六階にある整形外科の入院病棟で間違いないはず。六名収容大部屋の左の一番奥の窓際が当時の俺のベッドで今、俺が寝転んでいるのがその隣、真ん中のベッドってことだろ?確か当時は隣には患者はいなかった…はず。で、俺は、あいつと反対の左脚を怪我している設定なのね…ああそうね…この前自転車でえらい目にあった左脚ってことね…まぁ、今の俺のことはどうでもいいか…であいつはというと、はいっ、この病院、綺麗な看護師さんばっかりだから、当然、デレデレしているわけだわ…おいおい、情けないなぁ…看護師さんに清拭してもらわないで自分でしろよ!怪我してるの足だけだろ?両手使えるだろが!まぁなんというか、木綿子が言うのも分かる…普段のこいつはやっぱりスケベな普通の男だ…


 多分、この日は、木綿子がやってくる日なのだろう。あいつの表情がやけに明るい。それもそうだよな…確か、あの日は本当に久しぶりに木綿子と会ったはずだ。記憶が定かではないが、俺は確か誰とも付き合っていない時期だった気がする。そして木綿子もまた、独り身の時期だった気がする。いーや、これは、このあとの出来事の言い訳をしているわけじゃないからな。


 とてもいい天気で昼過ぎまで、胸を高鳴らせながら、木綿子のことを待っていたのを覚えている。木綿子は午後一時過ぎの面会開始にあわせて、ひとりで見舞いに来てくれた。


「なんだー総ちゃん元気そうじゃん。こんなに元気なら私、来ることなかったかもー。はい、これお見舞いね。頑張って、お弁当作ったんだから」とお弁当の入った袋をベッドの上に置く木綿子。


 俺はというと、隣のベッドで腕を枕にして横になりながら、二人の様子を眺めている。前回とは大違いだ…毎回こういうのだったら歓迎なんだがな…あっ、木綿子、ついでに言うとこいつが元気なのは、お前が来てくれたからだから…


「そんなことないよ。まだ、術後でいっぱい血出てるんだから」と慌てて脚のギブスにくくりつけられた血抜きのパックを見せている若き俺。

「いいよ。そんなの見せなくて。それにしても遠かったよぉ。電車に揺られて三時間…私、疲れちゃった。総ちゃん。次は、私なんかじゃなくて、彼女さん呼ぶんだよ?」

「俺、今、彼女なんていないし…」

「あれ?そうだっけ?この前、付き合ってたあの子は?どうしたのさ?」

「そんなのとっくに振られたよ」

「あらそー。それはかわいそうに~彼女さんが…」

「なんで、そうなるんだよ。振られたのは俺のほうだぞ!」

「どうせ、デート中に他の女の子に見蕩れてたとか、そんなところでしょ?」

「違うよ。そんな事してねえもん」


 真っ赤な嘘だな…。他の女の子に見蕩れてたほうがまだましだ。さすが木綿子。いい線いっている。デート中というのも正解だしな。確かに、あの時の俺は、全くかわいそうなんかじゃない。それも、木綿子の言うとおりだ…あの時、付き合っていた女の子は木綿子も知っている子。俺と木綿子が前に付き合っていた事をその子も知っている。そんな関係の彼女とのショッピング中に俺はやらかした。洋服店の店先での出来事だった。店頭のマネキンが着ていたコーディネートを俺は、木綿子にとても似合いそうだなと思った。そして、その子の気持ちも考えずに「これ、木綿が着たら似合いそうだよね?」とそりゃ、振られるわ。ってわけ。でも当時の俺もそんな事、とうの本人である木綿子に言える訳もなく、そんな曖昧な返答しかできなかったってこと。


「どうだか?」

「ほんとだよ!その彼女の話もういいよ。ねえ、俺、喉渇いた。何か買ってきて」若き俺は、テレビの下の引き出しを開けて、小銭をジャラジャラと探している。

「まったく、もう、怪我人だからって甘えてるでしょ?」

「いいじゃん。いつもは俺が野田の言うこと聞いてるんだから、こういう時くらい」

「しょうがないなぁ、ほんと、子供みたい。総太郎ちゃんは、何が飲みたいのかな?」

「甘くて美味しいやつ!」

「そんなんじゃわからないよ。まぁ、ちょっと見てくるから、待っててね」

「うん」嬉しそう表情で笑う若き俺。


  その後もその日は散々、木綿子に甘え倒したと言っていい。やれ、リンゴが食べたいだの、お弁当を食べさせてくれだの、脚が痛いからさすってだの、まるで、母親に甘える子供かのように…となりで見ている俺のほうが赤面してしまう程に木綿子の甘えた。考えると本当に木綿子の前では、いつもカッコ悪い姿ばかり見せているような気がするな…


 そして、そんな、若き俺にとってはとても心地のよい時間は過ぎていき、結局、夕食まで木綿子を付き合わせてしまい。それでも飽き足らず、午後八時の面会の終了時間まで、木綿子を引き止めてしまった。


そんな自分の若い時代の姿を見ていて、不思議に感じたことがあった。この時は、病床に伏せていたとはいえ、今までに、他の人に対してこんなにも甘えた姿を見せたことがあるだろうか?そんな二人を眺めながら、いろいろと思い返して見たが、結局、思い浮かぶ人はいなかった。そう、妻であっても一度たりともない。そもそも妻はそういうタイプでもない。まったく逆だ。


「さすがに、そろそろ帰らなくちゃ」と言う木綿子

「そうだね。ごめん。下まで送っていくよ」

「いいよ。まだ、車椅子なんだから、ここで。ね?」

「いや、下まで一緒にいく、ちゃんと見送る」また、だだをこねる若き俺。

「しょうがないぁ。じゃ一緒にいこっか」と若き俺を車椅子に乗せて病室を出て行く木綿子。


 もちろん、俺も二人のあとを付ける。なんで俺は片松葉杖なんだよ…めんどくせえな…

 二人と同じエレベーターにのって一階に降りる。一階の外来受付は昼間は多くの外来患者でごった返しているが、この時間は、既に電気が落ちていて暗くなっていた…


 二人のすぐ後ろを歩く俺は、あの時の事を思い出す。あの時、俺は、出口に向かって車椅子を押す木綿子の手を掴み、振り向いて木綿子を見上げ、もう片方の手で外来待受のベンチを指差したのだ。そして木綿子は、仕方ないなぁと言う表情をすると、ベンチの方へ車椅子を方向転換したのだった。今まさに同じ光景が目の前で起きている。


 若き俺は、ベンチに座り直し、すぐ真横のベンチをぽんぽんっと優しく叩き、木綿子を促して隣に座らせる。俺はそのすぐ後ろのベンチに腰掛ける。今思うと、木綿子のたまに見せる少し困った顔も好きだったな…


「どうしたの?総ちゃん。今日なんか変だよ」

 若き俺は無言だ。

「入院してて、寂しくなっちゃったのかな?」木綿子は懸命に若き俺をあやしている。


「あっ」思わず声に出てしまったが、当たり前のように二人には、この声は届いていない。俺は、この時、不意に、ひとつの答えのようなものがわかった気がした…そうだ…俺にとっての木綿子は、自分が素のままでいられる唯一の存在だったんじゃないかって。強がりで、自信家で、見栄っ張りで、かっこつけで、お人良いしで、でも、寂しがり屋で…甘えん坊で…そんなカッコ悪い自分も木綿子の前では見せることができる。自分のままでいられる人、それが木綿子だったって気がする。それにしても、言葉だけ並べると本当に最低な男だな俺…


 そんな事を俺が考えているうちも、目の前の二人のやり取りは続く。っていうか…見ている俺のほうがとてつもなく恥ずかしいから、すっ飛ばしてもいいか?


 やっぱり、ダメか…


「わかんない…でも今はまだ、木綿と一緒にいたい」

「でも、もう帰らないと…おうちにつく前に電車なくなっちゃうよ」

「うん…でも、お願い。もう少しだけ、一緒にいて…」あの時の俺は、優しく両腕を木綿子の首に回して抱きついた。

「もう…しょうがないなぁ、総ちゃんは」と言って木綿子はギュっと俺を受け止めながら、ゆっくりと、そしてやさしく何度も俺の髪の毛を撫でてくれた。


 しばらくの間、静かで穏やかな時間が流れたあと、木綿子は「総ちゃん。そろそろ…ほんとにもう、行かなくちゃ」

 俺は木綿子のとても良い香りのする柔らかい髪の毛と肩の間で、ぶんぶんと頭を横に振る。

「もう、ほんとにぃ」困り果てた声を上げる木綿子は続ける。「じゃぁ、どうしたら、許してくれる?」





「ちゅう、して…」

「もう、総ちゃん…私なんか早く、忘れなくちゃダメだよ。総ちゃんだったらもっといい人、きっといるから」

 またも頭を横に振る。

「お願い…木綿。そうしたら、ちゃんと病室戻るから。お願い…」

「ほんと?」

「うん…」

「ほんとに、ほんと?」

「うん。ほんと」

 次の瞬間、木綿子は俺の肩を持って、俺の事を少し潤んだ瞳で見つめ、そのあと、両手で俺の頬をやさしく包み、

「約束だよ?」と言って、俺が頷くのを待って、今度は、木綿子が俺の首に両手を回して、キスをしてくれた。あの時の俺は、二人の呼吸と心音が同調するような、この口づけが永遠に続いてくれればと、本気で願った。




「どうちて、こんなにもスキなのに、いっしょにいられないの?」

「そりゃ、この時の木綿子だって、まぁ色々あったんだろうな、もしかしたら、俺の知らないところで誰かと付き合ってたかもしれないし…これは、木綿子に聞いてみなきゃわからないけど、俺に対しての罪悪感みたいなものもあったかもしれないからな………って、おいっ?………」誰だよ?俺に質問しているのは???


 ふと、俺が座るベンチの左横に気配を感じる。そして、ベンチの上に置いた左手の小指には、微かな感触もあった。俺の左の小指は小さな手にそっと握られていた。


 心を落ち着かせつつ、左側を見下ろすと…そこには、そう、あの時、木綿子の実家前で出会った少女が木綿子が選びそうな可愛いワンピースに身を包みベンチに座って、足をぶらつかせながら、二人の口づけを見守っていた。


「おうおうおう」

 俺は変な声を上げながら慌てて、左肘をベンチにつきつつ、両手で少女の目を覆い隠した。

「いやーだー…どうちて、めかくちするのー?」

「こんな、恥ずかしいもの、見ちゃいかんだろ」

「はずかちいことなの?わたち、ちってるよ。キスっていうんでしょ?」

「他の人に見られるのはちょっと、恥ずかしいんだよ」

「ふ~ん…そうなんだ…でも…これって、あいちあってるひとがするとてもすてきなことなんじゃないの?」

「それはそうなんだけど…この時は、俺が、木綿子に我侭言ってせがんだんだよ。木綿子の気持ちもわからないのに…」

「そうなんだ…」と少しさみしげに言って少女は、俺の両腕を下からやさしく掴み直すと、そーっと、俺の手を下ろさせ、「そうたろう、だっこちて」とせがんだ。

「なんだ?寂しくなったのか?」

「うん」と少女は頷く。

「ごめんな…俺が不甲斐なくて…」と言い少女を膝の上に乗せて、その小さな体に腕を回し、少女の両手を握ってやり、二人で前の若い二人を見守った。


 目の前の俺にとっての、悠久を祈る時間もついに終りを告げる。


 そっと、唇を離して俺の髪を数度、撫でた木綿子の瞳には、涙が揺れていた。

「総ちゃん。ゴメンね…今日は、帰るね…」

「うん」と頷く若き俺。


 とうとう、この時間の終わりが近づいて来た。やっぱり、見ているだけでは辛くなってくる。


「おいっ!総太郎!お前、本当にこのまま、木綿子、帰しちゃっていいのかよ。やり直したいって、ちゃんと伝えなきゃダメだろ!」と大声で言ってしまった。もちろん俺の声があいつに届くことは無かった。


 さみしげな表情で車椅子に座り、「頑張って、早く治すんだよ?そしたら、また、みんなで遊びいこ?」と言って、笑う木綿子に、頷きながら小さく手を振って見送る俺。


「このあと、すっげー落ち込んだんだよ…あんなにも、木綿子を困らせたのも初めてだったし、色々考えたら、嫌われちゃったかな…なんて考えたりしてさ…」


 見るからに落胆した表情の俺がゆっくりと車椅子の車輪を回しながら、目の前を通り過ぎて、エレベーターホールの方へ消えていった。


「そういえば、お前、喋れるのな?あの時は一言も喋らなかったのに…それに、俺の名前も…」

「うん。あのときはねぼけてたみたい…でも、そうたろうのことは、ちってるよ」

「お前は、俺の子なのか?」

「う~ん…そうたろうは、わたちのパパだけど…パパじゃない…わたち、ママがいないの…わたち、まいごなの…」

「ママは木綿子じゃないのか?」

「わからない…おもいだせないの…ねえ、そうたろう。わたちといっしょに、ママをさがちて」

「お前、自分の名前わかるか?」

 首を横に振る少女…

「そっか…それは難儀だな…」この子のママはきっと木綿子だ…こんなにも似ているんだから、それは間違いない…でも、どういうことなんだろうと頭をかしげる。俺のことを知っていて、俺はパパだけど、パパじゃなくて、ママがいないと言うことの意味がさっぱりわからなかった…


「それにしても、名前がないのは、不便だな…いつまでもお前ってわけにもいかないしな…」

「わたちは、なんでもいいよ…」


 俺は、この時間旅行で、この子に出会った事に何か意味があるような気がしてならなかった。何か重要な理由があるような…この子が俺たちの現在、過去、未来の鍵を握っているような、そんな気がした…

「『いちる』これをお前の仮のお名前にしよう」そう、文字通り、俺の一縷いちるの望みをこの子に託し、そう名づけた。

「『いちる』?かわいいおなまえだね!わたち、とてもスキだよ…」

「それじゃ、めでたくお名前も決まったところで、行くか?」

「え?どこにいくの?」

「ちっと、確かめたいことがある」俺はいちるを抱きかかえて立たせてから、小さな手をしっかりと握り歩き出す。やっぱり、片松葉の設定いらなくね…まぁ、それはいいとしても、とにかく目標はあれの前だ。


 あれは、玄関の前で夜の街の姿を映し出していた。そう、奴が待っている場所。


「おう、終わったか?」鏡の向こうの俺は言う。

「ああ、終わったよ…あのままな」

「じゃ、こっちへ戻ってこいよ。そそ、言いそびれていたが、お前が戻りたいと時計に念じれば、こっちに戻れるから、まっ、そっちの世界で眠っちまうと、強制的に戻されるけどな…ていうかまた釣り上げてやろうか?」

「いや、それはもういいや。それだけわかれば、自分で帰れる。っと、その前にちょっと確認したいことがある…おい、いちる」鏡の外側で待たしていた、いちるを鏡の前に立たせる。

「なんだよ?」とめんどくさそうな態度をする向こうの俺。

「やっぱりか…」いちるの両肩に手を置きながら言う俺。

「だから、なんだっていうんだ」

「今、俺の前には、この前、出会った少女が立ってんだよ。やっぱりお前には見えないみたいだな…」

「ああ、なんにも見えねえな。お前の手の位置が、少し不自然に見えるくらいだわ」

「そっか、お前にも見えるのかを確認したかっただけだよ」

「なんか、わけわからねえわ…で、なんなんだよ?」

「俺は、こっちでも明確な目的が出来た。この子の探しものの手伝いをしてやりたいと思っている」

「たくっ、相変わらずのお人好しだな…お前。関係のないものにあんまり頭を突っ込むんじゃねえ!ここまで来ると、もう、言葉もねえわ…お前のそういう所も人生が狂っちまう原因なんじゃねえか?」

「だから、うるさいよ。お前。関係ないかどうかは、俺が決める」俺はあえて、いちるが、俺と木綿子の子供かもしれないことと、ママを探していることを隠した。相手が認識できていない状況で、変な詮索をされたくないっていうのと、あいつの知らないことの一つや二つないとやってられないっていうのもあったのだと思う。


 あいつは、ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。

「じゃ、あと、ちょっとしたら戻るから」と言って、俺は、いちるの手を引いて鏡から離れた。


 帰りのエレベーターはいちると手を繋ぎながら、六階の病室の自分のベッド?に戻った。部屋の連中は各自のベッドで、テレビを見たり、自由にしているのだろう…静かなものだ。

「あのさ、いちる。さっきから気にはなっていたんだが…お前、ほとんどの言葉しゃべれるのに『し』の発音だけできないのな?」

「ち?」

「『ち』じゃなくて『し』」

「わたち、わかんない…」

「まぁいいか?わかんねえわけじゃねえしな。まぁそのうち治るだろ」

「うん」

「いちる、お前も疲れただろ?俺がいてやるから、ベッドで眠っていいぞ」

「そうたろう、わたちがねむるまで、となりにいてくれる?」

「ああ、もちろんだよ」

「ぜったいだよ」

「ああ、安心して休みな」

「うん。そうたろう、ありがと、おやすみなさい」

「はい、おやすみ」


 俺は、いちるに添い寝する形で横になる。毛布をかけてやり、柔らかい、いちるの髪をそっと撫ででやりながら、寝かしつける…本当に自分の子供がいたのならば、俺はこんなふうに寝かしつけるのかな…なんて考えてしまう。

 それにしても、いちるの髪のするするとなめらかで絹のような質感は、まるで木綿子の髪を撫でていると錯覚するほど木綿子の髪の毛と似ていた。


 しばらくすると、いちるは穏やかな寝息を立てて眠りについた。さぁ次は…隣でふてくされているこいつだ。


 シャッと、俺と奴の間を隔てるカーテンを勢いよく開けて、案の定、銷沈しきり、横たわっている若き俺は、こちらに気づくこともなく、ぼーっと天井を見上げている。


 どうしたものか…あんなことを言っては見たけれど、こいつの運命を変えるいとぐちすら掴めない…そもそも、今、ここにいる俺は、こいつに直接、干渉することは叶わない。それは、前回と今回で確認した。しかし…何らかな方法を使って、ターニングポイントとなるところで、うまくサポートすることはできないものだろうか…幸いなことに、自分に直接関係ないものには、触れることができる。松葉杖とかな…という事で可能性はゼロじゃないような気もする。これから、何度、こっちに来れるかはわからないが…絶対的なターニングポイントについては、思い当たる節があるにはある。こいつにとってのラストチャンスはそこになる気がする…それにしても、自分でいうのもなんだが…こいつ、ほんとに、最後の最後の押しが足りないっていうか…ヘタレというか…あそこまで行ったなら、やり直そうの一言ぐらい言えないのかね…まぁ、それでも、今回は頑張ったほうだとは思うが…なんにせよ、俺は俺だからな…仕方ないと言えば仕方ないけどな……


「はぁ~あ。どうすっかなぁ?」と言いながら、今後はそっとカーテンを引いて、自分のベッド?に戻り、また、いちるの隣に横になる。安心しきった、いちるの寝顔を見つめながら、木綿子の顔を思い出す。こうやって、落ち着いて考えてみると、俺は木綿子のことを本当に好きだったんだな…とつくづく思う。女の子とお付き合いをしたのは、木綿子が初めてというわけではない…確かに、あの後もそんなに多くはないものの、いろんな女の子とお付き合いもした。でも…今でも、はっきりと言えることは、木綿子ほど好きになった人は後にも先にも一人もいない…好きなところを上げれば、きりがなくなる。明るい性格も、ちょっと意地悪なところも、我侭で振り回す所も、少し甘えたような声も…考えると次々に浮かんでくる。しかし、嫌いなところを上げるとなる極端に難易度が上がる。俺は、木綿子に関しては全てを許せてしまうから。


 ねえ?なぜ君は俺の前からいなくなってしまったんだい?

 なぁ?なぜ、お前は、木綿子の手を離してしまったんだい?


 急に木綿子を抱きしめたくなった…

 と、そのとき、右腕に、いちるの両腕が巻きついて、ぎゅーっと抱きしめられた。


 いちるの穏やかな鼓動と、俺の鼓動が同調していき、俺は徐々に眠りに落ちていった…


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